高校一年時の初夏。制服の袖の長さが半分になってから数日経ってのこと。
自分のセーラーと、自分と向かい合っている『奴』のYシャツが、屋上に吹く風に煽られて僅かになびいている。
そんな中、奴が口を開いたのは、あたしがしっかりと照準を合わせた後だった。
「ねぇ、えみか」
あたしは、あたしを呼ぶ時のそれを、いきなり呼び捨てに呼び変えた男、増田京介に向かって。
「あのさ、」
悟られない程度に片足を構えて。
「オレと、つきあっ……ぐはッ!」
もう一方の足が地を離れたのとほぼ同時に、奴の身体が地面に倒れた。
そしてあたしは決まりきったように言う。
五秒以内に立ち上がれたら、つきあってやる。
高校に上がってから、度々告白されるようになった。
だけども、そのことにイマイチ興味を持てなかったあたしは、至ってシンプル(でちょっと乱暴)な方法で、その人達に返事を出してきた。
勿論、誰彼かまわず蹴り倒すことが目的だった訳じゃないから、五秒以内に起き上がる奴がいたら、ちゃんと付き合うつもりでいたのだけど。
強さこそ全て、とか言って、強い奴ならなんでもいいや、と特に拘りもせず、ぼんやり思っていた。
あたしの本気の蹴りを受けて五秒以内に立ち上がる奴なんて、そうそう居ないとタカをくくってたのかもしれない。
が、まさか本当に自分が誰かと付き合うことになるなんて、実は微塵も考えていなかった、ということに気付いたのは、『奴』を蹴り倒した後だった。
もう、遅い。
事切れたかにも思えた細っちい背中が、ぴくりと一回震えた後、やがて。
「じゃ、今日からオレ、えみかの彼氏ね」
起き上がってからそう宣言するまで、5秒どころか3秒もかからなかった彼は、口から血反吐流しながら、超嬉しそうに笑っていた。
◇
あたしは重いため息とともに、キッチンの冷蔵庫を開けた。
取り出した牛乳を自分のマグに注ぎながら、あの瞬間の、死にそうに輝いた笑顔がフラッシュバックする。
あれから一週間ばかり経って分かったのだが、奴と付き合うってのは想像以上にウザかった。
奴は先の宣言を貫こうとしているのか、学校で顔を合わせるとすぐさまベタベタとくっついて来る。あたしはそれを扱いあぐねるばかりで。
加えて、人前にも関わらず、図々しく肩を抱いてくる奴に、こっちは毎日回し蹴りを喰らわせるという始末だった。
えみかちゃーん、ちゅーしよー? とかなんとかほざくにやけた顔面に、何度パンチを入れたことか。
一発本気で蹴りを入れた後とはいえ、いい加減に怖気づくんじゃないかと思ったのだけど、その気配は一向に無し。
むしろ、諦めずに懐いてくる彼はどうにも一生懸命で。
「あー……。意味わかんない」
「何が」
二度目のため息とともに漏れ出てしまったあたしの呟きを、テレビに集中してた兄が耳聡く聞きつけた。
「な、なんでもない」
「あー、そー……」
それ以上の興味は湧かないらしく、兄の視線は依然として画面に注がれたままだったが。
「……お兄ちゃんはさ、よく知らない人に告られたときどうする?」
「付き合う」
微塵の迷いもなく返ってきた返事にあたしは頭を抱える。
「ていうか、俺のこの類稀な美しさを持つ容姿に惹かれない女なんて居ない」
あー、そーですか。
相変わらず視線の先を変えることもなく、そうのたまった兄にあたしは閉口せざるを得ない。
その自慢の顔でモテまくって、来るもの拒まず去る者追わず、それ故に特定の彼女無し、なお兄ちゃんには関係ない話でしたね。
「あー、お前告られたんだっけ? お前に告る奴なんて、よっぽど物好きだよな」
その語尾にわざとらしくカッコ付きの笑の字が付いているの気がして、あたしはますます面白くない気分になった。
てか、もう知ってたのか。
友人の多い兄のことだから当然か。一週間あれば本人の興味の有無に関わらず、お兄ちゃんの所まで話が行くだろうし。
やっぱ聞かなきゃよかった、と後悔しながら牛乳パックを冷蔵庫に戻した。
「お前、犬飼いたい、とか言ってたし、いいんじゃね?」
「は? そんな事言ったっけ?」
「知らね」
適当かい、と心の中だけでツッコんどいて、私は牛乳で満たされたマグの中身を一気に飲み干し、さっさと自分の部屋に戻ることにした。
奴が尻尾を振って懐いてくる様が脳裏をかすめたのは気の所為だと思いたい。それが妙に奴のイメージにピッタリだったことも。
後から『彼氏』の犬扱いについて否定しとくべきだったかと思い出したけど、ま、いっか。