今日はとても珍しいことにバスケ部の練習が無かったので、それが理由という訳でもないが私は沼地とだらだらと喋っていた。というか、私をだらだらと引き留めていたのは沼地の方だった気がする。そうでもなければ、オフの日の私は積読本の消化に忙しい筈だから。まあ、無理に理由を付けるのもわざとらしいが、放課後の教室に二人きり、というのはどこか特有の贅沢な時間の使い方をしている気もして嫌いじゃない。
しかし、それは穏やかに事が済めば、の話で。
「神原」
「なんだよ」
「ん」
会話の途中で、沼地はやけに愛想が良くない面を上げた。
人を顎で指すのは印象が悪い、と注意したくもなったが飲み込んで、示す方へと視線を合わせるとその理由も得心がいった。
彼女が顎を使った先には、忍野扇が立っていた。
◇
「やあやあ、駿河先輩。すみませんねえ、沼地先輩とのご歓談中にお邪魔してしまって」
「そういうんじゃないよ」
「歓談じゃなくて逢引でした? いいなあ、偶には僕とも逢引してくださいよ」
「そういうんじゃない感が強まったよ」
教室の中に一人残る沼地に背を向けて廊下に出ると、扇くんはにこやかに、かつ図々しいそれで私を迎えた。冗談か社交辞令か(この後輩がそんなものを知っているか、否、知っていても会話に混ぜてくるかがそもそも怪しいが)どちらにしても私に向けられるそれにいい気はしないのが正直なところだ。
聞こえてないよな、沼地に。
あえて後ろを振り向くことはせず、扇くんにさっさと本題に入るように要求する。
「で、なんだ。今日は何の用だ?」
年上の先輩にしては随分な物言いであることは自覚しているが、普段の彼の発言を鑑みると「今日は何の用で私を馬鹿にしに来たんだ?」と聞きたいくらいではある。口から出たのは我ながら随分とソフトな発問だった。
しかし彼、私なんかの圧には(多少柔らかくしたとは言え)一歩も引かないのだ。
「なんだって、酷いなあ。用があるのは駿河先輩の方でしょう? 先輩、僕に何か訊くことがあるでしょう?
「何って、今日は十月三十一日、ハロウィンですよ。
「え? まさかご存じ無いんですか? 駿河先輩ともあろうお方が、ご存じ無いんですか?
「いえいえ、そんな時代錯誤な考えに囚われているのは駿河先輩くらいです。無神論者が多い現代日本でもハロウィンは定着しておりますよ。
「ほらほら、僕に訊いてくださいよ。聞くことが僕のお仕事ですけど、偶には訊かれる側にも立ってみたっていいじゃないですか。
「トリックオアトリートって。
「あれ、英単語の『Trick』と『Treat』の頭文字が掛け合わされているから何かいい感じに聞こえるのであって、日本語訳の『お菓子か悪戯か』だと何もいい感じしませんよね。韻すら踏んでません。個人的には『お菓子か犯すか』の方がうまいこと言えてると思うのですが」
「うまくないよ。お菓子なのに」
今この時、それを言わせようとしてる奴に向かってそんな言い辛くなるような知識を披露するな。
わざわざそんなことを聞かせる為に、あるいは訊かれる為に三年生の教室まで訪ねて来たのだとしたら(そんな可能性低いことは十分承知だが)、後輩の意を無下にするのも些か先輩として小さい気もする。
「分かったよ、訊けばいいんだろ訊けば……トリックオアトリート?」
「あ、お菓子なら持ってません」
「はあ!? きみが訊けって言ったんじゃないか!」
「言いました。でも持ってません。なので思う存分悪戯を」
「しないぞ。異性の先輩からの悪戯を所望するって洒落にならないんだよ」
「駿河先輩のファンたるもの、いついかなる時に悪戯されても良いように、僕はお菓子を持ち歩いてないんですよ」
「持ち歩く努力ならともかく持ち歩かない努力なんて聞いたことがないよ」
ダイエット中の女子か、きみは。
「いや、だから僕は男の子ですって」
なんて言いながらその男の子、忍野扇くんは唐突に私の左胸に手を伸ばした。
むぎゅ。
「何してる」
「ご心配無く。僕は駿河先輩の制服の胸ポケットに用事があるのであって、駿河先輩の胸そのものにはそこまで興味ありません」
「それはそれで心配だよ……何を入れたんだ?」
「飴です。お菓子です」
「きみは本当に平気で嘘を吐くな」
「え? 正真正銘、何の変哲も無い飴ですよ?」
「いや、そういう意味じゃなくて、今きみ、お菓子は持ってないって話をしてたよな?」
「男は平気で嘘を吐く生き物なんですよ」
「許可も無く女子の胸ポケットに飴をねじ込んでくるのは、男の子としてどうなんだ」
「お口に直接入れた方が良かったですか?」
「きみの発言、色々とギリギリだな」
ギリギリな悪戯だな。
◇
厄介な後輩が去っていくのをしっかり見届け、私は教室に戻る。
ぼちぼち下校時間だ。さっきの扇くんではないが、もう十月も最終日。日が落ちるのが早くなった気がする。
「帰るか、沼地」
「…………」
返事無し。無視された。
私の席に座り込んでいる彼女の首は窓側に向いていて、何をするでもなくただ外を眺めている。
机の上にはボトルガム。ハロウィンだから――という訳ではなく、いつもの彼女の嗜好だろう。恐らく噛んだガムを出した後であろう包み紙を、彼女は目線を合わせないまま教室のゴミ箱に向って投げた。一発で中に入る。どこかバスケットボールを連想させる動作。
「なあ、沼地――」
私が話しかけようとした女の子、沼地蠟花はこっちを振り向いて、返事の代わりに私の胸に手を伸ばした。
思わず身を引く。沼地は一歩進む。自分の背が教室の壁に当たる。沼地はそれでも追ってきた。逃げられなかった。
むぎゅ。
「!? 何、して」
「悪戯」
トリックオアトリートですら無かった。
一択だった。
しかも今度の用事はポケットじゃなかった。ダイレクトにおっぱいを触っている。しかも左胸だけではなく、両胸。
放課後の二人きりの教室で、しかしいつ誰が覗いてくるかも分からない状況下で、私の両胸に自分の両手を宛がう沼地。このよく分からない状況を一言で説明しては貰えたが、私の目を見てはっきりと言っては貰えたが、はっきり言われたところでなんだというのだ。
ギリギリな悪戯――ギリギリでアウトだろう、これは。
彼女の白い手は、女子のそれと不似合いなくらいに力強く乳房を鷲掴みにしている。握り込む、と表現しても良いかもしれない。制服の形が不自然に歪む様がどこかアンバランスだ。
「ぬ、沼地……痛いから止め」
「何? おっぱい張ってるの? 生理かい?」
「違う。飴が」
扇くんに突っ込まれた飴が。
ポケットに潜む硬い感触が沼地の掌に押され、胸に食い込む。はっきりと痛い。乳腺を圧迫されている故のぼんやりとした痛みとは違って確実な痛みがある。それは同時に彼女の掌も押し返している筈だから、分かっているだろうに。
「飴?」
沼地はわざとらしくとぼけた。
こちらの抵抗が通る前に彼女の右手は一度私の左胸から離れ、自分の制服のポケットの中へ。出てきた掌の中には飴の袋が握られていた。
痛みから解放された私が気を緩める間もなく、彼女は手際良く包みを剥いて、人差し指と親指で飴を摘み上げ、それが私の口の中へ。
お菓子も悪戯も――
「――いや、そういう意味じゃなくて」
舌で味を感じる前に、沼地の両手はまた私の胸の上に戻った。のんびり屋さんの彼女の腕が私の味蕾より早く仕事をするなんて。
「美味しい?」
「だから、違っ……痛い」
「そんな切なげに息吐かれちゃったら説得力ないぜ。甘い匂いするし」
「……っ」
このまま口の中の味まで舐めとられるんじゃないか。そんなありえない想像までしてしまうくらいに沼地は近かった。その顔には笑顔があったかどうか。先程の会話で終始笑顔だった扇くんを思い出す。
私の背は震えた。
痛みとその他諸々の感覚に襲われ歯を食いしばって耐えようとしたが、口の中の飴に邪魔をされた。この教室で奴を調子に乗せてはいけない。逃しきれずに太腿をすり合わせそうになるのも堪える。
そして、自分はどうして無理矢理にでも彼女の手を払いのけないのか、その理由を考えるのが一番嫌だった。
そのままたっぷり十五分程、よく分からないままに、私は沼地に揉まれ続けた。下校時刻を知らせる鐘が鳴ったのが私達を割く合図だっただろうか。
「……帰るか」
どちらからともなく言いだした。
口の中の味は溶けきっていた。
◇
それからどうして帰路についたのか。
沼地の気まぐれの理由は分からないままだったが、別れ際にはちゃんと笑顔があったように思う。
翌日の朝、私は重い気持ちで目が覚めた。気持ちだけじゃない、実際に胸が重い(ような気がする)。前日の名残か、自分で少し触れただけでじんわりと痛んだ。
制服に袖を通しながら、例の飴がまだ胸ポケットに入ったままになっていることを思い出す。くしゃくしゃに皺が寄った飴の包み。扇くんから貰ったこれは色んな意味で食べ辛くなってしまった――と考えかけたところで、思い直して口に入れる。
甘かった。
そこで忍野扇ではなく沼地蠟花の顔を思い浮かべる方がどうかしているだろう。