「ホッピーと、鶏皮ポン酢と、あとたこわさお願いします」
「えっと……ジンジャーエール」
耳慣れないメニューに被さった自分の声がやけに子供染みて聞こえた。そんななかったにも等しい小さな劣等感を察されたのだろうか。注文を切った店員さんが去った後で、
「神原も飲んだら?」
と、向かいの席からあまり褒められない誘いが飛んでくる。それは本当に、深い意味は無さそうな声音だった。だけど、
「あと一年したらな」
と、私は適当にあしらう。私は良い大人じゃないので――それこそ詐欺師でもないので未成年の前でも酒を飲みますよ、と茶目っ気と自虐が多分に含まれた友人の宣言を聞いて、羨ましいと思った気持ちが少しもなかった訳ではない。しかし、私の初めては戦場ヶ原先輩や阿良々木先輩に捧げたい、という期待を捨て切れていた訳でもなかった。あの人達は既に初めてを済ませていると聞いているが、あわよくば、二人同時のタイミングが理想だ。
「そういうこと私の前で言う?」
「いや、決してあなたが役不足だと言っている訳ではないのだ。気を悪くしたのなら謝る」
「その誤用、久しぶりに聞いたわ」
彼女が呆れたように目を細めたタイミングで、大きなグラスが二つ、私達のテーブルにやってきた。私の前に置かれたグラスの中身は薄い琥珀色の炭酸飲料と大きな氷で満たされていた。一方、相手の前に置かれたものは透明で、量も半分程度しか入っていない。不思議に思っていると、彼女は慣れた手付きで、一緒にやってきた褐色の瓶から何かを注ぎ始めた。あっという間にビールのような見た目になったそれを、ぐるぐるとマドラーで掻き回している。
「はい。じゃあお疲れ様です」
「うん。お疲れ」
よく分からないまま、促されるままグラスをぶつけて、二人で喉を鳴らした。私のジンジャーエールにはストローが刺さっていたけれど、相手の真似をしてグラスの縁に唇を付けてみる。勢い良く胃に落ちてくる炭酸は少しキツくて鼻の奥がツンと痛んだ。
「果たして一年後、本当に私とこうして飲んでくれるのかな。神原くんは」
なんて、まだ始まったばかりだというのに、アルコールの味を知る彼女は随分と辛気くさいことを言う。
玄関のドアを閉めた時から不穏な空気は感じていた。
投げやりにチェーンロックが閉まって、重い足音が廊下を滑る。おかえり、と敢えて明るい声を作ったのは決して嫌みではなかった筈なのだが、相手から返ってきたのは表情筋の動きを最低限に留められた故に絞られたボリュームのそれだった。
一緒にごはんを食べなきゃ家族じゃない、なんていうのも乱暴な話だ――と、言っていたのは私の母親だけど、それはそれとして、しかし私達は夕食のタイミングを別にすることが多かった。なので私の胃は既に満たされていたのだけれど、返ってきたあいつの腹具合はそうではなさそうだったので、炊飯器の中に炊きあがって二時間は経ってしまったお米で良ければ、まだ残っている筈だと伝えたのだが、要らないとすげなく返された。保温のスイッチをオフにする私の口元が少し尖っていたとしても、それは私だけの所為ではないと主張したい。
まあ、そこまでは良い。だけど、続いて相手が持ち帰って来たドラッグストアの袋からゼリー飲料が出てきた時は面食らった。いやいや、待て待て。流石にそれはどうかと思う。いやしかし、一緒に食卓を作る努力をしていない私がそこまで口を出すのもお節介が過ぎるのではないか? ましてや見るからに機嫌が悪そうなのに。と、一度冷静になろうと引いてしまったのが悪かった。迷っている間に、流動食を手早く腹に納めた後、バスルームへと向かう彼女の背を見送ることになってしまい、ちょっとだけ後悔が持ち上がる。どうせ考えることは向いていないのだから、さっさと動いてしまえば良かったのだ。
シャワーが床を叩く音を聞きながら、ため息。
手慰みに残された買い物袋の中を覗くと、中には新品のボディクリームがあった。洗面所に常備しているものと同じメーカーのそれは、もうすぐ底を突きそうだった筈だと思い出す。
「神原」
振り向けば、タオルを頭に巻いたままの彼女が、背後に立っていた。すると我ながら単純なもので、濡れた髪と僅かに赤みが差している頬が、少しだけ私の気持ちを軽くさせた。右の手に件の、開封済みのクリームのボトルが握られていたのは正直意外だったが。なので、私は大人しく背を向ける。伸びた髪を首から横に流す。いつものルーチンに従って。
「……なあ」
「ん?」
「機嫌が悪かったんじゃないのか?」
「……まあ」
背中越しに相手の気持ちを伺ってみたが、どうも上手く分からない。残り少ないクリームを乗せた指が、私の背を滑る。
「戦場ヶ原先輩について?」
突然投げた私の質問を、神原さんは小首を傾げながら復唱した。
「うん。神原さんから見て、戦場ヶ原さんってどう見えるのか、ちょっと気になって。それこそ中学校の頃が顕著だったけれど、後輩の女の子から凄く人気だったでしょ?」
私は私なりにオブラートに包んで伝えたつもりだったのだけれど、結果的にぼんやりとした物言いになってしまった。それが不味かったのか、基本的に溌溂としたイメージを損ねない筈の彼女の眉間に、少しだけ皺が寄る。少なからず感じるところがあったらしく、神原さんは、
「羽川先輩程の慧眼を持っていながら、計り間違いをするとは意外だな。私をただのレズだと思ったら大間違いだぞ。私は私がレズだから戦場ヶ原先輩が好きなのではなく、あの方が戦場ヶ原先輩だから戦場ヶ原先輩が好きなのだ」
と、私に言った。ひとつの台詞に三度も戦場ヶ原さんの名前が登場し、指示語も沢山ちりばめられているそれは、一見すると雑多な印象が目立つ。なのに、どこか芯の通った強さがあった。
そうして胸を張る様は堂々としていて、潔くて、それらは私にないものだな、と感じさせられる。同時に、言う相手を間違えている感覚も、どうしたって感じずにはいられないけれど……。
「……うん。ごめんなさい、失言だったね」
「なあに、大過ない。最終的に分かって貰えればそれで良い」
と、力強く頷く神原さんは、その態度が学校の先輩相手だという点だけを差し引けば、素直に格好良かったと思う。
成程、昔の戦場ヶ原さんに負けず劣らず、年下にモテる筈だ。