至情には未だ遠い #1

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 愛とはなんだろうか。
 辞書の中で説明されているそれは慈しみの心だったりするし、俺にとってのそれは遊び相手に囁くものだったりする。そして、この世界で愛と呼ばれるそれは、下心なく無償で与えるものが一番美しいとされているらしい。
 不肖の兄上曰く、紋章を持って生まれた俺は、父上と母上にそれはそれは愛されて育ったのだと言う。紋章を持たない兄からすれば、その見立ては正しかったのだろう。しかし、その愛とやらが、兄上に俺を井戸に突き落とさせたり、冬の山に打ち捨てさせたりしたのだとすれば、それはなんてくだらないものなのだろう、と俺は思わずにはいられない。一方で、俺は幼い頃から沢山の女性に言い寄られた。ともすれば、人よりも沢山の愛を貰ったと言えるかもしれない。ただし、そんな俺がお返しに愛を囁いてきた中で知ったのは、自分が貰ってきた数々のそれの中に、美しいとされるものは数える程もなかった、という物悲しい事実だけだった。全く、笑い話にもならない。
「先生、ちょっと質問があるんですけど」
 と、俺に声を掛けられて振り向いた先生は、珍しいこともあるもんだ、なんて言いたげに瞼を少し持ち上げた。いつも涼しい顔をして何を考えているか分からない、と評判のこの元傭兵先生は、俺の前ではこうして表情を変えてみせることがあるが……いや、別に嬉しかない。大抵は今みたいに、俺のろくでもなさを指摘するようなタイミングで見せる顔だからだ。
「いやそんな、露骨に意外そうな顔しないでくださいよ。俺だって、真面目に勉強しなきゃなーって時くらいありますって。そもそも俺、それが理由でわざわざあんたの学級に編入してきた訳ですし」
 肩を竦めて見せると、それは悪かった、と申し訳なさそうに先生は首を垂れた。いやいや、かえって嫌味っぽいですよ、その反応は。
「で、質問。良いですか? えーっと、この章。ここんところなんですけど――」
 古ぼけて黄ばんだページの一節を指でなぞる。先生の視線を人差し指で導いた。すると、文字を追う為に顰められていた先生の眉根がまた寄せられた。そこには愛を語らう文字の羅列があったからだ。さもありなん。俺が相手に広げて見せた本は小難しい魔導書なんかではなく、読み古された小説の本だったのだから、先生が変な顔をするのも無理は無いだろう。それこそ、誰でも一度はタイトルを耳にしたことがあるだろう恋愛物語。あまりに有名なものだから、あらゆる娯楽の類が削ぎ落されたガルグ=マク大修道院の書庫において、本棚を埋めることを許された稀有な一冊。言い換えれば、その手の話に興味深々の年頃であるところの生徒達に、教団が閲覧させても良いとした、お固くまとまった物語ってところか。
「これ。女の子に愛を語らう男の気持ち。先生は、どう思います?」
「……シルヴァン。自分は国語を担当する教師じゃない」
「そりゃ勿論知ってますよ。だからこそ、です」
 そんなことが分からない程、俺も馬鹿じゃない。悪戯心が全く無かったと言えば嘘になるが、かといって悪ふざけという訳でもなかった。あんたみたいな人間が、それこそ貴族の家柄にも紋章の血筋にも縛られずに生きてきた奴なら、愛とか呼ばれているそれを説けるものなのか。出来るもんなら教えてくれよ――ってな具合に。
「教師じゃなく、一人の大人としてのあんたの意見を聞きたいんですよ」
 ねえ、先生。先生にとって愛って、なんですか?
「……分かった」
 なるべく真意を削った俺の軽薄な物言いに、先生は少し沈黙を置いた後、真剣な様子で頷いた。
「次の授業までに読んでおくよ」
 そうして俺の手から本を抜く。その姿は真面目な新任教師そのもの。
「流石ですねえ。ま、確かに授業とはまーったく関係の無い質問ですし、気が向いた時に考えてくれれば良いんで。よろしくお願いしますよ、先生」
 先生と違い、不真面目な生徒である俺は、調子良く笑って見せた。言いながら、実際のところ、俺は期待していないのだろう、とも思う。生徒の質問を真摯に受け止めようとする先生には悪いが、俺はきっと、先生から平々凡々な回答を引き出したいと願っている。如何にも特別そうな人間から、ありふれたつまらない愛の定義をもっともらしく解かれて、幻滅したい。俺とは別の世界を生きてきた人が――それこそ、女神様の信仰の外にいた人が、ただの人間だったと知って安心したいのかもしれない――なんてね。俺はいつからこんなどうしようもないことを考えるようになったんだか。
「大人、か。大人なのかな、自分は」
 不意に、先生の澄んだ声が、俺を暗い思考の海から引き戻した。
「教鞭を執ってるんだし、少なくとも俺達よりは大人なんじゃないですかね」
 伏せていた顔を上げると、先生の手が本の表紙を確かめるように撫でていた。そんなに熱心に撫でくり回したって、中身は分からないと思いますけど――なんて茶化すと、先生は困ったように眉を下げた。それまでの人生を感じさせない、まるで生まれたばかりのような白い肌が、古ぼけた装丁の上で浮き出て見えていた。
「そういえば、先生っておいくつなんでしたっけ?」
「知らない」
「は? え。知らない? ……って、そんなことあるんですか? やっぱ、あんたって不思議な人だなあ」

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