至情には未だ遠い

07

 新しい辺境伯の放蕩癖は折り紙付きだ。そんな噂話が耳を掠めたことだって一度や二度じゃないし、事実、家を継いで暫く経つが、己の女癖の悪さは当面鳴りを潜めることはなさそうだ、なんて他人事のように思っていた最中。戦火が収まり、実家に戻って、平和と女遊びを存分に享受していた俺の元に先生が訪ねて来たのはまさに晴天の霹靂だった。思えば学生時代からそうだった。この人はいつだって唐突に現れ、停滞していた周りの時を動かしていくのだ。
 直近で最後に寝た女の面影が部屋から、そして俺の記憶から消え去りつつあった頃。白んでいく窓の外を寝台の中から眺めながら、部屋の戸が叩かれる音を半分寝ぼけた頭で聞いていたのだが――大司教猊下がお見えです。という、文言が耳に届いた途端、俺の脳はばちりと目が覚めた。扉越しに伝えられた従者の声には分かりやすく困惑が滲んでいたが、俺だって驚いた。だって、そんな話、聞いていない。寝起きですっかり渇いていた喉を水差しの水で潤して、跳ねっぱなしの髪をばりばりと掻く。本音を言えば湯浴みの時間が欲しかったのだが、セイロス教の最高責任者が事前の書簡も無しに訪ねて来た時点で徒事じゃない。暢気に待たせておく訳にもいかないだろう。と、そのまま羽織を肩に引っ掛けて部屋を出た。全く、数年越しの再会だってのに、ちっとも様にならない。
「お久しぶりです、先生。すみませんね、こんな格好で」
 しかし俺も諦めが悪いので、なけなしの矜持で甘い声を作りながら、恩師の前で恭しく礼をした。大修道院で別れたあの日あの時以来の先生が、久しぶりだね、と返してくれる。人目を惹き付ける明るい髪は少し伸びたようで、先代の大司教を彷彿とさせた。表情筋の鈍さは健在で、だけど澄んだ声は嬉しそうで、俺も懐かしさに心を砕いてしまいそうになるが、そう悠長に構えてもいられない。よくよく見ると、纏っていた黒い外套は所々に粉雪が降り積もっている。如何にもそのまま身一つでここに来ました、といった出で立ちだ。
「聞いてはいたのだが、やはりこっちは寒いね」
「そりゃこの季節に馬を走らせたらそうなるでしょうね」
「瞼が凍るかと思った」
「遭難しなくて良かったですよ。いや、真面目に」
 そんな適当な挨拶をおざなりに交わして。さて、どうして前触れなく俺の元を訪ねて来たのか。まさか元教え子の寝起きの顔を拝みたくなった訳でもあるまいし、と俺が首を傾げてみせたところ、
「偶々通り掛かったから」
 と、きたもんだ。
「偶々通り掛かりますかね? こんな辺鄙な土地を」
 呆れと安堵を丁度半分ずつ交ぜた溜め息をこれ見よがしに吐いてみせたが、先生は平然としている。どころか、
「シルヴァンに会いたくなったから」
 なんて殺し文句を投げてくるのだから、堪ったものではない。先生の冗談の感性はどこかズレていることは、教え子の間でもそれなりに知られていた話だった。
「……ああ、はい、分かりました、分かりましたよ。折角偶々会えたんだ。とりあえずお茶でも飲んでってください」
 言って、俺は大司教猊下に椅子を勧めて、部屋に茶器を一式持ってこさせるよう家の者に命じた。そして薄々予感はしていたのだが、先生は従者の一人も付けていなかった。なんてこった。相手の身の重さを知る貴族なら、そこで苦言のひとつでも言うべきなのだろうが、生憎、俺は真面目な領主じゃなかったから、吹雪に叩かれた所為で赤くなっていたであろう頬にキスを落とすだけに留めた。先生も先生で自由な感性を持つ人なので、そりゃセテス殿も頭を抱えたくなるよな――なんて、どこかで聞いた風の噂を思い出しながら。

 

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至情には未だ遠い

06

 最寄駅とは反対方向にある菓子屋のケーキと数字を象ったカラフルな蝋燭を引っさげた先生は、約束してきた時間をとうに過ぎた頃に俺のマンションのチャイムを鳴らした。一体どこで油を売っていたのかと思えば。今日はもう来ないのかと思った。てっきり忘れちまったのかと。せめて連絡のひとつくらい入れてくださいよ。だけど覚えていてくれて、うれしい。ひとりきりだった間、心に溜めていた文言はそれなりにあった筈なのに、望んでいなかったサプライズを前にしたら、どれもこれも口から出る前に失せてしまった。靴紐を解く背中に向かってただ嘆息する。しかし、幸か不幸か、俺の複雑な想いを乗せた溜め息は先生には届かなかったようで。
「誕生日おめでとう」
 俺が何か言うより先に、静かでだけど芯のある声がシンプルに胸を突いてきた。声だけでなく手もこちらへ伸びてきて、そのままくしゃりと髪を掻き分けてくる。するといよいよ自分が幼い子供にでもなったような気がして、どうしたら良いか分からなくなってしまった。そうして流されるままに二人きりの誕生会が始まる。ダイニングのテーブルには俺の好きな紅茶が並んだ。それからケーキ。チョコレートに酒精が混じったそれは大人の為に作られたような味だった。俺はすっかり子供の気持ちでいた所為か、食べ始めてすぐに頰が熱くなった。甘い。美味い。でも甘い。一年ぶりのホールケーキは二人がかりでも半分消費するのがやっとで、残りの半分はラップをかけて冷蔵庫にしまい込んだ。皿とティーカップを流しに片付けてしまうと、俺の誕生日はあっという間に終わってしまった。跡には蝋燭の芯が燃えた匂いが少し残っているだけ。だけど未練がましい気持ちを抱えているのは俺だけのようで、先生はもうシンクで泡立てたスポンジを握り締めている。
「せんせ、」
 そんなのあとでで良いですよ。と、相手の腕を引っ張ってベッドに誘う。仰向けに寝た自分の胸に、先生は抵抗なく埋まった。若草にも似た翡翠色の髪を撫でる。本当はケーキなんかどうでもよくって、先生さえいてくれれば、俺は他に何も要らない。そんな本音をぶちまけてしまいたい気持ちと、だけど言ったら先生は悲しむだろうかという気持ちが腹の奥でないまぜになる。だから俺はしょっちゅう言葉の加減を間違える。この人のことは未だによく分からないけれど、とにかく手放したくなかった。この若草の髪をずっと撫でていたい。俺だけが。ずっと。多分、これも言わない方が良い。だけど、いつにも増して頰が熱い。
「ねえ、先生。ずっとここにいてくれませんか?」
 自分の口から漏れた声があまりにも芯のない声だったので驚いた。が、先生は気にした様子もなく。
「いいよ」
 と、言う。こともなげに。
「明日も?」
「うん」
「明後日も?」
「明後日は講義だから。講義が終わったらここに来るよ」
「約束ですよ?」
「うん」
「とか言いながら、今日みたいに遅刻してくるんでしょう?」
「……善処はする」
 自分のどうしようもない我儘に、胸元で馬鹿みたいに真面目に頷いた気配があって、俺の機嫌は少しだけ上を向いた。先生の前では、俺は子供のようになんでも尋ねたくなった。先生は自分からものを語ることは少なかったが、訊いたことはちゃんと答えてくれる。だからこの人は俺にとっていつまでも先生だった。
「先生は、どうして俺に優しくしてくれるんですか?」
「一生を懸けて幸せにすると決めているから」
「俺を?」
「うん」
「どうして?」
「ずっと昔にそう決めた」
「ずっと昔?」
「うん」
 それに、先生はちょっと変わった人だったから、偶に変わったことを喋る。俺はそのちょっと変わった話を聞くのが好きだった。ほんの一時でも、先生と一緒に浮世を離れたような気持ちになれるから。ずっとむかし。と、俺はまた小さな子供のように、先生の呟きを口の中で真似てみる。どこか舌足らずな自分の声が耳の奥でぐるぐると回る。
「例の如くというか、いつものあれですか。前世ってやつ?」
「そんなところかな」
「ふうん」
 だとしたら、そのずっと昔の俺って奴は、よっぽど良い男だったんですねえ。茶目っ気たっぷりにぼやくと、先生の視線は否定的になったので、どうもそういう訳でもないらしい。湖の水のように綺麗な色の瞳が怪訝そうに歪む。だけど、どこか満更でもなさそうな調子だ。多くを語らない先生は自分の気持ちを教えてくれることも少なかったが、それでも俺を好いていてくれるようだった。自分の胃の中に収めたケーキも、冷蔵庫の中で眠っているもう半分も、それを肯定してくれている。
「ね、先生。俺は今、幸せですよ」
 相手の頰を両手で包んで覗き込む。いつもは凪いだままの先生の瞳が、アルコールの所為か蕩けて見えた。先生。ねえ、先生。俺、幸せですよ。だから……、だから。掌を取って、下腹に導く。先生は優しいので、そのまま優しく俺を撫でてくれた。掌の温かさに力が抜けていく。気持ち良い。ずっとこうしていたい。だけど俺、知ってるんですよ。本当は、先生の言うずっと昔の俺とやらが先生に親切にしていたから、俺はそのおこぼれに与れているだけで、ずっと昔の俺じゃない今の俺は、あんたにとってなんの価値もない奴だってこと。先生が気付いていないだけで。だからずっと、気付かないままでいてくれれば良いのにな。

 

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至情には未だ遠い

05

 駄目で元々、気付かれなかったらその時はその時。なんて具合に、なるべく控えめに戸を叩いたというのに、先生は動じることなく俺を出迎えて、当たり前のように部屋に招き入れた。勿論、真夜中の逢瀬の約束なんてしていなかったので、寧ろ訪ねてきた俺の方が面食らってしまった。先生があまりにも涼しい顔をしていたから、都合良く勘違いしてしまいそうになったが、腰を下ろした寝具にはまだ温もりがあった。俺が通りがかった時に偶然起きていた、という訳ではないらしい。
「突然すみません、迷惑でした?」
「迷惑ではないが……」
 と、教師らしい懐の深さで返しながら先生は言葉を切った。多分、その先を促されている。迷惑ではないが、理由は知りたい。そんなところだろうか。しかし残念なことに、俺の方も語るべき理由は持ち合わせていなかったのが正直なところだった。気まぐれに、先生の部屋の戸をノックしたくなった結果、こうなってしまった訳で。こういう時、なんて答えるのが自然なんですかね。
「えーっと、用って程の用はないんです、けど……」
 なんとなーく眠る気分じゃなくて、なんとなーく外の空気でも吸おうかと部屋を抜け出したところ、なんとなーくあんたの顔が浮かんだ――しかし、それをそのまま説明するのはなんだかなあ……って本音の方が先行した挙げ句、
「……用がなくっちゃ、俺はあんたを訪ねちゃいけませんか?」
 拗ねてるんだか口説いてるんだか分からない台詞になった。どっちかといえば後者の方が都合が良いかな、と思ったので、そのまま近くにあった肩を抱く。俺の腕の中で歯の浮くような台詞を前にした先生は、俺が寄せた唇を手指の先で軽くあしらいながら、重くて深い溜め息を吐いた。しかし、そこには呆れではなく安堵の気配があったので、俺も首の皮一枚繋がった気持ちになる。先生は誰にでも優しい人だと評判なので、こんなろくでもない俺でも叱ることはないだろうとは踏んではいたが――いや、それはそれでなんだか面倒くさいものを抱えてしまっている気がする。いっそ軽く叱られた方が気が楽というか。逢瀬に理由は要らないが、教師が生徒を部屋に招くには理由が必要ですもんね。
「……お茶でも淹れようか」
「ああ、良いですよ。そんなに長居する気もないんで」
「そう? じゃあ、喉が渇いたから良ければ付き合ってくれないかな」
「そういうことなら喜んで」
 そうして先生は呆気なく俺の腕から抜け出していく。机の脇の棚から茶器を取り出そうとして、陶器がぶつかる音が小さく響いた。真夜中のお茶会の場は手際良く整えられ、俺の前に差し出されたティーカップからはカミツレの香りが漂い始める。
「先生の部屋に茶器なんてあったんですね。良い趣味してるじゃないですか。……なーんか、高そうなやつですけど、いつの間に買ったんです?」
「この間、フェルディナントに貰ったんだ。先生が好きなお茶に似合うだろう、と」
「ふうん? 先生も隅に置けませんねえ……え? どういう意味かって? だって、これって贈り物でしょう? そういう意味の」
「君が考えているような意味ではないと思う。彼は良い子だから、慕ってくれてはいるけれどね」
「あー……、まあ、先生がそう思うんなら、そうかもしれませんが」
 そう思っているくらいが健全で良いのかもしれませんが。
 どこか腑に落ちない気持ちで、女の匂いが少ない(そもそも、この人に限って言えば、女の匂いどころか人間の匂いが薄いきらいさえある)相手を見遣る。繊細な細工が施されたカップに先生が唇を寄せられてすぐ、ずず、と決して行儀が良いとは言えない音が小さく響いた。
「せんせ」
「……ああ、すまない。どうにも慣れなくて。偶に、気を抜くとこうなる」
 紅茶は啜ってはいけない。これもフェルディナントに教えて貰った筈なのに。と、先生は眉尻を下げて、ばつが悪そうな顔を作った。
 つまり、だ。先生が慕われているのは持って生まれた性や家柄ではない、ということだ――否、今更そんなことで絶望する程ガキじゃあないのだが、忘れかけていた五年前の嫉妬がまだ燻っていたのは、少し。
「…………」
 先生は、俺の腹の底でゆるくとぐろを巻いたどろどろした気持ちなんて、まるで興味がないとでもいうように、呑気に欠伸をした。なので、俺も目前の紅茶に集中しようと試みる――ま、仮にこっちの心情を察されていたとしても、それはそれで挨拶に困るんですがね。
「先生もなんだかんだ貴族と付き合って長いのに、変わらないですねえ」
「自分にとってはつい先日のことなのだが……そうだね」
 きみ達との時間の乖離が、これから困ることになるかもしれない。そうして先生の眠そうな瞳はどこか寂しそうな色になった。

 

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至情には未だ遠い

04

 先生が新しい王様になるってんで、偶には恭しく花でも贈って差し上げようかと考えて、止めた。今でこそフォドラを救った英雄だとかで持ち上げられているが、あの人がそんなことを望んでいるとは露程も思えなかったので、生花の代わりに馴染みの茶葉と菓子を携えて、部屋の戸を叩く。ベルガモットティーが詰まった缶を前に顔をほころばせる先生を見て、俺の観察眼も捨てたもんじゃないな、と少しばかり誇らしくなった。
「お湯を貰ってくる」
 とのことなので、大人しく待たせて貰うことにする。大司教猊下自ら厨房に向かわせるというも、今後は控えた方が良いんですかね? と、余計な心配を口にしたら、想像通りに煙たがられてしまったからだ。しかし、元生徒のよしみで次代の大司教に甘えられるのも今だけだとも思うので、優越感を持て余しながらにやにや待つ。寝台の端に座り込んで、どうせここで二人きりなら酒の方が良かったかな、と少しだけもしもの話を楽しんだ。ここで切り上げとけば気楽でいられた筈だったのだが――ま、いいや、次の機会にでも――なんて、ちょっとでも考えかけてしまったのが悪かった。次なんてあるのだろうか、と思い至って、楽しい夢は覚める。
 戦争は終わった。時代は変わる。俺も先生も変わるだろう。
 この部屋で茶を嗜む機会だって、次はないかもしれない。五年前からそうだったから、と今まで気に留めていなかったが、間違っても軍の指揮を執る人間が寝起きして良いような部屋じゃなかったな、と戦後になってから思う。それを裏付けるかのように、通い慣れた元学生寮の簡素な一室は、備え付けの家具を残して粗方片付けられていた。本棚を埋めていた指南書や魔導書、教育書の類も全て無くなっていて、なんというか――それこそ五年前にとっくにその任を解いていた筈なのだが、いよいよ先生が先生じゃなくなっていくようで、ふと、俺一人が取り残されたような気持ちになる。
「待たせたね」
 静かな声に引き戻されるように振り返る。湯で満たされたポットを手にした先生が、部屋の入口に立っていた。薄暗い部屋に差し込む日の光が先生を照らしていて、まるで宗教画の中の神様のように映る。逆光に透ける明るい色の髪。眩しさに思わず目を細めた。後ろ手で戸が閉められるのをぼんやりと眺める。茶器に熱い茶が注がれる音を聞いているうちに漸く目が慣れてきて――向かいに座っているのが神様ではなく先生であることを認めて、馬鹿みたいに胸を撫で下ろした。それら全てを悟られないようにしながら、腕を頭の後ろで組んで伸びをしてみる。先生の薄い唇が、ティーカップの縁を食むのを見て、ここで二人で茶菓子を嗜んでいるのも、いつか見た夢のように現実味が削がれていくのかな、なんて感傷的なことを思った。
「なーんか、気が抜けちまったんですかね、俺」
「気が抜けてる?」
「あんたが居なかったら、俺、今ここに居なかったかもなー……なんて。そんなつまんないことを、延々と考えちまってるんです」
 茶器の取っ手を摘まんで、飽きる程飲んだ味を喉の奥に流し込む。
「ま、先生のおかげで掴めた平和だ。思う存分享受させて頂きますよ。これで俺も気兼ねなく、女の子を口説いて回れるってもんです」

 

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至情には未だ遠い

03

「君はやはり、女性と過ごす方が好きなのかな」
 らしくない質問に、おや、と思った。さっぱりとした気質――が本質なのかは定かではないが、少なくとも俺はそう思っている――先生から、そんな粘ついた言葉が発されるとは今の今まで想像していなかったからだ。ただ、あまりに淡白な調子で呟かれたので、俺の貞操観念についてを問い質されている訳ではないらしい。経験上、耳にしてすぐはその言葉に身構えてしまったが、俺は俺の直感を信じて、目の前にあった先生の肩に腕を回す。
「いやいや。確かに女の子と過ごすのは嫌いじゃないです、が……その言い方だと語弊がありますね。先生だからこそ、俺はこうしてここにいるんですよ」
「そういうのはいい」
 つれない調子で返され、絡ませていた腕はあっけなく外された。いやまあ、分かってはいましたが。俺が調整した甘い声が、先生に届いたためしはついぞなかった。触れていた人肌が遠退いて、反射的に名残惜しさを覚える。こういう時に惜しまれない辺りは俺もまだまだなのかね、と落胆の気持ちが通り過ぎたが――いや、今考えることじゃあないか。
「じゃ、どういう意味なんです? ひょっとして、昼間に俺が女の子を引っ掛けているのを見かけた、とか?」
「……シルヴァン。あまり女性を泣かせるような真似は」
「あ。もしかして藪蛇でした? 参ったなあ……正直、先生が鎌をかけてくるなんて思ってもみなかったから、つい余計なこと言っちまいましたね――じゃなくて」
「鎌なんてかけてない。そのままの意味だ」
 そんな台詞を、普段授業中に聞く声と同じ温度で語るのだからぞっとする。
「仮に、もしそうだとしたら、申し訳ないと思って」
「……どうして?」
「自分はちゃんとした女性じゃないというか……女性らしい面が乏しいから、かな」
「……あのね。こんなに立派なもん持ってて、それはないでしょう」
 軽薄さを盾にしながら、懲りずに先生の腰に手を回した。大した抵抗もなく抱き寄せられる。これ以上なく如何にもな、呆れましたという意思を乗せて、耳の下で溜め息を吐いた。先生くらい美人で、おまけに良い身体している女の子ってのもそうそう居ないだろうに。これも所謂、持ってる側の悩みってやつなのかね。だったら共感しないでもない、が。
 しかし、先生のそれがどういう意味で投げ掛けられた問いだったのか、正直なところ俺にはさっぱりだった。そのままの意味、と言われたところで、俺は先生のあるがまま全てを知っている訳ではない。それもお互い様というか、俺は俺で余計な本音を削りながら先生と時間を潰している――偶に、ちょっと失敗することはありますがね。そんな俺を見て、先の、女性に関する云々を問われたのであれば、案外この人は見る目がないな、と言わざるを得ない。……ああ、もしかして。「好きなのかな」という言葉は、実は否定の意味を孕んでいないかを探られたのだろうか。
 もしそうだとすれば、この人はとても恐ろしい人だ。
 顎を肩口に乗せたまま黙考していると、それまで身じろぎひとつしなかった先生が、俺の重さに耐えかねたように、
「すまない。よく分からないことを言った」
 気にしないでくれ、と続けられて。そりゃあないでしょうよ、と本音が持ち上がる。ここで捨てられちゃあ酷ってもんでしょうよ。しかし、離れていく先生の、昏い翡翠の目を、果たして自分が追っても良いものなのかと悩んだ挙句、そのまま手放してしまうのが俺だった。
「ま、先生の言うちゃんとした女の子ってのが何を指しているのかは分かりませんが。その辺の連中と比べて浮世離れしてる、って意味なら、否定はしませんがね。でも俺は、たとえ先生が野郎だったとしても、一緒にお茶くらいは飲んだとは思いますよ」
 寂しさを誤魔化す為、なんの慰めにもならない冗談を交えながら、へらへら笑って見せると、先生もつられるように笑った。
「知っているよ」
 と、やっぱりよく分からないことを、まるで心からの気持ちのように言う。

 

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至情には未だ遠い

02

 この人の冴えた瞳がどうにも苦手だった。
 戻らなくて良いのか、とでも言いたげな非難の視線を向けられる。それこそ出会ったばかりの頃なんて、まるで人形か何かのように表情に乏しかった筈なのに、近頃の先生は教え子に対して随分と目でものを語るようになってきた。しかし、その意をいつでも好意的に汲んであげられるような人間じゃあないのが俺って奴だったので、こうして他人のベッドの上で胡坐を掻いたまま動かないでいる。ここに至るまでそれなりのことをしてきたので、それなりに倦怠感はあった。しかし、誤解を恐れず、そして不純ではしたない動機を探すとしたら、俺が経験してきた女の子達のそれとは違って、この部屋のシーツにはまだ清潔感が残っているような気がして、なんとなく身を起こすのが億劫になってしまっていた。
「もう少しだけ、ここに居ても良いですか?」
 すると、先生の目がまた少し見開かれる。寝具に押し付けていた所為ですっかり跳ねてしまっている後ろ髪が、いつもの端正な顔の迫力をやや緩和させてはいたが、その表情には俺の素行を咎める色があった。
「ああ、いや、冗談……って程、冗談でもないんですが。夜遅くに部屋に戻ると、どうにも隣人が煩くって。小言を言われるのにゃ慣れてるんですが、それでもなるべく顔を合わせずに済む時間を見極めなきゃならないんですよ」
 言い訳は、するすると口を突いて出ていった。もう少しだけ、あんたの部屋に居たい。言い回しに多少の差はあれど、それは何度となく使ってきた言葉だった。なのに、こうも真っ向から受け止められた経験はついぞなかったので、自分で選んだ文句だというのに、口に乗せたそばから気が滅入ってきた。これだから、この人の目は苦手だ。
「――ま、それもこれも俺の素行の所為、なんですがね。先生が迷惑ってなら、止めときます」
 それでもなんとかしおらしい言葉でまとめると、それまで眉根を顰めながら素行不良児の言い分を聞いていた先生は、視線を俺から外して俯いた。なんだかいきなり見放されてしまったかのようで少し心許なくなる。愛を囁いた相手から――たとえその本心がどこか別の場所にあったとしても、だ――誰かから見限られるというのは、いつだって堪える。自分の腹の奥底が、何か冷えたもので一杯になる。過剰に求められるのは嫌な癖に、捨てられるのも怖い自分が居るのだ。半ば衝動的に、相手の方へ手を伸ばしたくなって、しかし、どう伸ばせば良いか分からなかった。だって、俺にとっての先生って、真っ直ぐに愛を囁けるような相手でないことは確かなんですよ。そもそも、俺にそんな相手、一人だっているのかって話ですけど。だのに、こうして帰りたくないってごねている。そんな現状にどう説明を付ければ良いのか、まず俺自身が分かっていない。言い訳を並べるのには慣れているが、真実を説くのは苦手で。だからこそ、深追いはしないのが俺の信条――の筈だったんですが。
「……ねえ、先生」
 何か言ってくださいよ、と。気まずさに耐えかねて頭を掻いていたら。
「好きにしたら良い」
 呆れた溜め息の中に、そんな穏やかな声が聞こえた。それを聞いて気が抜けたのか、実は俺は俺が思っていたより緊張していたのか、自分の唇からも薄くため息が漏れた。
「はは、……ありがとうございます」
 先生の顔にはやっぱり腑に落ちない気持ちが張り付いたままだったが、俺を無理矢理にでも自室に返そうという気は薄いらしい。なので、お言葉に甘えて好きにすることにした。もう一度シーツに背を沈める。寝具は同じ造りの筈なのに、どうしてここはこんなに広くて深く感じるのか。ここに入り浸るようになってそこそこ経つけれど、その理由もずっと分からないままだ。先生の背中は遠い。
 一方で、だらけだした俺に構わず、そのまま自分の机に向かう先生。仕事、溜まってたんですか? と訊くのは野暮だと思ったので止しておく。先生の操るペン先が紙の表面を引っ掻く音だけが響く。
「……静かですねえ、ここは」
「そうかな」
「そうですよ」
 ゆっくりと相槌を打ってから気付く。それまでずっと一生懸命に喋っていたのは俺だけで、先生の中ではずっと静かな時間が流れていたのかもしれない、と。俺はそんな時間が欲しくて、そんな生き方が羨ましくて、なんとか先生の腹の中を覗けないかと足掻いている。その結果がこの様とは、全く以て笑えないですがね――と、寝癖の付いた後頭部を眺めながら俺は独りでごちた。
「隣人かいないからだろうか」
 不意に、言葉がもたらされる。ふらふらと思考を遠くにやっていた俺とは違って、先生は俺の出した取り留めのない話題について、ちゃんと考えていてくれたらしい。
「あれ? この部屋の隣って、誰でしたっけ」
「隣はドゥドゥーだが、……そうじゃなくて」
「え? ……あ、ああ。隣人って、上の階の俺の話か。なるほどね。はは、先生も皮肉とか言うんですねえ」
 朗らかに笑ってみせると、ペンを走らせる音が少し鈍くなる。先生の瞳ではなく部屋の天井を見ながらの会話だったので、まだいくらか気楽に返事が出来た。
「俺が上にいると、うるさいですか?」
「そんなことはない」
「じゃ、俺じゃない奴がうるさい、と?」
「…………」
「沈黙を選んだからって、傷付かない訳じゃないんですがねえ……いっそ部屋割り変えて貰えれば、俺としても非常にありがたいんですけど。それこそ、先生の部屋なんて楽そうですし。夜中に女の子を連れ込んでも、怒られないでしょう?」
 なんて、俺が言っちゃいけないですね。
 沸き上がる自嘲の念をからりとした笑顔に造り替えながら、先生の懐を覗き込んでみる。先生は困ったように目を細めただけで、やっぱり何も言っちゃくれなかった。涼しい季節になってから幾分かマシになってはきたものの、先生は今でも必要最低限のことしか喋らないきらいがある。その見立てが正しければ多分、俺はあんたにとって不必要な存在なのかもしれない。だからこそ、あんたが俺に向かって皮肉を言うようになった今を、なんだか信じられないでいる。

 

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至情には未だ遠い

01

 愛とはなんだろうか。
 辞書の中で説明されているそれは慈しみの心だったりするし、俺にとってのそれは遊び相手に囁くものだったりする。そして、この世界で愛と呼ばれるそれは、下心なく無償で与えるものが一番美しいとされているらしい。
 不肖の兄上曰く、紋章を持って生まれた俺は、父上と母上にそれはそれは愛されて育ったのだと言う。紋章を持たない兄からすれば、その見立ては正しかったのだろう。しかし、その愛とやらが、兄上に俺を井戸に突き落とさせたり、冬の山に打ち捨てさせたりしたのだとすれば、それはなんてくだらないものなのだろう、と俺は思わずにはいられない。一方で、俺は幼い頃から沢山の女性に言い寄られた。ともすれば、人よりも沢山の愛を貰ったと言えるかもしれない。ただし、そんな俺がお返しに愛を囁いてきた中で知ったのは、自分が貰ってきた数々のそれの中に、美しいとされるものは数える程もなかった、という物悲しい事実だけだった。全く、笑い話にもならない。
「先生、ちょっと質問があるんですけど」
 と、俺に声を掛けられて振り向いた先生は、珍しいこともあるもんだ、なんて言いたげに瞼を少し持ち上げた。いつも涼しい顔をして何を考えているか分からない、と評判のこの元傭兵先生は、俺の前ではこうして表情を変えてみせることがあるが……いや、別に嬉しかない。大抵は今みたいに、俺のろくでもなさを指摘するようなタイミングで見せる顔だからだ。
「いやそんな、露骨に意外そうな顔しないでくださいよ。俺だって、真面目に勉強しなきゃなーって時くらいありますって。そもそも俺、それが理由でわざわざあんたの学級に編入してきた訳ですし」
 肩を竦めて見せると、それは悪かった、と申し訳なさそうに先生は首を垂れた。いやいや、かえって嫌味っぽいですよ、その反応は。
「で、質問。良いですか? えーっと、この章。ここんところなんですけど――」
 古ぼけて黄ばんだページの一節を指でなぞる。先生の視線を人差し指で導いた。すると、文字を追う為に顰められていた先生の眉根がまた寄せられた。そこには愛を語らう文字の羅列があったからだ。さもありなん。俺が相手に広げて見せた本は小難しい魔導書なんかではなく、読み古された小説の本だったのだから、先生が変な顔をするのも無理は無いだろう。それこそ、誰でも一度はタイトルを耳にしたことがあるだろう恋愛物語。あまりに有名なものだから、あらゆる娯楽の類が削ぎ落されたガルグ=マク大修道院の書庫において、本棚を埋めることを許された稀有な一冊。言い換えれば、その手の話に興味深々の年頃であるところの生徒達に、教団が閲覧させても良いとした、お固くまとまった物語ってところか。
「これ。女の子に愛を語らう男の気持ち。先生は、どう思います?」
「……シルヴァン。自分は国語を担当する教師じゃない」
「そりゃ勿論知ってますよ。だからこそ、です」
 そんなことが分からない程、俺も馬鹿じゃない。悪戯心が全く無かったと言えば嘘になるが、かといって悪ふざけという訳でもなかった。あんたみたいな人間が、それこそ貴族の家柄にも紋章の血筋にも縛られずに生きてきた奴なら、愛とか呼ばれているそれを説けるものなのか。出来るもんなら教えてくれよ――ってな具合に。
「教師じゃなく、一人の大人としてのあんたの意見を聞きたいんですよ」
 ねえ、先生。先生にとって愛って、なんですか?
「……分かった」
 なるべく真意を削った俺の軽薄な物言いに、先生は少し沈黙を置いた後、真剣な様子で頷いた。
「次の授業までに読んでおくよ」
 そうして俺の手から本を抜く。その姿は真面目な新任教師そのもの。
「流石ですねえ。ま、確かに授業とはまーったく関係の無い質問ですし、気が向いた時に考えてくれれば良いんで。よろしくお願いしますよ、先生」
 先生と違い、不真面目な生徒である俺は、調子良く笑って見せた。言いながら、実際のところ、俺は期待していないのだろう、とも思う。生徒の質問を真摯に受け止めようとする先生には悪いが、俺はきっと、先生から平々凡々な回答を引き出したいと願っている。如何にも特別そうな人間から、ありふれたつまらない愛の定義をもっともらしく解かれて、幻滅したい。俺とは別の世界を生きてきた人が――それこそ、女神様の信仰の外にいた人が、ただの人間だったと知って安心したいのかもしれない――なんてね。俺はいつからこんなどうしようもないことを考えるようになったんだか。
「大人、か。大人なのかな、自分は」
 不意に、先生の澄んだ声が、俺を暗い思考の海から引き戻した。
「教鞭を執ってるんだし、少なくとも俺達よりは大人なんじゃないですかね」
 伏せていた顔を上げると、先生の手が本の表紙を確かめるように撫でていた。そんなに熱心に撫でくり回したって、中身は分からないと思いますけど――なんて茶化すと、先生は困ったように眉を下げた。それまでの人生を感じさせない、まるで生まれたばかりのような白い肌が、古ぼけた装丁の上で浮き出て見えていた。
「そういえば、先生っておいくつなんでしたっけ?」
「知らない」
「は? え。知らない? ……って、そんなことあるんですか? やっぱ、あんたって不思議な人だなあ」

 

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