至情には未だ遠い

07

 新しい辺境伯の放蕩癖は折り紙付きだ。そんな噂話が耳を掠めたことだって一度や二度じゃないし、事実、家を継いで暫く経つが、己の女癖の悪さは当面鳴りを潜めることはなさそうだ、なんて他人事のように思っていた最中。戦火が収まり、実家に戻って、平和と女遊びを存分に享受していた俺の元に先生が訪ねて来たのはまさに晴天の霹靂だった。思えば学生時代からそうだった。この人はいつだって唐突に現れ、停滞していた周りの時を動かしていくのだ。
 直近で最後に寝た女の面影が部屋から、そして俺の記憶から消え去りつつあった頃。白んでいく窓の外を寝台の中から眺めながら、部屋の戸が叩かれる音を半分寝ぼけた頭で聞いていたのだが――大司教猊下がお見えです。という、文言が耳に届いた途端、俺の脳はばちりと目が覚めた。扉越しに伝えられた従者の声には分かりやすく困惑が滲んでいたが、俺だって驚いた。だって、そんな話、聞いていない。寝起きですっかり渇いていた喉を水差しの水で潤して、跳ねっぱなしの髪をばりばりと掻く。本音を言えば湯浴みの時間が欲しかったのだが、セイロス教の最高責任者が事前の書簡も無しに訪ねて来た時点で徒事じゃない。暢気に待たせておく訳にもいかないだろう。と、そのまま羽織を肩に引っ掛けて部屋を出た。全く、数年越しの再会だってのに、ちっとも様にならない。
「お久しぶりです、先生。すみませんね、こんな格好で」
 しかし俺も諦めが悪いので、なけなしの矜持で甘い声を作りながら、恩師の前で恭しく礼をした。大修道院で別れたあの日あの時以来の先生が、久しぶりだね、と返してくれる。人目を惹き付ける明るい髪は少し伸びたようで、先代の大司教を彷彿とさせた。表情筋の鈍さは健在で、だけど澄んだ声は嬉しそうで、俺も懐かしさに心を砕いてしまいそうになるが、そう悠長に構えてもいられない。よくよく見ると、纏っていた黒い外套は所々に粉雪が降り積もっている。如何にもそのまま身一つでここに来ました、といった出で立ちだ。
「聞いてはいたのだが、やはりこっちは寒いね」
「そりゃこの季節に馬を走らせたらそうなるでしょうね」
「瞼が凍るかと思った」
「遭難しなくて良かったですよ。いや、真面目に」
 そんな適当な挨拶をおざなりに交わして。さて、どうして前触れなく俺の元を訪ねて来たのか。まさか元教え子の寝起きの顔を拝みたくなった訳でもあるまいし、と俺が首を傾げてみせたところ、
「偶々通り掛かったから」
 と、きたもんだ。
「偶々通り掛かりますかね? こんな辺鄙な土地を」
 呆れと安堵を丁度半分ずつ交ぜた溜め息をこれ見よがしに吐いてみせたが、先生は平然としている。どころか、
「シルヴァンに会いたくなったから」
 なんて殺し文句を投げてくるのだから、堪ったものではない。先生の冗談の感性はどこかズレていることは、教え子の間でもそれなりに知られていた話だった。
「……ああ、はい、分かりました、分かりましたよ。折角偶々会えたんだ。とりあえずお茶でも飲んでってください」
 言って、俺は大司教猊下に椅子を勧めて、部屋に茶器を一式持ってこさせるよう家の者に命じた。そして薄々予感はしていたのだが、先生は従者の一人も付けていなかった。なんてこった。相手の身の重さを知る貴族なら、そこで苦言のひとつでも言うべきなのだろうが、生憎、俺は真面目な領主じゃなかったから、吹雪に叩かれた所為で赤くなっていたであろう頬にキスを落とすだけに留めた。先生も先生で自由な感性を持つ人なので、そりゃセテス殿も頭を抱えたくなるよな――なんて、どこかで聞いた風の噂を思い出しながら。

 

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至情には未だ遠い

06

 最寄駅とは反対方向にある菓子屋のケーキと数字を象ったカラフルな蝋燭を引っさげた先生は、約束してきた時間をとうに過ぎた頃に俺のマンションのチャイムを鳴らした。一体どこで油を売っていたのかと思えば。今日はもう来ないのかと思った。てっきり忘れちまったのかと。せめて連絡のひとつくらい入れてくださいよ。だけど覚えていてくれて、うれしい。ひとりきりだった間、心に溜めていた文言はそれなりにあった筈なのに、望んでいなかったサプライズを前にしたら、どれもこれも口から出る前に失せてしまった。靴紐を解く背中に向かってただ嘆息する。しかし、幸か不幸か、俺の複雑な想いを乗せた溜め息は先生には届かなかったようで。
「誕生日おめでとう」
 俺が何か言うより先に、静かでだけど芯のある声がシンプルに胸を突いてきた。声だけでなく手もこちらへ伸びてきて、そのままくしゃりと髪を掻き分けてくる。するといよいよ自分が幼い子供にでもなったような気がして、どうしたら良いか分からなくなってしまった。そうして流されるままに二人きりの誕生会が始まる。ダイニングのテーブルには俺の好きな紅茶が並んだ。それからケーキ。チョコレートに酒精が混じったそれは大人の為に作られたような味だった。俺はすっかり子供の気持ちでいた所為か、食べ始めてすぐに頰が熱くなった。甘い。美味い。でも甘い。一年ぶりのホールケーキは二人がかりでも半分消費するのがやっとで、残りの半分はラップをかけて冷蔵庫にしまい込んだ。皿とティーカップを流しに片付けてしまうと、俺の誕生日はあっという間に終わってしまった。跡には蝋燭の芯が燃えた匂いが少し残っているだけ。だけど未練がましい気持ちを抱えているのは俺だけのようで、先生はもうシンクで泡立てたスポンジを握り締めている。
「せんせ、」
 そんなのあとでで良いですよ。と、相手の腕を引っ張ってベッドに誘う。仰向けに寝た自分の胸に、先生は抵抗なく埋まった。若草にも似た翡翠色の髪を撫でる。本当はケーキなんかどうでもよくって、先生さえいてくれれば、俺は他に何も要らない。そんな本音をぶちまけてしまいたい気持ちと、だけど言ったら先生は悲しむだろうかという気持ちが腹の奥でないまぜになる。だから俺はしょっちゅう言葉の加減を間違える。この人のことは未だによく分からないけれど、とにかく手放したくなかった。この若草の髪をずっと撫でていたい。俺だけが。ずっと。多分、これも言わない方が良い。だけど、いつにも増して頰が熱い。
「ねえ、先生。ずっとここにいてくれませんか?」
 自分の口から漏れた声があまりにも芯のない声だったので驚いた。が、先生は気にした様子もなく。
「いいよ」
 と、言う。こともなげに。
「明日も?」
「うん」
「明後日も?」
「明後日は講義だから。講義が終わったらここに来るよ」
「約束ですよ?」
「うん」
「とか言いながら、今日みたいに遅刻してくるんでしょう?」
「……善処はする」
 自分のどうしようもない我儘に、胸元で馬鹿みたいに真面目に頷いた気配があって、俺の機嫌は少しだけ上を向いた。先生の前では、俺は子供のようになんでも尋ねたくなった。先生は自分からものを語ることは少なかったが、訊いたことはちゃんと答えてくれる。だからこの人は俺にとっていつまでも先生だった。
「先生は、どうして俺に優しくしてくれるんですか?」
「一生を懸けて幸せにすると決めているから」
「俺を?」
「うん」
「どうして?」
「ずっと昔にそう決めた」
「ずっと昔?」
「うん」
 それに、先生はちょっと変わった人だったから、偶に変わったことを喋る。俺はそのちょっと変わった話を聞くのが好きだった。ほんの一時でも、先生と一緒に浮世を離れたような気持ちになれるから。ずっとむかし。と、俺はまた小さな子供のように、先生の呟きを口の中で真似てみる。どこか舌足らずな自分の声が耳の奥でぐるぐると回る。
「例の如くというか、いつものあれですか。前世ってやつ?」
「そんなところかな」
「ふうん」
 だとしたら、そのずっと昔の俺って奴は、よっぽど良い男だったんですねえ。茶目っ気たっぷりにぼやくと、先生の視線は否定的になったので、どうもそういう訳でもないらしい。湖の水のように綺麗な色の瞳が怪訝そうに歪む。だけど、どこか満更でもなさそうな調子だ。多くを語らない先生は自分の気持ちを教えてくれることも少なかったが、それでも俺を好いていてくれるようだった。自分の胃の中に収めたケーキも、冷蔵庫の中で眠っているもう半分も、それを肯定してくれている。
「ね、先生。俺は今、幸せですよ」
 相手の頰を両手で包んで覗き込む。いつもは凪いだままの先生の瞳が、アルコールの所為か蕩けて見えた。先生。ねえ、先生。俺、幸せですよ。だから……、だから。掌を取って、下腹に導く。先生は優しいので、そのまま優しく俺を撫でてくれた。掌の温かさに力が抜けていく。気持ち良い。ずっとこうしていたい。だけど俺、知ってるんですよ。本当は、先生の言うずっと昔の俺とやらが先生に親切にしていたから、俺はそのおこぼれに与れているだけで、ずっと昔の俺じゃない今の俺は、あんたにとってなんの価値もない奴だってこと。先生が気付いていないだけで。だからずっと、気付かないままでいてくれれば良いのにな。

 

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至情には未だ遠い

05

 駄目で元々、気付かれなかったらその時はその時。なんて具合に、なるべく控えめに戸を叩いたというのに、先生は動じることなく俺を出迎えて、当たり前のように部屋に招き入れた。勿論、真夜中の逢瀬の約束なんてしていなかったので、寧ろ訪ねてきた俺の方が面食らってしまった。先生があまりにも涼しい顔をしていたから、都合良く勘違いしてしまいそうになったが、腰を下ろした寝具にはまだ温もりがあった。俺が通りがかった時に偶然起きていた、という訳ではないらしい。
「突然すみません、迷惑でした?」
「迷惑ではないが……」
 と、教師らしい懐の深さで返しながら先生は言葉を切った。多分、その先を促されている。迷惑ではないが、理由は知りたい。そんなところだろうか。しかし残念なことに、俺の方も語るべき理由は持ち合わせていなかったのが正直なところだった。気まぐれに、先生の部屋の戸をノックしたくなった結果、こうなってしまった訳で。こういう時、なんて答えるのが自然なんですかね。
「えーっと、用って程の用はないんです、けど……」
 なんとなーく眠る気分じゃなくて、なんとなーく外の空気でも吸おうかと部屋を抜け出したところ、なんとなーくあんたの顔が浮かんだ――しかし、それをそのまま説明するのはなんだかなあ……って本音の方が先行した挙げ句、
「……用がなくっちゃ、俺はあんたを訪ねちゃいけませんか?」
 拗ねてるんだか口説いてるんだか分からない台詞になった。どっちかといえば後者の方が都合が良いかな、と思ったので、そのまま近くにあった肩を抱く。俺の腕の中で歯の浮くような台詞を前にした先生は、俺が寄せた唇を手指の先で軽くあしらいながら、重くて深い溜め息を吐いた。しかし、そこには呆れではなく安堵の気配があったので、俺も首の皮一枚繋がった気持ちになる。先生は誰にでも優しい人だと評判なので、こんなろくでもない俺でも叱ることはないだろうとは踏んではいたが――いや、それはそれでなんだか面倒くさいものを抱えてしまっている気がする。いっそ軽く叱られた方が気が楽というか。逢瀬に理由は要らないが、教師が生徒を部屋に招くには理由が必要ですもんね。
「……お茶でも淹れようか」
「ああ、良いですよ。そんなに長居する気もないんで」
「そう? じゃあ、喉が渇いたから良ければ付き合ってくれないかな」
「そういうことなら喜んで」
 そうして先生は呆気なく俺の腕から抜け出していく。机の脇の棚から茶器を取り出そうとして、陶器がぶつかる音が小さく響いた。真夜中のお茶会の場は手際良く整えられ、俺の前に差し出されたティーカップからはカミツレの香りが漂い始める。
「先生の部屋に茶器なんてあったんですね。良い趣味してるじゃないですか。……なーんか、高そうなやつですけど、いつの間に買ったんです?」
「この間、フェルディナントに貰ったんだ。先生が好きなお茶に似合うだろう、と」
「ふうん? 先生も隅に置けませんねえ……え? どういう意味かって? だって、これって贈り物でしょう? そういう意味の」
「君が考えているような意味ではないと思う。彼は良い子だから、慕ってくれてはいるけれどね」
「あー……、まあ、先生がそう思うんなら、そうかもしれませんが」
 そう思っているくらいが健全で良いのかもしれませんが。
 どこか腑に落ちない気持ちで、女の匂いが少ない(そもそも、この人に限って言えば、女の匂いどころか人間の匂いが薄いきらいさえある)相手を見遣る。繊細な細工が施されたカップに先生が唇を寄せられてすぐ、ずず、と決して行儀が良いとは言えない音が小さく響いた。
「せんせ」
「……ああ、すまない。どうにも慣れなくて。偶に、気を抜くとこうなる」
 紅茶は啜ってはいけない。これもフェルディナントに教えて貰った筈なのに。と、先生は眉尻を下げて、ばつが悪そうな顔を作った。
 つまり、だ。先生が慕われているのは持って生まれた性や家柄ではない、ということだ――否、今更そんなことで絶望する程ガキじゃあないのだが、忘れかけていた五年前の嫉妬がまだ燻っていたのは、少し。
「…………」
 先生は、俺の腹の底でゆるくとぐろを巻いたどろどろした気持ちなんて、まるで興味がないとでもいうように、呑気に欠伸をした。なので、俺も目前の紅茶に集中しようと試みる――ま、仮にこっちの心情を察されていたとしても、それはそれで挨拶に困るんですがね。
「先生もなんだかんだ貴族と付き合って長いのに、変わらないですねえ」
「自分にとってはつい先日のことなのだが……そうだね」
 きみ達との時間の乖離が、これから困ることになるかもしれない。そうして先生の眠そうな瞳はどこか寂しそうな色になった。

 

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至情には未だ遠い

04

 先生が新しい王様になるってんで、偶には恭しく花でも贈って差し上げようかと考えて、止めた。今でこそフォドラを救った英雄だとかで持ち上げられているが、あの人がそんなことを望んでいるとは露程も思えなかったので、生花の代わりに馴染みの茶葉と菓子を携えて、部屋の戸を叩く。ベルガモットティーが詰まった缶を前に顔をほころばせる先生を見て、俺の観察眼も捨てたもんじゃないな、と少しばかり誇らしくなった。
「お湯を貰ってくる」
 とのことなので、大人しく待たせて貰うことにする。大司教猊下自ら厨房に向かわせるというも、今後は控えた方が良いんですかね? と、余計な心配を口にしたら、想像通りに煙たがられてしまったからだ。しかし、元生徒のよしみで次代の大司教に甘えられるのも今だけだとも思うので、優越感を持て余しながらにやにや待つ。寝台の端に座り込んで、どうせここで二人きりなら酒の方が良かったかな、と少しだけもしもの話を楽しんだ。ここで切り上げとけば気楽でいられた筈だったのだが――ま、いいや、次の機会にでも――なんて、ちょっとでも考えかけてしまったのが悪かった。次なんてあるのだろうか、と思い至って、楽しい夢は覚める。
 戦争は終わった。時代は変わる。俺も先生も変わるだろう。
 この部屋で茶を嗜む機会だって、次はないかもしれない。五年前からそうだったから、と今まで気に留めていなかったが、間違っても軍の指揮を執る人間が寝起きして良いような部屋じゃなかったな、と戦後になってから思う。それを裏付けるかのように、通い慣れた元学生寮の簡素な一室は、備え付けの家具を残して粗方片付けられていた。本棚を埋めていた指南書や魔導書、教育書の類も全て無くなっていて、なんというか――それこそ五年前にとっくにその任を解いていた筈なのだが、いよいよ先生が先生じゃなくなっていくようで、ふと、俺一人が取り残されたような気持ちになる。
「待たせたね」
 静かな声に引き戻されるように振り返る。湯で満たされたポットを手にした先生が、部屋の入口に立っていた。薄暗い部屋に差し込む日の光が先生を照らしていて、まるで宗教画の中の神様のように映る。逆光に透ける明るい色の髪。眩しさに思わず目を細めた。後ろ手で戸が閉められるのをぼんやりと眺める。茶器に熱い茶が注がれる音を聞いているうちに漸く目が慣れてきて――向かいに座っているのが神様ではなく先生であることを認めて、馬鹿みたいに胸を撫で下ろした。それら全てを悟られないようにしながら、腕を頭の後ろで組んで伸びをしてみる。先生の薄い唇が、ティーカップの縁を食むのを見て、ここで二人で茶菓子を嗜んでいるのも、いつか見た夢のように現実味が削がれていくのかな、なんて感傷的なことを思った。
「なーんか、気が抜けちまったんですかね、俺」
「気が抜けてる?」
「あんたが居なかったら、俺、今ここに居なかったかもなー……なんて。そんなつまんないことを、延々と考えちまってるんです」
 茶器の取っ手を摘まんで、飽きる程飲んだ味を喉の奥に流し込む。
「ま、先生のおかげで掴めた平和だ。思う存分享受させて頂きますよ。これで俺も気兼ねなく、女の子を口説いて回れるってもんです」

 

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至情には未だ遠い

03

「君はやはり、女性と過ごす方が好きなのかな」
 らしくない質問に、おや、と思った。さっぱりとした気質――が本質なのかは定かではないが、少なくとも俺はそう思っている――先生から、そんな粘ついた言葉が発されるとは今の今まで想像していなかったからだ。ただ、あまりに淡白な調子で呟かれたので、俺の貞操観念についてを問い質されている訳ではないらしい。経験上、耳にしてすぐはその言葉に身構えてしまったが、俺は俺の直感を信じて、目の前にあった先生の肩に腕を回す。
「いやいや。確かに女の子と過ごすのは嫌いじゃないです、が……その言い方だと語弊がありますね。先生だからこそ、俺はこうしてここにいるんですよ」
「そういうのはいい」
 つれない調子で返され、絡ませていた腕はあっけなく外された。いやまあ、分かってはいましたが。俺が調整した甘い声が、先生に届いたためしはついぞなかった。触れていた人肌が遠退いて、反射的に名残惜しさを覚える。こういう時に惜しまれない辺りは俺もまだまだなのかね、と落胆の気持ちが通り過ぎたが――いや、今考えることじゃあないか。
「じゃ、どういう意味なんです? ひょっとして、昼間に俺が女の子を引っ掛けているのを見かけた、とか?」
「……シルヴァン。あまり女性を泣かせるような真似は」
「あ。もしかして藪蛇でした? 参ったなあ……正直、先生が鎌をかけてくるなんて思ってもみなかったから、つい余計なこと言っちまいましたね――じゃなくて」
「鎌なんてかけてない。そのままの意味だ」
 そんな台詞を、普段授業中に聞く声と同じ温度で語るのだからぞっとする。
「仮に、もしそうだとしたら、申し訳ないと思って」
「……どうして?」
「自分はちゃんとした女性じゃないというか……女性らしい面が乏しいから、かな」
「……あのね。こんなに立派なもん持ってて、それはないでしょう」
 軽薄さを盾にしながら、懲りずに先生の腰に手を回した。大した抵抗もなく抱き寄せられる。これ以上なく如何にもな、呆れましたという意思を乗せて、耳の下で溜め息を吐いた。先生くらい美人で、おまけに良い身体している女の子ってのもそうそう居ないだろうに。これも所謂、持ってる側の悩みってやつなのかね。だったら共感しないでもない、が。
 しかし、先生のそれがどういう意味で投げ掛けられた問いだったのか、正直なところ俺にはさっぱりだった。そのままの意味、と言われたところで、俺は先生のあるがまま全てを知っている訳ではない。それもお互い様というか、俺は俺で余計な本音を削りながら先生と時間を潰している――偶に、ちょっと失敗することはありますがね。そんな俺を見て、先の、女性に関する云々を問われたのであれば、案外この人は見る目がないな、と言わざるを得ない。……ああ、もしかして。「好きなのかな」という言葉は、実は否定の意味を孕んでいないかを探られたのだろうか。
 もしそうだとすれば、この人はとても恐ろしい人だ。
 顎を肩口に乗せたまま黙考していると、それまで身じろぎひとつしなかった先生が、俺の重さに耐えかねたように、
「すまない。よく分からないことを言った」
 気にしないでくれ、と続けられて。そりゃあないでしょうよ、と本音が持ち上がる。ここで捨てられちゃあ酷ってもんでしょうよ。しかし、離れていく先生の、昏い翡翠の目を、果たして自分が追っても良いものなのかと悩んだ挙句、そのまま手放してしまうのが俺だった。
「ま、先生の言うちゃんとした女の子ってのが何を指しているのかは分かりませんが。その辺の連中と比べて浮世離れしてる、って意味なら、否定はしませんがね。でも俺は、たとえ先生が野郎だったとしても、一緒にお茶くらいは飲んだとは思いますよ」
 寂しさを誤魔化す為、なんの慰めにもならない冗談を交えながら、へらへら笑って見せると、先生もつられるように笑った。
「知っているよ」
 と、やっぱりよく分からないことを、まるで心からの気持ちのように言う。

 

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