03
「おはよう、阿良々木先輩!」
と、元気良く僕を呼ぶ声が聞こえたと同時に、視界が真っ暗になった。
瞼に感じる布地の柔らかな感触の中に、ともすれば肌を傷つけそうな、固い芯のような手ごたえを感じる。手ごたえとは言っても、無論、それらの刺激は全て顔面で受け取った訳だが。
僕は動じることなく、背後から僕の視界を奪った相手――神原駿河に問い掛ける。
「……朝一番にお前は何をしている?」
「阿良々木先輩はどっちが良いと思う?」
「質問に質問で返すな。まずは僕の質問に答えろ」
「私の質問がもう答えのようなものなのだが」
冷静な尋問が功を奏したのか、神原はあっさりと僕を解放した。
開けた視界に振り向けば、彼女は僕から満足のいくリアクションを得られなかった所為か、不満気に頬を膨らませている。
その手に握っているのは下着。
ブラジャーが二枚。
先刻まで僕の顔面を覆っていたのは、それだったらしい。
いや、なんとなく分かってはいたんだけどね?
しかし、さっきの固い感触(どうやらブラの中に入っているワイヤーだったようだ)を世の女子は日頃胸に当てているのかと思うと、些か心配になってくるな……。
「女子の下着に顔を埋めていたのだから、もう少し狼狽えてくれても良いではないか」
なんて、ぶちぶち文句を垂れる神原だが、それはお前と付き合ってきた結果、生真面目な僕にさえ少しずつでも免疫がついてきた結果というものだ。
というか、お前が元気良く僕の名前を呼ぶ時って、大体は何かろくでもないことを企んでる時なんだよ。
そもそも、ブラで顔を覆われた事実より、目の前の彼女がノーブラでこの質問を投げかけていることの方が刺激的過ぎるだろ。おっぱい丸出しじゃん。
「むう。……それで、どっちが良いと思う?」
不服そうな面持ちは完全に払拭されてはいないが、神原はそれでも選択を迫ってきた。
どうやら、僕が今問われているのは『今日の彼女が身に着ける下着をどちらにするか』らしい。
幸か不幸か、泊りがけで神原の部屋の清掃活動をしていたことが、このシチュエーションを招いてしまったようだ。朝イチで向かい合うには難しい問題だった。
右手に握るブラジャーを見る。水色のスポーツブラ。これは前にも見たことがあって、アスリートであるが故引き締まった身体を持つ神原によく似合っていると、密かに思ったことを覚えている。
対して左手に握られたブラジャーは白くて……なんていうんだっけ? こういうの。前で留めるやつ。フロントホックタイプっていうんだっけ? スポーティなデザインの前者とは違って、可愛いフリルが控えめにカップ部分を飾っている。
「いや、待て。そんな重要な選択権を軽々しく僕に委ねないでくれ」
「甲乙付け難いようなら質問の仕方を変えようか。阿良々木先輩はどっちのブラに埋まっている方が興奮したか教えてくれ」
「残念だったな神原。確かに、阿良々木先輩は女性の胸部に興味はあるけれど、中身の方が興味の対象なんだ」
「見損なったぞ阿良々木先輩。その中身を支えている存在こそ賞賛すべきものだというのに。どれだけの女性がブラジャーに支えられていると思っているのだ……」
「確かに、支えられてこそ輝くものはあるかもしれないが……。それでも、下着そのものだけじゃ興奮するに至らねーよ。中身があってこそだ」
「じゃ、じゃあ匂いは? ブラから感じた匂いはどっちが良かった?」
「ナチュラルに変態みたいなことを訊いてくるんじゃねえ!」
ついでにお前の胸の匂いなんかしなかったよ。洗剤の匂いしかしなかったし。
「阿良々木先輩を敬う後輩として、そして彼女として、愛する人の好みは把握しておきたいものなのだ。だから、」
このタイミングで神原はくしゃみをひとつしてから(いい加減に服を着せた方が良さそうだ)、再度問うた。
「どっちが良い?」
「…………」
……うーむ。
ここまで散々にふざけてきたが、ふざけず真面目に考えると。
正直なところ、本人が好きな方を付ければ良いんじゃないかってのが僕の気持ちなのだけれど。
どちらか、選べと、言われれば――
「ごめん、……正直、選べねえ」
「なんだと? つまり阿良々木先輩はノーブラの彼女が好みということか?」
「まあ、そういうことになるかな」
「えっ」
さっと裸の胸を押さえて身を引く神原。
見るに反射的な反応であるところが、彼女に本気で引かれたことを表しているようで、その事実は僕のハートを少しだけ傷つけたが。
「い、いや、待て。最後まで聞け」
僕も衝動的に、引いた神原の手首を追う様に掴んで、言う。
図らずも畳みかけるような口調になってしまったのは、真剣さの表れだと主張したい。
「好みの下着を着けたいってお前の気持ちは嬉しいけどさ、その……」
僕は自分の視線を、彼女の剥き出しのおっぱいから、その皮膚の上に残る歯形へと移す。
「汚しちゃったら、申し訳ないし……」
それが昨夜、僕が付けた吸血痕を指していることに気付いたのか、神原は、
「……そっか」
と言った。
「でも、白いブラを赤い染みで汚すのも、中々に背徳的で私は嫌いじゃないけどな」
なんて余計な一言は残されたものの、彼女は僕の気持ちに納得したのかそれ以上は追及せず、黙って下着に腕を通し始めた。
結局白のフロントホックを選んだようだ。「阿良々木先輩! 外す時はここからだからな!」と先刻より持ち上がった胸の谷間を指差しながらの神原の主張はスルーしておく。
余分な肉の付いていない美しい背中で交差する肩紐は、まるで十字架を描いている様だった。
彼女の胸の膨らみの上を赤色が滴り、身に纏った白い色を犯す。
その様を想像して、果たして僕が興奮したかどうかは秘密だ。