「突然で恐縮ですが駿河先輩、ちょっとピアスでも開けてみませんか?」
 突然も突然、突然が過ぎる。と、私の耳たぶにピアッサーを拳銃の如く突きつけてくる扇くんに、珍しく激しい抵抗を見せている私だった。
「いや、ちょっと待て。話が見えないぞ扇くん。とりあえず話してみろ。正直、積極的にきみに対する理解を深めたいとは思わないけれど、多分、話せば分かるから。とにかく、その、ピアッサーを下ろして」
 先輩を驚かせる為にわざわざ購入してきたのであろう、その穴を開ける為の工具を握る手を制止し、なんとか顔から引き離そうとしているのだが……結構力強いな、この子。ぐぐ、と力を込めて握り合った手と手は完全に拮抗していた。
「はっはー。話せば分かるって、控えめな命乞いのようでいて実は不遜な台詞ですよねえ。最終的に自分の意見を押し付けたいだけの言い訳じゃないですか。第一、僕達の間に対話は必要ありませんよ」
「必要ありまくりだよ。コミュニケーションを諦めようとするな。私は自分の意見を押し付けてでも自分の貞操を守りたい。そのくらいの権利はある筈だ」
「貞操は貞操でも耳たぶの貞操ですがね。まあ、思いの外普通の貞操観念をお持ちの駿河先輩に免じて正直にゲロっちゃいますと、僕も長くお付き合いしている先輩相手に、心を込めたプレゼントのひとつくらい用意しないと、いい加減愛想を尽かされてしまうかなー、と思いまして」
「尽かすとしたら今だよ、今!」
 私の耳元で試し打ちとばかりに針をガシャガシャやられている今!
 というか、開けるにしてもそんなにいきなり穴を開けるものなのか。冷やしたりとか消毒したりだとかするんじゃないのか? 開けようと思ったことがないから知らないけど、少なくとも心の準備くらいはさせて欲しい。
「冷やすとかえって開け辛いらしいので大変だと思いますよ」
「そんな正論っぽいこと返されても困るよ」
「えー? というか、駿河先輩なら痛いのがお好きだと思ってたのに。あなたの変態性って所詮その程度なんですね」
「そっ……!? いや、いきなり他人の耳に穴を開けようとする方が嗜好としては特殊だからな?」
「あはは。駿河先輩も中々言うようになりましたねえ――あっ」
 と、扇くんが上に覆い被さったまま、一貫してにこりともしない瞳で笑顔を作ったところで、私の巴投げが決まった。この技は安易に使いたくなかったのだが……しかし、彼は私の忠実な後輩を名乗っておきながら全く忠実な素振りを見せないので、私が有する奥義のひとつを見せるのもやむを得まい。
「あいたたた……酷いじゃないですか」
 数秒の間を挟んだ後、扇くんは部屋の隅から起き上がってきた。痛みを訴えてはいたけれど、作った笑顔は崩れていなかったので、同情の余地はないと判断する。
「そもそもどうしてピアス穴が開いていない人間にピアスを贈ろうと思ったんだ」
「ええーっと、……イヤリングだと思って購入したら、ピアスだったんですよね。返品するのも面倒だったし、だったら駿河先輩の耳にピアスホールを開けた方が手っ取り早いかと思って」
「本当の本当に私がきみに愛想を尽かすとしたら、多分今のタイミングだったな」
「ほらほら、どうせ話しても分からないでしょう?」

4

「駿河先輩って、僕のこと好きでもなんでもない癖に、どうして僕とセックスするんですか?」
「……きみ、そういう面倒くさいことを言う子だっけ?」
「どちらかと言えば。というか、そんな遊び人みたいな返しはしないでください」
 傷付いちゃうじゃないですかー、と背中の方で扇くんがじっとりと笑った気配がしたが、大したダメージも追ってなさそうだった。こういう口ばっかりのところはそれこそ、面倒くさいの筆頭なのだが。
「あーあ。憧れの先輩が性にだらしないだなんて、見損なっちゃうなー」
 シーツの上に寝そべっていた私を、半ば潰すようにのし掛かっていた扇くんは、詰るようにそう言った。元からゼロ距離だった四本の脚の位置が、絡むような配置に組み変わる。
「今、きみが言える、ような、台詞、か……?」
 彼の下半身が、立てた膝を軸に動き始める。肌と肌が擦れる感覚はするのに、耳から入ってくる音はぐちゃぐちゃと水っぽくて、何をしているかは察しがつくが、あまりフォーカスを当てたくなくて、止める。
 微睡みに落ちそうになっていた頭をゆるく持ち上げると、自分の長い髪の毛先と扇くんの掌が目に入る。伸びっぱなしの髪。手袋をしたままの手。手首までを黒いシャツが覆っているので、私はその下の肌の色を知らない。
 なのに。
「ねえ、どうして僕と、してるんですか?」
「……っ」
 腰の奥から迫り上がってくる感覚が瞼が重くしてきたので、睫で視界に薄い闇が重なる。私から見えない方の手が、私を扱く。押して、引いて、圧して、退いて、が繰り返されて、私の喉が愉悦の声を作る。だけど多分、彼はこれが聞きたいんじゃあない。
「はあ……なんか疲れちゃったなあ」
 緊張と解放を一定量繰り返すと、体勢はそのまま、体重がもろに落ちてきて、私の背骨を圧迫した。着地点には私の頭があった。扇くんはそのまま顔を覗き込んできて。
「ねえ、どうしてだと思います?」
 三度同じ事を訊いた。そうやって私を責める彼の唇の感触も、私は全く知らない。

1

「はあ……最近、なんだかやる気が出ないんですよねえ」
 講義が始まる前。教室の机に片肘を付けたまま、扇くんが言った。
 なんで彼が私の通う大学の講義室にいるんだろう? という疑問もないではないが、その突っ込みを入れるのも今更というか、野暮な先輩だと思われたくはないので、ここはスルーといこう。
 代わりに、
「きみがやる気に満ち溢れている様なんて想像付かないけどな」
 と、ちょっと強めに詰ると、扇くんは肘どころか頬まで机にぺったりとくっつけてうなだれながら、
「えー? そりゃあ僕は駿河先輩のように、いつでもどこでも元気一杯、お気楽に生きているキャラじゃないですけど、多かれ少なかれアップダウンはありますよ」
 と、反論した。台詞の半分以上が失礼極まりない言動で出来ていたので、危うく私の方が会話のやる気を見失いそうになる――のをぐっと堪えて。
「ちょっと早いけど、夏バテかな?」
「夏バテってなんですか?」
「えっ知らないのか? ……えーっと、暑くて食欲がなくなったり、身体が怠くなったり、そういう疾患のことだよ」
「あー、じゃあ多分それです」
 活力に欠ける肯定の返事をしながら、扇くんは私が持参していたカフェラテをストローから啜った(勝手に飲むことを許可した覚えはない)。確かに、私を煽るように見つめて来る瞳を覗き込んでみれば、心成しか虚ろな気がする(いつもだけど)。身体のみならず気持ちまで重苦しそうだ。
「あーあ。駿河先輩なんかに心配されるなんて、僕らしくないなあ」
「きみが落ち込むのは勝手だけど、先輩を巻き込むな。心配し甲斐がなくなるだろうが」
「はっはー。人は一人で勝手に落ち込むだけってやつですか」
「叔父さんの名台詞をそう悲劇的にもじって良いものなのか?」
 しかし、扇くんも病気になるんだなあ、と。
 考えてみれば極々当たり前のことなのに、何故かとても珍しい事象に遭遇したような気持ちになりながら、中身が半分まで減ってしまったカップを傾けていると。
「うーん……ちょっと自己肯定力を高めたいので、駿河先輩。手始めに僕の好きなところを百個くらい挙げて貰えませんか?」
「私がきみの好きなところを百も言えると思っている時点で、きみの自己肯定力は問題ないよ」

2

「いい加減、友達に戻るべきだと思うんですよ。僕と駿河先輩」
 いつになく浮かない顔で扇くんが言った。
「戻るべきも何も……きみと私、友達以上になった覚えがないのだが」
「あれ? そうでしたっけ?」
「そうだよ」
 昔の阿良々木先輩にもその気があったが、扇くんはどうも記憶喪失を装おうとする節がままある。かてて加えて、私同様、ない筈の記憶を捏造してふざける癖もあった。ハイブリッドなボケ方は器用だけど、先輩として流されまいと気を遣う必要があった。
 のっけから重苦しい表情をしていたからどんなシリアスな話が始まるのかと思いきや、私が突っ込むとすぐにいつもの飄々とした顔に戻ったから、まあ、例によって言ってみただけのジョークなんだろうな。
「そもそも、僕と駿河先輩ってお友達同士なんですかね?」
「友達――とはちょっと違うのかもしれないけどな。先輩と後輩だし」
「何を仰るんですか。愛さえあれば歳の差なんて」
「だからそれは友達じゃない間柄で使う台詞だろう」
 きみはどうしても一足飛びで私との距離を詰めたがるよな。
「えー? それはつまり、僕とはお友達になりたくないってことですか?」
「先輩と後輩で良いだろう。今まで通り」
「ははあ、成程。どうしても友達になりたくないというのなら、僕も駿河先輩と改めて友達以上の関係になるのは吝かではありません」
「分かった。きみとは友達で良い」
「わーい」
 と、扇くんは両手を広げて喜ぶようなポーズを取った。
 ……なんだかなあ。
 友達が欲しいんだったら、最初から素直にそう言えば良いのに。
「じゃあ、友達の駿河先輩。今度お家に遊びに行っても良いですか?」
「まあ、そのくらいなら良いよ」
「友達の駿河先輩とお泊り会がしたいなあ」
「うーん? それもアリなのかな? 私は男の子の友達がいた試しがないので、いまいち加減が分かっていないけれど、友達だったらパジャマパーティーのひとつやふたつ、やってもおかしくないもんな」
「あー、でも僕、枕が変わると眠れないんですよ。なので、寝る時は友達の駿河先輩のお胸を借りても良いですか?」
「あんまりふざけるようだと私は今すぐきみの友達をやめるぞ」
 私だって健全な女子高生だから、エロい話をする友達は少なくないけれど、きみをそういう友達としてカテゴライズするのはちょっと違う気がするんだよな。
「え? 駿河先輩ともあろうお方が、まさか友達を選り好みしているんですか?」
「また嫌な言い方をするなあ。そうじゃなくて、誰にだって話題の向き不向きがあるって話だよ」

1

うちのナースはおさわり禁止2

04

 沼地蠟花のことを何も知らない。
 生まれも育ちも。将来の展望も。月に二度は私に会いに来て、安くはない酒と接客に金を落としていくけれど、その金はどこから回ってくるのかも。病院に人一倍苦手意識を持っている癖に、心理カウンセラーを志すようになった心境も――その病院嫌いの理由だって、全てを開示する義務などない筈なのに、沼地は私に話してくれた。しかし、それも私にとっては理解しかねるものだった訳で。
 とどのつまり、私は彼女のことを何も分かっていないのだろう。
 私だって、ただ黙って相手の隣に座っている訳ではない。実は喋り上手な彼女の言葉を――素直に受け取るには巧妙に混ぜられた皮肉をかわす必要があるし、毎度毒見でもするような心持ちにさせられる言葉の数々を――なるべく受け止めようとはしている。
 それでも私は、彼女について何も知らないと言えよう。相手の話を聞けないことは、少なからず自分が不道徳を働いているような気持ちも芽生えるが、しかし。
 時たま、何か些細な気まぐれがきっかけで、沼地の語る言葉にこちらが自ずから手を伸ばしたとしよう。すると途端に、彼女のとろいながらも過多な言葉の中からは、本質だけがするりと抜け落ちてしまうのだ。
 だから、私は彼女の言いたいことを、一つだって正しく拾えてはいないのかもしれない。
 でも、それでも良いと思う。その理由は、二つくらいある。
 一つ目は、語り手としての彼女はきっと、聞き手のクオリティまでは求めていないから。
 そしてもう一つの理由は――いつか彼女が言った通り、真実の開示の瞬間は、常に痛みと隣り合わせにあるからだ。

 沼地が借りている部屋の場所を知ってから、私の生活は大分楽になった。
 どれくらい楽になったかと言えば、今や客として店で会うより、プライベートで会うことの方が多くなったくらいだ。
 まず、そのアパートは職場に近く、大学から遠い。
 私のバイト代には送迎費なるものが付くのだけど、そもそもの稼ぎが(言い換えてしまえば成績が)芳しくないので――いや、同年代の中で見れば、額面は決して悪くない筈だ。稼ぎと共に消費も激しいから、と訂正しておこう。経済を豪快に回せるのは素晴らしいことだけれど、生活を成り立たせる為の支出を抑えられるのは、一大学生として喜ばしいことだった。
 加えて、学生としての顔がある以上、在籍している学校から離れた場所で活動出来ることは、私の心を少しばかり穏やかにさせた(つまるところ、私は身バレを恐れた結果、わざわざ自宅から遠い場所のバイト先を選んでいたので、週末に自宅に帰らないだけでも時間の余裕が出来た)。
 あと、これはここだけの話なのだが、私は彼女が使っている寝具が気に入っていた。
 セミダブルのベッド。
 知らない人にとってはそれがどうした、という話かもしれないが――いやいや、一人暮らしの学生にとっては、中々手が出し辛いものだとは思わないか?
 と、苦学生ぶってはみたものの――私の内面を知る人からすれば、家具の一つや二つ、ぽーんと買ってしまうような金銭感覚を有しているだろうと予測されるかもしれない(そして、その憶測は決して間違ってはいないとは思う)が、しかし現実はそうもいかない。
 ……私の部屋が、ベッドを運び込めるくらいに片付いていれば、良かったんだがなあ。わざわざ大型家具を運んできたというのに、業者さんが部屋に入った途端、さっと青ざめてしまったので、私も注文をキャンセルする他なかった。
 そんな失着エピソードはともかく(これを直接沼地に言えば、たちまち非難の視線を貰ってしまうだろう。だからここだけの話だ)。
 閑話休題。
 つまるところ、私は沼地の生活に甘えていた。
 だらだらに甘え切っていた。
 明け方、玄関のチャイムは鳴らさず、合鍵でドアを開ける。きついパンプスとストッキング、それからガーターを脱ぐ。ユニットバスの熱いシャワーでアルコールを抜く。濃い色のシーツに潜り込む。私が気に入っているセミダブルベッドは、成人女性二人くらいなら難なく横になれる。その日あしらった客の顔は上手に思い出せないけれど、週明けに提出を求められているレポートのことは憂鬱に思いながら、瞼を重くする。
 そんな甘やかな生活は快適だった。部屋の主から通い妻だと揶揄されること以外は。
 勿論、世話になっている以上、それくらいの軽口は目を瞑ろう。

 その日は手紙が届いていた。
 郵便受けの中身を覗くのは私の仕事ではないのだが、しかし、今日に限っては私がその役を仰せつかった。
「ぁ、痛っ」
 もとい、玄関先に置きっぱなしだった郵便物を、気付かずに踏んでしまったのである。
 磨かれたフローリングと紙の間の摩擦係数は小さく(ストッキングを穿いていたことも敗因かもしれない)、私はその場にすってんころりんと尻もちをついた。否、すってんころりんなんて可愛らしいオノマトペで表現したのは主観に過ぎなくて、実際はどったんばったんと近所迷惑な音を立てていたようだ。
 その証拠に、部屋の奥から沼地がのそのそと起き出してきた。
 寝ていたのだろう。後頭部にゆるく寝癖がついている。そんな顔を見せられると、人が通りそうな道に郵便物を放置した無精を責める為の憤りは、みるみるうちにしぼんでしまうのだった。
 足元に転がっていたそれを素直に手渡す。その大きな封筒は、私が足蹴にした所為か(わざとじゃない)、角がよれてしまっていた。
「何だ、その物々しい郵便物は」
「受験の手引きだよ」
「受験? 何のだ?」
「公認心理士の資格」
 コウニンシンリシノシカク。
「ほら。これでも一応、カウンセラー志望だから」
 という沼地の言葉に、やっと私の頭でも理解が追い付いてくる。
 えっ!? お前、資格の勉強なんかしてたのか!?
 いつの間に、そんな堅実なことを。
「てっきり、女遊びだけで食っていく気なのかと思っていたのに……」
「きみの中の私のイメージに何か思わなくはないけれど、現実にそんな生き方が出来ていたら苦労してないよ」
 と、沼地は眉間に皺を寄せた。
 そうだな。
 努力をしている相手に失礼な発言だった。
 お前が勉強をしている様なんて、私には逆立ちしたって想像がつかないけれど。しかし、沼地も見えないところで努力はしているということか。取得を目指しているというカウンセラーの資格がどんなものなのかは、分野に明るくないので分からないが……少なくとも、ヒモになるような努力をするよりは断然良い。
 しかし仮にそうだったとしたら、私みたいな奴が真っ先に食わせる側に回るんだろうなあ……。
 なんて、つまらない想像をしながら、シャワーを浴びに行こうと立ち上がったところで。
 ふと、郵便受けの下に、『何か』を見つけた。
 おっと、危ない。如何せん公認心理士のインパクトが大きかった所為で、見落とすところだった――と、冗談めいたことを考えられたのは、それを玄関先で拾い上げるところまでだった。
 その『何か』も封筒だった。
 先の受験票に比べれば、幾分かサイズが小さい。
 どこにでも売っているような、簡素な茶封筒。
 ただし、宛名も差出人の名前も見当たらなかった。それだけでもかなり怪しい。
 不自然さに後押しされ、蛍光灯に透かして見る。が、中は空っぽではないことくらいしか分からない。
「…………」
 少々躊躇はしたものの、私は中身を検めることにした。不用心極まりないことに、封はされていなかったから。
 ほら、危険物とか、怪文書とかが入っていたら不味いじゃないか。不気味で怖いじゃないか。
 中をそっと覗き込む。今思えば、そっちの方が対処は簡単だったかもしれない。
 怪しげな封筒の中には――一万円札が数枚入っていた。
 紛うことなき、日本銀行券である。一番高価な金額の。しかも、不自然に厚みがあった。
「他人の郵便物を勝手に見るなんて、趣味が悪いぜ」
「!」
 いきなり声をかけられた。
 思わず茶封筒を取り落としそうになって、そっちの方の手を上にあげてしまい、対象を相手から遠ざけるような形になってしまった。そんな暴挙に出た私を、沼地はじとりと睨んだが、それ以上追っては来なかった。
 彼女の冷たい視線が語る。
 この封筒の中身について。触らない方が賢明だ、と私の本能も警鐘を鳴らした。
 それ以上を聞けば、きっと、この甘やかな生活は瓦解する。
 しかし、私は避けることを――問題を先送りにすることを良しと出来なかった。
「これは、何だ」
 出来る限りの力で、感情を押さえ付けながら問うた。
 自分でも吃驚するほど、静かな声だった。
「さあね? 通り掛かりの優しい人が入れてくれたんじゃない?」
 はぐらかされた。しかも、やる気のないはぐらかし方だった。それが分からない程、私は馬鹿じゃない。
 面白くない気持ちそのままに相手をきつく睨んだが、動じなかった。
 彼女はきっと、私から追及させることを諦めている。
 重くわざとらしいため息が、私達の間に落とされて。
「……一ヶ月につき、五万円かな」
 先に沈黙を破ったのは沼地の方だった。
「だから、料金形態にもよるけれど、最低でも月に二度は会いに行ける。きみが聞きたいのって、要はそういう話だろう?」
 確かに、私から訊いた話だった。
 でも、聞きたかった訳ではなかった。
「私もアルバイトをしていてね。雇い主、もしくはクライアントとでも言えば良いのかな。その封筒は、そいつが郵便受けに入れたものだよ」
「…………」
 元から不可解な点はたくさんあった。
 彼女の賃貸ワンルームに通うようになって、生活水準のズレに気付くべきだったのだ。定職を持たない沼地の支出入は、とてもじゃないが、ナースキャバに通える羽振りの良さではない、ということに。
 しかし、私はそれらの不自然性を見ない振りをしてきた。
 見たくなかったのかもしれない。
「一ヶ月に二回、会いに行きさえすれば良かった。お店に行って金を落とす。きみがナースのコスプレで働いているのを確認する。それが仕事で求められた最低限のノルマだった。クライアントへの委細の報告は義務じゃなかったからね」
「……その、クライアントとやらの名前は」
「本当は言わない方が良いんだろうけれど、きみにも予想がついているだろうから」
 と、煩わしい前置きで予防線を張りながら、彼女は教えてくれた。
 貝木泥舟。
 聞いたことがある名前だった。
「つまり、お前はそいつの要望に従って、今まで私を指名していたってことか」
 なんて、私は不毛なことを聞いた。
「まあ、そうなるね。わざわざ訂正を挟むほど間違ってはいないな」
 だから不毛な答えしか返って来なかった。

「目的? いや、そういうのは知らないよ。私もきみと同じで、ただのバイトに過ぎないから。奴にどんな高尚な目的があろうと、下卑た思惑があろうと、私の及ぶところじゃないからさ。私は振られた役割に従って動いていたまでだ。
「知っての通り、私も心理士を目指していて――まあ、それなりに金もかかるし、時間もかかる。
「そうだな。まずは私がカウンセラーを志し始めた辺りから、話を進めようか。
「実はね。
「かつては私も、バスケットボール選手になりたかったんだ。
「神原選手も考えたことがあるだろう? 優秀なバスケットボール選手なら、一度くらいは思ったことがあるだろうし、そして大抵、それは通過点に過ぎない。学生時代の思い出の一つで終わるだろう。
「しかし、こういうことを自分から言うと嫌われてしまうかもしれないけれど――実際、私はなれたと思う。
「あそこで足を故障していなければね。
「……うん。今は治っているんだけど、でも、ちょっと時期が悪かった。
「あれは中学三年生の冬だったかなあ。推薦を狙っていた高校が視察に来ていた試合で、私は接触事故を起こした。その辺りは、あまり詳しくは語りたくないのだけれど、まあ、分かるだろう?
「私の夢は潰えた。
「なんて、格好良い言い方をしたものの、そんな前向きな将来設計じゃあなかったな。
「死ぬまでの時間をやり過ごす為の方法を、一つ失ってしまった。なんて表現をした方が、当時の感覚に近いかもしれない。
「大袈裟だって? それは大人になった今だから言えることだよ。大人になれた今だから、かつての自分を上から目線で慰められるのさ。
「足は駄目になった。
「だけど卒業を目前にして、他の進路を見つけなきゃいけなくなった。
「就職か、進学か。どちらも私には厳しい道に感じられた。ほら。得意な球技を軸に進路を決めていたから、受験に向けての勉強とかしていなかったんだ。という訳で、選択肢は無いに等しい。
「足のリハビリが終わるまでは、一応、家に置いて貰えたけどね。それが親から貰った最後の甘やかしだったよ。
「ん? ……いやいや、本当はね。その推薦先のスポーツ進学校には学生寮があったから、そのタイミングで家から出るのが理想だったんだ。
「ノーワーク、ノーペイ。
「なんて言われても、当時の私はまだ若かったし、自慢の足を失ったことで荒んでいた。いきなり他の道を見つけろと言われても、ねえ?
「しかし、挫折が私の転機となった。
「あれは私が偶然、学校の保健室を通り掛かった時だ。否、私がその時期保健室に通ったのは、言うまでもなく壊した足が理由にあったから、偶然ではなく必然だったのかもしれない。
「足が痛んだから、ベッドに横になっていた。ま、要するに不貞腐れて寝ていた訳だが。
「カーテン越しに、話し声が聞こえてね。
「口ぶりから察するに、常連じゃあなさそうだったな。
「始めはてっきり、私と同じように、体の不調を言い訳にしてサボりに来た連中かと思った。
「だけど違った。
「保健室に蔓延っていた彼女達が負傷していたのは、体ではなく心だった。
「まあ、他人に言うのは気が引けそうな、そして聞くのもはばかられそうな悩みを、ぽろぽろ喋っていたよ。それらは全て『ここだけの話なんだけど――』みたいな前置きで始まりそうなものばかりだった。
「確かに辛い話、心がしんどくなる話ばかりだったけれど、その奥には――愉悦があった。
「それはきっと、当時の私が不幸だったから気付けたんだろうね。
「そう。彼女らがしていたのは被カウンセリングじゃなく、不幸自慢だった。可哀そうな自分を可愛いと信じることで、心のバランスを保っているようだった――そして、それは決して間違った行いじゃあない。
「立ち聞きするのは気が引けたけど、すっかり聞き入ってしまって――そして魅せられてしまった。
「身体のみならず、私も彼女達と同様、メンタルに傷が付いていたのかもしれない。それが価値観を歪ませたのかもしれない。
「そして、その歪みは身体のリハビリが終わっても、ついに矯正されることはなかったよ。
「他人の不幸に触れることで、私の心は癒された。
「どうすればこの幸福を、もとい不幸福を確立させられるだろうか。あれこれ探し回った結果、私は今の進路に行き着いたって訳だ。
「カウンセラー。
「分かりやすい進路希望だろう? こうなってくると、やはり私も多分に漏れず、バスケットボール選手という夢は通過点だったんだろうな。
「手始めに、私は資格を取ることにした。
「さっききみが言った通り、堅実にね。
「資格を取るにはまず、資格を取る為の資格を得るところから始めなければならなかった。カウンセラーになるには大学を出なきゃいけなかったんだけど、私は中卒だったから、人生の舵の切り方をややハードモード寄りにしてしまった訳だ。
「それでも、私は諦めたくなかった。
「一度知った蜜の味を忘れることは出来なかった。
「とりあえず、素人感覚のカウンセリングごっこを始めてみることにした。何もかもが初めましての手探りだったから、こうして思い返してみると、仕事というより、趣味や道楽に近いかな。
「そもそも、私が心理士を目指し始める原点には、他人の不幸話を聞きたいという欲があったからね。仕事に直結しなくとも、とりあえずその気持ちを満たすことで、モチベーションの維持を図ろうとした。
「始めは対象を中高生に限定した。
「彼ら彼女らは匿名性を好むからね。先に述べた通り、素人の――言わばモグリの相談員だったから、責任逃れのリスクヘッジ的な意味で、名前を伏せて活動したかった。
「なんてもっともらしく理由を述べてみたけれど、こんな話は後付けかもしれない。単に、私の中の心理士のモデルケースがスクールカウンセラーだったから、その影響で無意識に相談対象を選んだのかもしれない。
「選り好みをしたんだ。
「ただ一つ、これは確実に言える。より生々しい話を聞けるから、という理由はあった。
「そんな最低な動機の元、私はひっそりと旗上げをした。
「不幸を愉しむカウンセラーの誕生って訳さ。
「……そんなに煙たがるなって。無論、私は相談者の話を真剣に聞いたよ。ほくそ笑んでいたのは、あくまで心の中でだけさ。
「その証拠に、私の慈善事業は中々に上手くいっていて――いや、謙遜を入れると話が煩雑になるか。
「好調だった。
「大成功だった。
「私の人心掌握の才能が、このタイミングで花開いたと言っても良いかもしれない。
「それをそのまま仕事に出来れば良かったのかもしれないが……いや、その好調さは私のカウンセラーごっこが完全無料相談所だったことに理由がないとは言えないだろうから、ここで採算が取れた気でいるのは拙速かな。
「そんな折だったよ。私と貝木が出会ったのは。
「きっかけは、何だろうな? とある街の相談者が抱える悩みを一本に辿った結果、私がその男に行き着いたんだったかな。それとも、貝木の方が、自身が勤しむ詐欺活動の妨げになるからと、私のカウンセリングに当ててきたんだったかな。まあ、そのどちらかだよ。
「彼は詐欺師だった。
「そして、話が分かる大人だった。
「この場合の『話が分かる』とは、『金払いが上手い』という意味だと思ってくれて良い。詳しい事情は割愛するけれど、それまでの私が如何に稚拙な金の使い方をしていたかを学ばせられたよ。
「私は貝木の仕事を手伝うことにした。
「相手の思想に感銘を受けた訳ではないけれど、ここでビジネスの場数を踏んだ大人からスキルを盗んでおいた方が、その後の自分にとって一助になると思ったんだ。
「主な仕事は火消しだった。詐欺師の巻き起こした火の粉を、適度に鎮火させた。
「具体的に言えば、傷付いた被害者の話を親身になって聞いてあげた。しかも、これは今までの活動と手口は変わらない上に、より込み入った身の上話を聞けるようになった。たまに現れるマジもののクレーマーは、然るべき機関を紹介してあげた。空々しく聞こえるかもしれないけれど、それらは私にとってかけがえのない経験になったよ。
「断っておくが、私は詐欺活動そのものに助力はしていないよ。あいつの思想に肯定もしていない。私が行っていたのはあくまで、被害者のメンタルケアだけだ。一人で切り盛りしていたプレ期間と同じように、無料でね。
「ただ、奴が働く社会悪的行為を阻害しようと動いて訳じゃないし、静観するのも悪だと責められたら、弁明は出来ないな。
「まあ、そんな風に。
「そうやって私は、カウンセリングの経験を積んで、精度を高めていった。
「そんな生活が続いたある日、貝木から言われた。
「『もっと金払いの良くなる仕事をしないか』
「ってね。
「どんな無理難題を押し付けられるのかと身構えていたけれど、あいつからは、
『ナース服特化型のキャバクラで酒を飲んで来い』
「とだけ言われた。
「訳が分からなかったよ。
「その時に渡された名刺には、きみの源氏名が書いてあった。だからてっきり、きみと貝木は知り合いなのかと思っていたけれど、その予想は外れだった。
「それも不可解な話だ。
「しかし、そんな不可解さもすぐに忘れた。きみのナースルックはそれくらい強烈だったよ――もとい、きみの思想や、キャリア設計図に、私は心を打たれた。
「ドクター志望の苦学生が、学費を工面する為に、ナース服で接客業に勤しんでいる。
「あの神原駿河さんが、自分の生活の為に、献身的に酒を注いで媚びを売っている。
「そんな風刺の効いたきみの姿は、私の目からはとても魅力的に見えた。
「同情的になったのかもしれない。もしかすると、強かにアルバイトに勤しんでいたきみに、少なからず自分を重ねていたのかもしれない……だとしたら、それは十数年前、互いがバスケットボールプレイヤーだった頃の弊害だけどな。同じコートでプレイしていた時代の記憶に引っ張られ、余計なシンパシーを感じたのかも。
「きみはきみ自身を指して『不幸じゃない』と言っていたけれどね。
「いつだったか、きみのプライベートを質問したことがあっただろう? その時に、通っている学校名も尋ねていたと思う。
「丁度、私はそこの編入試験を受けようかと思っていたんだよね。
「いつまでも小遣い稼ぎのバイトに興じている訳にもいかなかったから。ここで、私の当初の目的、資格取得に立ち返る。
「昔の知人が、人には言えないお店で秘密のアルバイトをしていて、尚且つその知人は私が編入を考えている大学に通っている。そしてどういう訳か、私が師事する詐欺師は、そいつに金を落とすことを期待している。
「ならば、仲良くならない手はないじゃないか。
「訳は分からなかったが、何かの巡り合わせじゃないかって、思いすらした。
「だから頑張ったよ。
「神原選手みたいな奴には分からない話かもしれないが、この歳になると、友達って意識して作ろうと思わないと作れないからね。
「人と友達になるのって、難しいよね。
「気の長い仕事ではあった。でも、時間だけはたっぷりとあったから。
「奴の払いをそのまま懐に入れられないのは歯痒かったけれど、このフリーター時代に仕事を失うのは避けたかったし、将来を見据えての実務期間も必要だった。
「果たして貝木の下での従事が実務経験にカウント出来るかは、正味曖昧なところではあるが……まあ、そこは詐欺師だ。対象が世間なのか私なのかは問わないが、とにかく、上手くよろしく騙して貰えることを期待するしかない。
「それに、私もそこまで悪い奴になるのは、気が引けたから。
「しっかしさあ、他ならぬきみの方が分かっているだろうけれど、我ながら、私の働きぶりは中々のものだったぜ?
「本当はね、毎日通おうかとも考えた。金さえ払えばきみに会えるんだし。クライアント、いや、もはやスポンサーかな? あいつに相談すれば必要資金のアップも見込めるだろうと踏んでいたのだけれど、それは流石に、きみに怪しまれるだろうと思って止めた。
「学生って肩書きはいざという時の盾にもなるが、今回の場合は足枷だった。分かるだろう?
「事実、今こうしてきみに暴かれてしまっている。
「話を戻そうか。
「だからね、あくまで自然に仲良くなろうと努めたんだ。
「毎回指名をした。勧められたお酒は積極的に飲んだし、飲ませた。新しいサービスも一通りは試した。
「きみはまるで私の我儘に振り回されているかのように振る舞っていたけれど、私の興味本位が自分の成績向上に貢献していることは分かっているのか、完全に拒否したことはなかったよね?
「世間が怪我をした人間に優しくなることは知っていたから、故障の経験を活かさせて貰った。松葉杖を引きずってアフターに誘ったり、それがまんまと上手くいったりね。
「うん。上手くいったんだよ。
「店の外で、プライベートで会う時間も増えたし、次第にナースじゃない時のきみの話を聞ける機会も増えていった。バイトのシフトの確認だけじゃなく、今や大学の履修登録の相談までされるようになったしね。
「……何だよ。別に、嫌々やっていた訳じゃない。
「多かれ少なかれ打算があったのは認めるけれど、きみとの火遊びは楽しかったよ。
「今までああも他人に執着したことなんてなかったから、毎日が新鮮だった。私の生活に張りを持たせてくれたという意味では、きみにも感謝しなければなるまい。
「まめまめしくキャバ嬢への連絡を怠らない私に、貝木は満足していた。きみも満更じゃあなさそうだった。私の懐も少しずつ温まっていったし、僅かながら知見も増えた。
「十二月には臨時ボーナスなのか、いつもの金額にちょっと色がついていた。これはそういうことかなって思って、私はクリスマスプレゼントを用意した。中々趣味が良かっただろう?

 と、沼地は場を混ぜっ返すように笑った。
 ばちん、と弾けた音がした。
 私の左手が、彼女の頬を張った音だった。
 相手の足元に茶封筒を叩き付けて、そのまま玄関から飛び出した。
 それ以来、私は沼地蠟花に会っていない。

 

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