ミザリーワルツ

02

「ハロウィンって、いつだっけ?」
 手元のスマートフォンでSNSのタイムライン(私は間違っても他人と繋がりたいなんて思わない)を追うのに夢中だった筈の沼地蠟花は、そんな質問を私に投げた。
 いきなり声を掛けられたので、冷水を浴びせられたかの様にひやりとした。同じ部屋にいたというのに、だ。小柄な彼女の尻が、私のクッションを控えめに押し潰している。だけど、そんな主張の少なさは、同じ空間にいても気楽で良かった――今みたいに前触れなく話しかけられる時を除いて。
 話を戻すと。
 投げ掛けられた問いに素直に答えるならば、十月三十一日だ。
 だけど、いくら彼女とて、今や国内でメジャーとなったイベントの日付を知らない筈はないだろう。なので、これは易しい世間話の一種として、話題を振られたのではないだろうか。だとしたら業腹だ。それに、既に彼女が口を開いてから数秒は経過しているし、会話の糸口はもう途絶えたと言えよう。上手く乗ってあげられなくてごめんなさいね。
 しかし、それ以上に、私は彼女の口からその単語が出てきたことに、ちょっとした驚きを覚えたので、芽生えかけた刺々しい気持ちはそう長くは続かなかった。
 なんか貴方って、そういうイベントっぽいの、嫌いそうじゃない。
 私? 私は勿論嫌いだけど。
「そうか。明後日なんだ」
 と、やはり私の返事を待たずして、彼女は件のスマホを駆使することで自己完結に至ったらしい。
 気になるのだろうか。
 この田舎町においてはまるで仮装みたいな髪の色をしている癖に……と、私は彼女の茶色い毛髪を見つめて、すぐに止める。ぞっとしないことだ。
 褒められない思考と、先程の会話失敗により気が咎めた、という訳ではないが。
 ……じゃあ、林檎のパイでも焼きましょうか。
 なんて、今度は私から前向きな提案を口にしたら、彼女は意外そうに両眉を持ち上げた。途端、口にするんじゃなかった、なんて後悔が私の心に津波のように押し寄せる。浮足立った気持ちを余計に泡立たせ、波の去った後のなんと虚しいことか。
 そうかそうか。私が甘い菓子でも作ろうと提案するのは、日頃やや愛想に欠けるお前にそんな顔をさせるくらいに意外なことか。
 二秒前の発言をなかったことにしたい。そんな風に神様にでも祈りたくなったが、私を傷付けた本人が待ったをかけた。
「そう怖い顔をしないで。私はただ、お菓子を自分で作るという感覚が新鮮だっただけだよ」
 と、肩を竦めた。
 そうかしら? と私も彼女を倣って肩を竦めて見せたのは、ちょっとした茶目っ気だ。そのくらいのユーモアなら私だって有している。ボディランゲージを挟むことで、沈みゆく気持ちを浮かばせられないかという淡い期待もあったのだけど、残念なことに成果は上がらなかった。
 私の発言が脈絡なく、可笑しいものだったことには違いないが、しかし、彼女が首を傾げた感覚は解りかねる。
 取り立てて難しいことではない。焼き菓子を作るのは比較的容易だ。材料を分量通り正確に量り取りさえすれば、まず失敗することはない。焼き加減だって、家のオーブンのスペックを把握していれば問題ない。特にアップルパイというやつは、生クリームを角が立つまで泡立てる必要もないので楽だ。調理器具の後片付けに限っては、ほんの少し疎ましく思う気持ちもあるけれど、幸か不幸か(なんて謙遜するまでもなく私は不幸だけれど)私は引きこもりなので、費やす時間だけはたっぷりとあるから。

 折角なら一から作ろうか――粉をふるって生地を練ろうかとも思ったが、彼女の滞在時間を考慮した結果、冷凍のパイシートを買ってくることにした。あと、赤くて小ぶりな林檎を二つ。
「老倉さんって、数学が好きなんだっけ?」
 なるべく丁寧に皮を剥いている途中、脈絡の無い質問が飛んできた。しかし、答えに苦労するような類のものではなかったので。
 ええ、好きよ。
 だから、素直に答えた。意外に思うかもしれないが、私にだって、好きなものはある。
「だったら、お菓子を作るのにアップルパイを選んだのは、その所為なのかい?」
 次の質問は容易じゃなかった。『その所為』という言い回しは、『私が数学を愛している所為』と読み換えることが出来るけれど。私は彼女にこう聞き返さなくてはならないだろう。
 ええと、どうして?
「数学といえば、林檎のイメージだから。理由? なんとなくだよ。あと、経験則かな。算数の問題で、小学生の男の子が買う果物という印象が強いかな」
 …………。
 何故だろう。聞き返したことで、理解の難易度が上がった気がする。
「あとは、あれだろう? 万有引力の法則の発見に貢献したとか」
 それは数学じゃなくて物理学じゃないか。しかも、アイザック・ニュートンの逸話は物証に欠けるということはもう世間の常識ではないのか。
「生憎無学でね。数学なんて、三年前に触れたっきりだよ。高校には行ってないからさ」
 と、沼地蠟花は続けた。
 数学の美しさを理解して貰えないことは少し悲しかったけれど、しかし、己を無学だと称した彼女を蔑視することは出来ない。
 私も同じだからだ。

 

2

ミザリーワルツ

01

 沼地蠟花のことは知り合う前から知っていた。
 人の噂なんて当てにはならないけれど、しかし、そんな余計なエッセンスを含ませたフィルターを通してしか相手を見れないくらい、多量の噂を耳にしていた。
 しかし、いざ本人を目の当たりにすると、どこか言葉にし難い。有無を言わさない雰囲気があった。それはいつ思い返しても、私を暗い気持ちにさせてくれる。

 同じ年くらいの女の子だった。
 彼女と初めて会ったのは、地元の役場だ。公共の場所である、その建物の待合室で。彼女は有り体に言えば、その場に浮いていた。
 まず十代の女の子が一人で居ることが奇妙だ。
 うちの学校の制服――同じ作りの筈のそれが、どこかくたびびて見える。制服を形容するには似つかわしくない表現だとは思ったけど、私だってまさかそんな感想を覚えるとは思わなかった。
 新鮮に感じたのは、ひとつ下の学年を示す赤い色のネクタイと、鈍い銀色の柄をした松葉杖――怪我をしたという噂は真実だったようだ。もっともそれは、私が彼女をはっきりと認識するきっかけとなった噂だったのだが。
 そのくらい彼女は顕著に、そしてタイムリーに噂の的。
 そんな異質極まりない彼女が、どうしてこんなところに居るのだろう。確か、名前は。
 ……沼地さん?
 (失礼だけど)十分にとかされていなさそうな黒髪が、ゆっくりと振り向く。
 不味い。独り言にしては大き過ぎた。
 空々しく知らない振りを決め込もうにも、既にばっちりと目があってしまっている。目つきがキツイ私と真っ向から目を合わせられるなんて、彼女の肝の太さはちょっとしたものだ。スポーツ選手のメンタルは人並み以上にたくましいのかも。
 寧ろ、私の方がビビっちゃっていた。なんというか、彼女の目には凄味があった。まあ、いきなり知らない相手から名指しで呼ばれたら、そんな顔もするでしょうね……。一人で死ぬほど反省するのは、家に帰ってからの方が良さそうだ。
 とにかく、二の句を繋げなければ。
 場を持たせろ。死ね阿良々木。
 ……阿良々木の死を仮定することで多少の心の余裕を取り戻した私は、なんと自発的に、彼女とコンタクトを試みることにした(褒められるべきことじゃない?)。
 悲しくも、初対面の子に気さくに話し掛けられるような性格は有していない――しかし私は頑張った。努めて優しく、ボキャブラリーの限界に挑戦しつつ、自然な会話を確立させる。どうして世間の人間の大多数は、そんな難しいことが当たり前の様に出来るんでしょうね?
 奇遇ね。こんなところで会うなんて。だって、ここ、役場じゃない。制服だと目立つでしょう? お互いに。どうして名前を知っているのかって? あなた、有名だもの。とか、何とか。それこそ数えきれないくらいの理由付けをした――実際に正当な理由になり得たのは数える程しかなかったのだけれど、私にとっては永遠に続くんじゃないかってくらい地獄のような時間だった。
 そして、結果から言えば、理由付けは失敗に終わった。
 誰だって、自分の与り知らないところで囁かれた噂に対し、良い顔をする訳がなかったのだ。いくら下級生が相手だとしても、言うべき言葉ではなかったし、掻くべき恥でもなかった。
 とにかく相手の為にも自分の為にも、マイナスのイメージを払拭しなくては。私の持ちうる限りの気遣いを全て費やして、厚いオブラートに包んであげないと、と私は思いつく限りにフォローの言葉を並べた。
「ふうん? 随分と、記憶力が良いんだね」
 ……私の努力も虚しく、怪訝そうな顔をされただったけれど。
 次に続いた言葉は形の上では賞賛の言葉だったし、緩慢な声の調子に巧妙に隠されてはいたけれど、確実に皮肉の意味を孕んでいた。私にだってそのくらいのことは察せられる。
 仕方ないか。先に粗相をしたのは私だ。
 だから、同じ学校の先輩に対し、敬語を使ってくれなかったことを責める資格はないでしょうね。
「そこは気を揉まなくて良いよ。どうせ、近いうちに後輩じゃなくなるから」
 後輩じゃなくなる?
 否、先輩同輩後輩がどうとかではなくて。中学生にもなれば、目上の人には敬語を使うよう言い含められる筈なのだけれど。まさか、私は目上の存在にカウントして貰えなかったのだろうか……そうね。部活動で名を上げることで学校に貢献したあなたと違って、なんとなく、斡旋された学校に義務だからというふんわりとした理由だけで通っている私なんかは、ほんの少しだって敬う対象には見えないものね――いや、違う。そうではない。
 必要以上に卑屈になりたかった訳じゃあなくって。
 ええと、後輩じゃなくなるって?
「転校するんだ。あと、引っ越しもする。今日はその届けを出しに来たんだよ」
 私の疑問に対し、相手は丁寧に答えを教えてくれた。
 ……そっか。ふうん。へええ。
 二度目はしくじらないように、当たり障りのない相槌を打つ。というのも、悲しむべきなのか、言祝ぐべきなのか、適切なリアクションが思い描けなかったからだ。そのくらいは私も私を許そう。およそ二年もの間、同じ学校に通っておきながら、今日が初めましての相手に、どんな言葉を送れば良いのか。それは残念ね。それは良かったね。どちらを選んでも嘘っぽいじゃないの。
 でも、そういう事情ならば、一般的には保護者が必要書類を揃えるのではないだろうか……(自分を棚上げしている様で気持ち良くないから念の為補足しておくけれど、私だって多少は一般的じゃないところだってある)。
「うん。だから、そういうことだよ。半ば八つ当たりに近いよね。まったく、滅入ってるのはこっちだってのに」
 吐き捨てるように彼女はそうごちた。
 そういうこと。
 言わなくても良さそうな心情の開示は、さっきの私の独り言を想起させたが、私なんかと比べたら彼女に失礼だろう。

 

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