泣かせた

 言葉を飲み込んだタイミングで、視界が歪んだ。不随意的に瞳から涙が落ちる。いや、ちょっと待て。ここで泣くのは先輩として格好悪過ぎる……という虚栄心も、弾みで一緒に流れてしまったと思われる。

「え、ちょっと待ってくださいよ。……はあ。僕の前で泣き出す駿河先輩とか、解釈違いなんですけど」
「女子を泣かせておいての感想がそれか。人に勝手な解釈を押し付けるな。ちょっとは真摯に受け止めろ。その、本気で嫌そうな顔を、止めろ」
「わあ、ツッコミが沢山だ。駿河先輩でも焦ることってあるんですねえ」
「茶化すな」
「もーじゃあどうしろって言うんですか? ほら、ここで僕が真面目に慰め出したら、なんかかえって気まずいじゃないですか」

 ねえ? と、小首を傾げる扇くん。不本意ながら、分からない心境ではなかったが、私は横隔膜からせり上がってくるしゃっくりを抑えるのに精一杯だったので、とてもじゃないがフォローには回れそうにない。

「そうだ。目にゴミが入ったことにでもして事なきを得ましょうよ。覗き込む振りをしながらのキスくらいならしてあげますから」
「どうして私が最近読んだ王道BL小説の内容を知っている」
「あー……でも他人の濡れている頬に口を付けるのは、ちょっと。僕、潔癖症なので」
「安心しろ。そもそも希望していないから」

 言いながら、手の甲で瞼を擦る。強めに鼻をすすると、喉の辺りがツンと痛んだ。

「……そもそも泣かせたくて泣かせた訳じゃないですし」

 と、背中を向けた先で扇くんがため息交じりにぼやいたが、別に、きみが真面目に人を慰められないとは思っていないよ。

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微妙とでも言っておけ

 最近よくつるんでるみたいだけど、きみと神原って仲良いのか?

「――といった感じに、もの言いたげな顔の阿良々木先輩に訊かれたんですけど、駿河先輩的にはどう思います?」
「……微妙?」
「ですよねー」

 投げ掛けられた問いに対し、まず最初に頭に浮かんだ回答は、私達の共通認識だったようだ。
 微妙。きわどくてどちらとも言い切れない様。かつ、その多くの場合は否定的な意味を孕んでいる割に、回答に便利な二文字熟語。
 しかし、深く考えず口から出したその単語は、忍野扇と神原駿河の関係を指しているというより、その問題についてを考えることになった前提条件――つまり、誤解を恐れずに言えば、阿良々木先輩に向けられていたような気もした。

「もの言いたげな顔って?」
「配分でいうと不安六割、羨望二割、興味本位一割、といったところでしょうかね、あれは。阿良々木先輩に一等近い存在の僕が心情を読み込んで差し上げると、『最近やけに仲良いけれど、ぶっちゃけ、付き合ってるの?』が本当に訊きたいことだったのではないでしょうか?」
「それは流石に読み込み過ぎじゃないか……?」

 先輩のナイーブな部分を本人のいないところで大公開されても。扇くんには優しく目を瞑ってあげるという気持ちはないのだろうか。

「ああ。僕、そういうの無理です」

 ざっくりと。諦めてくれとばかりに扇くんは言い切った。
 無理なのか……。私としてはもう少し努力して欲しいものだけれど、それも勝手な話か。優秀な読者が、作家の思惑通りにものを思ってくれるとは限らないってことかな。
 そしてこれは完全に余談だけど、阿良々木先輩がそういう質問をする相手に私ではなく、扇くんを選んでいるという点が、なんとも面白くないというか、それこそ『微妙』と言いたいところではある。

「あと、ちゃんと否定してくれたよな? 付き合ってないから」
「あー……やっぱりそうなんですか」
「本気で落ち込むな。というか、さっきの。残りの一割は虚言だよな?」
「あれ? バレてました?」

 バレてなかった。
 カマ掛けしたのが上手くいっただけだ――とは勿論言わないが。言わなかったところで、この子には読めてしまうのだろうと思う。いつも深読みし過ぎだろう、とも思う。

「はっはー。流石は駿河先輩。確かに確かに。一部に僕の脚色を入れたことは認めましょう。でも、それも駿河先輩の心を読み込みたいが故の犯行なので、許してください」
「小賢しい告白の仕方をするな」
「正確には『最近仲が良いけれど、僕より仲良くなっちゃったの?』みたいなニュアンスでしたよ」
「それはそれでなんというか……友達慣れをしていない人の悩み方だな」
「うわあ、残酷な指摘だ。まあ、あの人も意外なところで執着心が強いところもあるのは否めませんがね。執着心というか、独占欲というか」
「独占欲? あの人に限って、そんなのあるかな?」

 私じゃあるまいし、と言いかけてまた口を噤む。

「はい。僕の駿河先輩を勝手に捕まえておきながら、『神原のことを一番理解しているのは僕』みたいな顔しやがってるのはどうかと思いますけど」
「そんな顔をしやがっているのは他ならぬきみの方だ。なんでもかんでも『阿良々木先輩が言っていた』で私に大目に見て貰えると思うな」

 なんなら三人の中で一番強欲なんじゃないか。

1

hiccup

「ひっく……ひっく……」
「……しゃっくりって百回したら死ぬってよく言いますよね」
「どうしてこのタイミングで言う」
「え? 隣でしゃっくりしてる人がいるんだし、思い出すには自然な流れじゃないですか?」
「それもそうだけど……ちょっと不謹慎だとは思わな、ひっく、ないのか?」
「思いませんでしたねー。面白いな、とは思いましたけど。直江津高校のスターであられる駿河先輩も、まるで赤ちゃんみたいなしゃっくりをするなんて、可愛らしいじゃないですか」
「人の不幸を可愛いとか言うな。ひっく。私がスター……だったかどうかはともかく、しゃっくりくらい普通にさせろ」
「ええ、どうぞお好きなだけ。咎める人もいないですからね」
「ひっく……いや、違うよ。止めたいんだって。先輩が苦労してるんだぞ。何か思うところはないのか? ひっく」
「しゃっくりぐらいで不幸自慢されても挨拶に困りますね。不肖な後輩として、何か策でも練れば良いんですか? そうだなあ……横隔膜に気合が足りないんじゃないですか?」
「なるほど。こうか」
「え。ギャグのつもりだったんですけど、伝わっちゃったんですか。これだから体育会系気質って嫌なんだよなあ……」
「あ、止まった気がする」
「横隔膜って随意筋でしたっけ?」
「ひっく」
「結局止まってないし。駿河先輩の適当さが露呈しただけでしたね」
「今のはなしだ」
「僕的にはありです」
「異性のしゃっくりに並々ならぬ興味を持つな」
「てい」
「っ!? ……断りなくエルボーを打ってくるな! 危ないだろ!」
「びっくりしたら止まるかな? って思いまして。いやいや、流石は駿河先輩。素晴らしい反射神経です。で、びっくりしました?」
「きみの遠慮のなさにびっくりしたよ」
「僕はまさかガードされるとは思ってなかったので、驚きを隠しきれませんが」
「きみが驚いてどうするんだ……ひっく」

3

死んでいくロマンチスト

03

「……私は扇くんのことが好きなのだろうか」
 自転車に跨った背中に向けてこぼした呟きは、確かに私の声で出来ていた。
 突如、鼓膜に突き刺さるようなブレーキ音と共に、前を走っていたママチャリが百八十度ぐるりと半回転した。
「危ないじゃないか。事故が起きたらどうするんだ」
「あなたの発言こそが大事故でしたよ。うわぁ……。なんですか駿河先輩、とうとうその気になっちゃったんですか?」
「告白されてのリアクションが『うわぁ……』だった時点で、芽生えかけていた何かは気の所為だったような気がしてくるな」
 気の所為というか、気の迷いというか。
 なんにせよ、気まぐれにでも甘い顔をするべきじゃあなかったな、と私はさっきの発言をなかったことにした。責任なんて知るか。
 撤回され、彼はわざとらしく肩を竦めて見せてきたが、タイミングが遅かったこともあって罪悪感は湧いてこない。
「あれ? もしかして僕、勿体ないことしちゃいました? すみません。いざという時に使えるよう録音しておきたいので、もう一度言って貰っても良いですか?」
「ふざけるな。二度も言える台詞じゃないよ。巡ってきたチャンスをその場で掴めないようでは、欲しいものが得られる訳がなかろう」
 大きな口を叩いたが、無論、それは私自身のことである。
「含蓄あるお言葉ですね」
 苦言を挟まれたにもかかわらず、扇くんはしみじみとそんなことを言った。台詞に起こさなかった感情もなんとなしに伝わったらしく、彼は包帯越しに私の左腕を舐めるように見る。私の恋慕の残滓を。
「……これまでの私はもっと、心の中に大きく風が吹いたような瞬間を、恋だと思っていたのだが」
「ははあ。そう言って頂けると光栄ですよ。僕との思い出をそのように美化されてしまうと、なんだか面映ゆい気持ちになってきますね」
「とても残念だが、きみのことじゃない……扇くんはどう思う? 今まで生きてきた中で、そういう感覚を覚えたことはあるか?」
「そのように話を振られてしまうと、僕はこう答えざるを得ません。『僕は何も知りません。あなたが知っているんです、駿河先輩』」
「…………」
「まあ、かつてのあなたは別として、今のあなたが感じているように。雨水が地面に染み込んでいくが如く、じわじわと心を侵食する恋もあるんじゃないですかね」
 と、扇くんは薄く笑った。
 今日までの私はこういう時、他人の思惑の底を見透かすような黒い虹彩から逃げたくなって、目を逸らすのが定石だったのだけれど、今は不思議とそんな気持ちになれなかった。
「そもそも、扇くんは私のことが本当に好きなのか?」
「うーん……特に嫌いな理由も思い付きませんし、好きなんじゃないですか?」
「いやに消極的というか、消去法的だな」
「そうでもないですよ。僕は何も知らないけれど、この人のことは好きになろう。と、生まれる前から決めていました」
「生前からの因縁をちらつかせるな」
「じゃあ気の所為ですよ。人恋しくなる時期でしたし、世間に感化されただけじゃないですか? 僕も駿河先輩も告白されていたことですし」
「人の気持ちを流行病みたいに言うな。……え? もしかして今、私は振られたのか?」
「あ。ケーキが安売りしてますよ。駿河先輩、一緒に食べましょうよ」

 

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