爪の先まで愛を込めて

「スプーンで食べるパンケーキのお店ってのがあるらしいんだけどね。るがー、一緒に行かない?」
「ああ、良いぞ」

 私は簡単に返事をする。
 日傘から更衣室で掛けられた誘い文句は、部活終了後の空きっ腹を抱えた私にとってそこそこに魅力的な響きに聞こえたので、彼女の提案には頷いておくことにしたのだった。
 話がまとまるまでに五分もかからない。チームメイトとして培われた連携力――なんて言い方をしてはオーバーかな。
 しかし、着替え中にふと、靴下から抜かれた日傘の足の爪に色が付いていることに気付くくらいには、私の友達を見る目も曇ってはいないらしい。

「あ? これ? 足ならばれないかなって思って。似合う?」

 指摘されたとて大した驚きはないらしく、彼女は脱ぎかけのもう片方の靴下も脱いで、こちらに丁寧に見せてくれた。もしかしたら、元来から見せたがっていたのかもしれない。

「うん。可愛いと思うぞ。日傘らしいし、よく似合ってるぞ」
「あはは、そんな大したことじゃないのに。るがーもやってみれば?」
「ああ、そうだな。考えておくよ」

 と簡単に答えたものの、その実本当に真剣に考える気はないのだろうし、きっと例のパンケーキを腹に収めた後には私はこの話を忘れてしまっているのだろうな、と思う。薄情にも。
 だけど。
 足首を揃えるようにして立ち、自分の裸足の爪先を愛おしそうに眺める日傘はなんというか……うん、とても女の子だなあと感じたのは事実だった。
 そして、それを制服とハイソックスで隠して学校に通っていること。彼女の知らなかった一面を知った私が大袈裟に捉えているだけかもしれないが、なんだかそれはとても贅沢なことをしているようにも感じられたのだ。

「爪の話というのなら、私だってこれでも気を遣っているんだぜ?」

 だからと言って、後日。その遣り取りを偶々思い出したことだけを理由に、沼地にまで話を振ったのは間違いだったかもしれない。

「勿論、ボールを扱うのに邪魔になるからとか、接触事故を起こした時に面倒だからってのもあるけどさ。ほら、爪が長いと、神原選手とする時に――」
「っ!?」

 次にくる言葉は絶対に私が不利になる発言だと悟ったので、私は慌てて沼地の口を強引に塞ぐ。両の掌で顔を覆ったのは少し過剰な反応だったかもしれない。

「痛っ」
「あ、すまん……」
「だから、こういうことが起こらないように、私は日頃から短めにしているんだよ。奇しくもきみの手で実証されてしまった訳だけれど」

 弾みに、私の親指の爪が沼地の頬を引っ掻いてしまったからだ。薄そうな皮膚の上をなぞった軌跡が私の頭の中に生々しく残ったが、彼女の皮膚に痕を残す程のものではなかったことを認め、心中だけで安堵する。

「人のことを気にする前に自分の爪を切ったらどうだい?」

 自分から引き剥がす様に、私の両の手首を掴んだ沼地が、指先を見つめて目を細める。
 伸ばしっぱなしの自分の爪が、まるで私という人間が何も考えていないということを象徴しているようだった。

4

それでも感謝はしているよ

「私は、るがーが良いと思うな」

 と、日傘がその一言を発したのは、二年前の丁度今時期、秋と冬の境目の時期のことだったと思う。
 夏の大きな大会を終えて、二年生の先輩方の引退が見え始めてきた頃(直江津高校は進学校なので、部活動は二年で引退となる)、当時一年生の私達は部室で額を突き合わせてミーティングに臨んでいたのだった。
 うちのバスケ部が全国大会に出場したのはその年が初めてだった。それまでロクに手が入っていなかったであろうやや設備の足りない小さな部室は、冬の始まりにふさわしくひんやりとしていて、暖房が欲しいな、とぼんやり考えていたことを覚えている(ついでに、この希望は来年度に急激に増加した女子バスケ部への予算によりちゃっかり叶ってしまったりする)。
 そんな風に、真面目に話し合いが行われているチームメイトの頭を眺めながら、不真面目なことを考えていた私は、ホワイトボードの前でマーカーを握っていた日傘の発言に、すぐには反応出来なかったのだ。

「次のキャプテンはさ、るがーが良いと思うんだよね。私は」

 パチン、とマーカーのキャップを締める小さな音と一緒に、彼女が繰り返した。
 そう。先輩方の引退を前にし、代替わり――新体制へと移行しようとする時期、私達は次代のキャプテンを決める話し合いをしていたのだった。
 話し合い、とは言ったものの、その実なんとなく私がやることになるんじゃないかなあ、とそんな雰囲気はこの場に赴く前から感じていたので(別に自惚れているのではなく、全国大会に至るまでで、一番声が大きかった一年生だったという自覚はあったからだ)、その意見に対し首を縦に振ることは別に苦ではなかった。

「ああ、良いぞ」

 ただし、そのおぼろげな予感をはっきり口にしたのは、日傘が初めてだったかもしれない。
 私に集まっていた全ての視線が、ひとつ残らず安堵の色に変わる。

「そう? なら良かった! みんなも、特に文句ないよね?」

 そして、日傘の主張を後押しするように、疎らに拍手が上がって。
 しかし、ここだけの話。そんな満場一致の空気の中で、やっぱりストーブの購入を考えたいな、と密かに考えていた私は、皆が思う程、真面目なプレイヤーじゃなかったんだと思う。
 ともあれ、そんな経緯で私は直江津高校女子バスケットボール部のキャプテンに任命された。先輩方からも異論はなかったし、良い環境で任せて貰えたと思う。これはチームメイトに感謝することしきりだ。
 まあ、結果、私はそれを途中で投げ出すことになってしまうのだが。
 キャプテン代理を通してくれた日傘だけは、私の早期引退の、この上なく自分本位な理由を最後まで追求しなかったけれど。

「んー、……まあ、怪我しちゃった後で責めても仕方ないでしょ。それに、元は私がるがーに勧めたってのもあるし」

 それは果たして、私を追うように自ら副キャプテンに立候補した彼女の、本音だったのかどうか。

「まあ勿論、一番上は面倒だって気持ちもあったことは否定しないけどね。私みたいなタイプは向いてないからさ」

 そんな一言を添えて、人の奢りのパンケーキを口に運ぶ日傘の本心は、例え友達でも計り知れない先にあるのだと、私は察することしか出来ないのだった。

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