うちのナースはおさわり禁止2

04

 沼地蠟花のことを何も知らない。
 生まれも育ちも。将来の展望も。月に二度は私に会いに来て、安くはない酒と接客に金を落としていくけれど、その金はどこから回ってくるのかも。病院に人一倍苦手意識を持っている癖に、心理カウンセラーを志すようになった心境も――その病院嫌いの理由だって、全てを開示する義務などない筈なのに、沼地は私に話してくれた。しかし、それも私にとっては理解しかねるものだった訳で。
 とどのつまり、私は彼女のことを何も分かっていないのだろう。
 私だって、ただ黙って相手の隣に座っている訳ではない。実は喋り上手な彼女の言葉を――素直に受け取るには巧妙に混ぜられた皮肉をかわす必要があるし、毎度毒見でもするような心持ちにさせられる言葉の数々を――なるべく受け止めようとはしている。
 それでも私は、彼女について何も知らないと言えよう。相手の話を聞けないことは、少なからず自分が不道徳を働いているような気持ちも芽生えるが、しかし。
 時たま、何か些細な気まぐれがきっかけで、沼地の語る言葉にこちらが自ずから手を伸ばしたとしよう。すると途端に、彼女のとろいながらも過多な言葉の中からは、本質だけがするりと抜け落ちてしまうのだ。
 だから、私は彼女の言いたいことを、一つだって正しく拾えてはいないのかもしれない。
 でも、それでも良いと思う。その理由は、二つくらいある。
 一つ目は、語り手としての彼女はきっと、聞き手のクオリティまでは求めていないから。
 そしてもう一つの理由は――いつか彼女が言った通り、真実の開示の瞬間は、常に痛みと隣り合わせにあるからだ。

 沼地が借りている部屋の場所を知ってから、私の生活は大分楽になった。
 どれくらい楽になったかと言えば、今や客として店で会うより、プライベートで会うことの方が多くなったくらいだ。
 まず、そのアパートは職場に近く、大学から遠い。
 私のバイト代には送迎費なるものが付くのだけど、そもそもの稼ぎが(言い換えてしまえば成績が)芳しくないので――いや、同年代の中で見れば、額面は決して悪くない筈だ。稼ぎと共に消費も激しいから、と訂正しておこう。経済を豪快に回せるのは素晴らしいことだけれど、生活を成り立たせる為の支出を抑えられるのは、一大学生として喜ばしいことだった。
 加えて、学生としての顔がある以上、在籍している学校から離れた場所で活動出来ることは、私の心を少しばかり穏やかにさせた(つまるところ、私は身バレを恐れた結果、わざわざ自宅から遠い場所のバイト先を選んでいたので、週末に自宅に帰らないだけでも時間の余裕が出来た)。
 あと、これはここだけの話なのだが、私は彼女が使っている寝具が気に入っていた。
 セミダブルのベッド。
 知らない人にとってはそれがどうした、という話かもしれないが――いやいや、一人暮らしの学生にとっては、中々手が出し辛いものだとは思わないか?
 と、苦学生ぶってはみたものの――私の内面を知る人からすれば、家具の一つや二つ、ぽーんと買ってしまうような金銭感覚を有しているだろうと予測されるかもしれない(そして、その憶測は決して間違ってはいないとは思う)が、しかし現実はそうもいかない。
 ……私の部屋が、ベッドを運び込めるくらいに片付いていれば、良かったんだがなあ。わざわざ大型家具を運んできたというのに、業者さんが部屋に入った途端、さっと青ざめてしまったので、私も注文をキャンセルする他なかった。
 そんな失着エピソードはともかく(これを直接沼地に言えば、たちまち非難の視線を貰ってしまうだろう。だからここだけの話だ)。
 閑話休題。
 つまるところ、私は沼地の生活に甘えていた。
 だらだらに甘え切っていた。
 明け方、玄関のチャイムは鳴らさず、合鍵でドアを開ける。きついパンプスとストッキング、それからガーターを脱ぐ。ユニットバスの熱いシャワーでアルコールを抜く。濃い色のシーツに潜り込む。私が気に入っているセミダブルベッドは、成人女性二人くらいなら難なく横になれる。その日あしらった客の顔は上手に思い出せないけれど、週明けに提出を求められているレポートのことは憂鬱に思いながら、瞼を重くする。
 そんな甘やかな生活は快適だった。部屋の主から通い妻だと揶揄されること以外は。
 勿論、世話になっている以上、それくらいの軽口は目を瞑ろう。

 その日は手紙が届いていた。
 郵便受けの中身を覗くのは私の仕事ではないのだが、しかし、今日に限っては私がその役を仰せつかった。
「ぁ、痛っ」
 もとい、玄関先に置きっぱなしだった郵便物を、気付かずに踏んでしまったのである。
 磨かれたフローリングと紙の間の摩擦係数は小さく(ストッキングを穿いていたことも敗因かもしれない)、私はその場にすってんころりんと尻もちをついた。否、すってんころりんなんて可愛らしいオノマトペで表現したのは主観に過ぎなくて、実際はどったんばったんと近所迷惑な音を立てていたようだ。
 その証拠に、部屋の奥から沼地がのそのそと起き出してきた。
 寝ていたのだろう。後頭部にゆるく寝癖がついている。そんな顔を見せられると、人が通りそうな道に郵便物を放置した無精を責める為の憤りは、みるみるうちにしぼんでしまうのだった。
 足元に転がっていたそれを素直に手渡す。その大きな封筒は、私が足蹴にした所為か(わざとじゃない)、角がよれてしまっていた。
「何だ、その物々しい郵便物は」
「受験の手引きだよ」
「受験? 何のだ?」
「公認心理士の資格」
 コウニンシンリシノシカク。
「ほら。これでも一応、カウンセラー志望だから」
 という沼地の言葉に、やっと私の頭でも理解が追い付いてくる。
 えっ!? お前、資格の勉強なんかしてたのか!?
 いつの間に、そんな堅実なことを。
「てっきり、女遊びだけで食っていく気なのかと思っていたのに……」
「きみの中の私のイメージに何か思わなくはないけれど、現実にそんな生き方が出来ていたら苦労してないよ」
 と、沼地は眉間に皺を寄せた。
 そうだな。
 努力をしている相手に失礼な発言だった。
 お前が勉強をしている様なんて、私には逆立ちしたって想像がつかないけれど。しかし、沼地も見えないところで努力はしているということか。取得を目指しているというカウンセラーの資格がどんなものなのかは、分野に明るくないので分からないが……少なくとも、ヒモになるような努力をするよりは断然良い。
 しかし仮にそうだったとしたら、私みたいな奴が真っ先に食わせる側に回るんだろうなあ……。
 なんて、つまらない想像をしながら、シャワーを浴びに行こうと立ち上がったところで。
 ふと、郵便受けの下に、『何か』を見つけた。
 おっと、危ない。如何せん公認心理士のインパクトが大きかった所為で、見落とすところだった――と、冗談めいたことを考えられたのは、それを玄関先で拾い上げるところまでだった。
 その『何か』も封筒だった。
 先の受験票に比べれば、幾分かサイズが小さい。
 どこにでも売っているような、簡素な茶封筒。
 ただし、宛名も差出人の名前も見当たらなかった。それだけでもかなり怪しい。
 不自然さに後押しされ、蛍光灯に透かして見る。が、中は空っぽではないことくらいしか分からない。
「…………」
 少々躊躇はしたものの、私は中身を検めることにした。不用心極まりないことに、封はされていなかったから。
 ほら、危険物とか、怪文書とかが入っていたら不味いじゃないか。不気味で怖いじゃないか。
 中をそっと覗き込む。今思えば、そっちの方が対処は簡単だったかもしれない。
 怪しげな封筒の中には――一万円札が数枚入っていた。
 紛うことなき、日本銀行券である。一番高価な金額の。しかも、不自然に厚みがあった。
「他人の郵便物を勝手に見るなんて、趣味が悪いぜ」
「!」
 いきなり声をかけられた。
 思わず茶封筒を取り落としそうになって、そっちの方の手を上にあげてしまい、対象を相手から遠ざけるような形になってしまった。そんな暴挙に出た私を、沼地はじとりと睨んだが、それ以上追っては来なかった。
 彼女の冷たい視線が語る。
 この封筒の中身について。触らない方が賢明だ、と私の本能も警鐘を鳴らした。
 それ以上を聞けば、きっと、この甘やかな生活は瓦解する。
 しかし、私は避けることを――問題を先送りにすることを良しと出来なかった。
「これは、何だ」
 出来る限りの力で、感情を押さえ付けながら問うた。
 自分でも吃驚するほど、静かな声だった。
「さあね? 通り掛かりの優しい人が入れてくれたんじゃない?」
 はぐらかされた。しかも、やる気のないはぐらかし方だった。それが分からない程、私は馬鹿じゃない。
 面白くない気持ちそのままに相手をきつく睨んだが、動じなかった。
 彼女はきっと、私から追及させることを諦めている。
 重くわざとらしいため息が、私達の間に落とされて。
「……一ヶ月につき、五万円かな」
 先に沈黙を破ったのは沼地の方だった。
「だから、料金形態にもよるけれど、最低でも月に二度は会いに行ける。きみが聞きたいのって、要はそういう話だろう?」
 確かに、私から訊いた話だった。
 でも、聞きたかった訳ではなかった。
「私もアルバイトをしていてね。雇い主、もしくはクライアントとでも言えば良いのかな。その封筒は、そいつが郵便受けに入れたものだよ」
「…………」
 元から不可解な点はたくさんあった。
 彼女の賃貸ワンルームに通うようになって、生活水準のズレに気付くべきだったのだ。定職を持たない沼地の支出入は、とてもじゃないが、ナースキャバに通える羽振りの良さではない、ということに。
 しかし、私はそれらの不自然性を見ない振りをしてきた。
 見たくなかったのかもしれない。
「一ヶ月に二回、会いに行きさえすれば良かった。お店に行って金を落とす。きみがナースのコスプレで働いているのを確認する。それが仕事で求められた最低限のノルマだった。クライアントへの委細の報告は義務じゃなかったからね」
「……その、クライアントとやらの名前は」
「本当は言わない方が良いんだろうけれど、きみにも予想がついているだろうから」
 と、煩わしい前置きで予防線を張りながら、彼女は教えてくれた。
 貝木泥舟。
 聞いたことがある名前だった。
「つまり、お前はそいつの要望に従って、今まで私を指名していたってことか」
 なんて、私は不毛なことを聞いた。
「まあ、そうなるね。わざわざ訂正を挟むほど間違ってはいないな」
 だから不毛な答えしか返って来なかった。

「目的? いや、そういうのは知らないよ。私もきみと同じで、ただのバイトに過ぎないから。奴にどんな高尚な目的があろうと、下卑た思惑があろうと、私の及ぶところじゃないからさ。私は振られた役割に従って動いていたまでだ。
「知っての通り、私も心理士を目指していて――まあ、それなりに金もかかるし、時間もかかる。
「そうだな。まずは私がカウンセラーを志し始めた辺りから、話を進めようか。
「実はね。
「かつては私も、バスケットボール選手になりたかったんだ。
「神原選手も考えたことがあるだろう? 優秀なバスケットボール選手なら、一度くらいは思ったことがあるだろうし、そして大抵、それは通過点に過ぎない。学生時代の思い出の一つで終わるだろう。
「しかし、こういうことを自分から言うと嫌われてしまうかもしれないけれど――実際、私はなれたと思う。
「あそこで足を故障していなければね。
「……うん。今は治っているんだけど、でも、ちょっと時期が悪かった。
「あれは中学三年生の冬だったかなあ。推薦を狙っていた高校が視察に来ていた試合で、私は接触事故を起こした。その辺りは、あまり詳しくは語りたくないのだけれど、まあ、分かるだろう?
「私の夢は潰えた。
「なんて、格好良い言い方をしたものの、そんな前向きな将来設計じゃあなかったな。
「死ぬまでの時間をやり過ごす為の方法を、一つ失ってしまった。なんて表現をした方が、当時の感覚に近いかもしれない。
「大袈裟だって? それは大人になった今だから言えることだよ。大人になれた今だから、かつての自分を上から目線で慰められるのさ。
「足は駄目になった。
「だけど卒業を目前にして、他の進路を見つけなきゃいけなくなった。
「就職か、進学か。どちらも私には厳しい道に感じられた。ほら。得意な球技を軸に進路を決めていたから、受験に向けての勉強とかしていなかったんだ。という訳で、選択肢は無いに等しい。
「足のリハビリが終わるまでは、一応、家に置いて貰えたけどね。それが親から貰った最後の甘やかしだったよ。
「ん? ……いやいや、本当はね。その推薦先のスポーツ進学校には学生寮があったから、そのタイミングで家から出るのが理想だったんだ。
「ノーワーク、ノーペイ。
「なんて言われても、当時の私はまだ若かったし、自慢の足を失ったことで荒んでいた。いきなり他の道を見つけろと言われても、ねえ?
「しかし、挫折が私の転機となった。
「あれは私が偶然、学校の保健室を通り掛かった時だ。否、私がその時期保健室に通ったのは、言うまでもなく壊した足が理由にあったから、偶然ではなく必然だったのかもしれない。
「足が痛んだから、ベッドに横になっていた。ま、要するに不貞腐れて寝ていた訳だが。
「カーテン越しに、話し声が聞こえてね。
「口ぶりから察するに、常連じゃあなさそうだったな。
「始めはてっきり、私と同じように、体の不調を言い訳にしてサボりに来た連中かと思った。
「だけど違った。
「保健室に蔓延っていた彼女達が負傷していたのは、体ではなく心だった。
「まあ、他人に言うのは気が引けそうな、そして聞くのもはばかられそうな悩みを、ぽろぽろ喋っていたよ。それらは全て『ここだけの話なんだけど――』みたいな前置きで始まりそうなものばかりだった。
「確かに辛い話、心がしんどくなる話ばかりだったけれど、その奥には――愉悦があった。
「それはきっと、当時の私が不幸だったから気付けたんだろうね。
「そう。彼女らがしていたのは被カウンセリングじゃなく、不幸自慢だった。可哀そうな自分を可愛いと信じることで、心のバランスを保っているようだった――そして、それは決して間違った行いじゃあない。
「立ち聞きするのは気が引けたけど、すっかり聞き入ってしまって――そして魅せられてしまった。
「身体のみならず、私も彼女達と同様、メンタルに傷が付いていたのかもしれない。それが価値観を歪ませたのかもしれない。
「そして、その歪みは身体のリハビリが終わっても、ついに矯正されることはなかったよ。
「他人の不幸に触れることで、私の心は癒された。
「どうすればこの幸福を、もとい不幸福を確立させられるだろうか。あれこれ探し回った結果、私は今の進路に行き着いたって訳だ。
「カウンセラー。
「分かりやすい進路希望だろう? こうなってくると、やはり私も多分に漏れず、バスケットボール選手という夢は通過点だったんだろうな。
「手始めに、私は資格を取ることにした。
「さっききみが言った通り、堅実にね。
「資格を取るにはまず、資格を取る為の資格を得るところから始めなければならなかった。カウンセラーになるには大学を出なきゃいけなかったんだけど、私は中卒だったから、人生の舵の切り方をややハードモード寄りにしてしまった訳だ。
「それでも、私は諦めたくなかった。
「一度知った蜜の味を忘れることは出来なかった。
「とりあえず、素人感覚のカウンセリングごっこを始めてみることにした。何もかもが初めましての手探りだったから、こうして思い返してみると、仕事というより、趣味や道楽に近いかな。
「そもそも、私が心理士を目指し始める原点には、他人の不幸話を聞きたいという欲があったからね。仕事に直結しなくとも、とりあえずその気持ちを満たすことで、モチベーションの維持を図ろうとした。
「始めは対象を中高生に限定した。
「彼ら彼女らは匿名性を好むからね。先に述べた通り、素人の――言わばモグリの相談員だったから、責任逃れのリスクヘッジ的な意味で、名前を伏せて活動したかった。
「なんてもっともらしく理由を述べてみたけれど、こんな話は後付けかもしれない。単に、私の中の心理士のモデルケースがスクールカウンセラーだったから、その影響で無意識に相談対象を選んだのかもしれない。
「選り好みをしたんだ。
「ただ一つ、これは確実に言える。より生々しい話を聞けるから、という理由はあった。
「そんな最低な動機の元、私はひっそりと旗上げをした。
「不幸を愉しむカウンセラーの誕生って訳さ。
「……そんなに煙たがるなって。無論、私は相談者の話を真剣に聞いたよ。ほくそ笑んでいたのは、あくまで心の中でだけさ。
「その証拠に、私の慈善事業は中々に上手くいっていて――いや、謙遜を入れると話が煩雑になるか。
「好調だった。
「大成功だった。
「私の人心掌握の才能が、このタイミングで花開いたと言っても良いかもしれない。
「それをそのまま仕事に出来れば良かったのかもしれないが……いや、その好調さは私のカウンセラーごっこが完全無料相談所だったことに理由がないとは言えないだろうから、ここで採算が取れた気でいるのは拙速かな。
「そんな折だったよ。私と貝木が出会ったのは。
「きっかけは、何だろうな? とある街の相談者が抱える悩みを一本に辿った結果、私がその男に行き着いたんだったかな。それとも、貝木の方が、自身が勤しむ詐欺活動の妨げになるからと、私のカウンセリングに当ててきたんだったかな。まあ、そのどちらかだよ。
「彼は詐欺師だった。
「そして、話が分かる大人だった。
「この場合の『話が分かる』とは、『金払いが上手い』という意味だと思ってくれて良い。詳しい事情は割愛するけれど、それまでの私が如何に稚拙な金の使い方をしていたかを学ばせられたよ。
「私は貝木の仕事を手伝うことにした。
「相手の思想に感銘を受けた訳ではないけれど、ここでビジネスの場数を踏んだ大人からスキルを盗んでおいた方が、その後の自分にとって一助になると思ったんだ。
「主な仕事は火消しだった。詐欺師の巻き起こした火の粉を、適度に鎮火させた。
「具体的に言えば、傷付いた被害者の話を親身になって聞いてあげた。しかも、これは今までの活動と手口は変わらない上に、より込み入った身の上話を聞けるようになった。たまに現れるマジもののクレーマーは、然るべき機関を紹介してあげた。空々しく聞こえるかもしれないけれど、それらは私にとってかけがえのない経験になったよ。
「断っておくが、私は詐欺活動そのものに助力はしていないよ。あいつの思想に肯定もしていない。私が行っていたのはあくまで、被害者のメンタルケアだけだ。一人で切り盛りしていたプレ期間と同じように、無料でね。
「ただ、奴が働く社会悪的行為を阻害しようと動いて訳じゃないし、静観するのも悪だと責められたら、弁明は出来ないな。
「まあ、そんな風に。
「そうやって私は、カウンセリングの経験を積んで、精度を高めていった。
「そんな生活が続いたある日、貝木から言われた。
「『もっと金払いの良くなる仕事をしないか』
「ってね。
「どんな無理難題を押し付けられるのかと身構えていたけれど、あいつからは、
『ナース服特化型のキャバクラで酒を飲んで来い』
「とだけ言われた。
「訳が分からなかったよ。
「その時に渡された名刺には、きみの源氏名が書いてあった。だからてっきり、きみと貝木は知り合いなのかと思っていたけれど、その予想は外れだった。
「それも不可解な話だ。
「しかし、そんな不可解さもすぐに忘れた。きみのナースルックはそれくらい強烈だったよ――もとい、きみの思想や、キャリア設計図に、私は心を打たれた。
「ドクター志望の苦学生が、学費を工面する為に、ナース服で接客業に勤しんでいる。
「あの神原駿河さんが、自分の生活の為に、献身的に酒を注いで媚びを売っている。
「そんな風刺の効いたきみの姿は、私の目からはとても魅力的に見えた。
「同情的になったのかもしれない。もしかすると、強かにアルバイトに勤しんでいたきみに、少なからず自分を重ねていたのかもしれない……だとしたら、それは十数年前、互いがバスケットボールプレイヤーだった頃の弊害だけどな。同じコートでプレイしていた時代の記憶に引っ張られ、余計なシンパシーを感じたのかも。
「きみはきみ自身を指して『不幸じゃない』と言っていたけれどね。
「いつだったか、きみのプライベートを質問したことがあっただろう? その時に、通っている学校名も尋ねていたと思う。
「丁度、私はそこの編入試験を受けようかと思っていたんだよね。
「いつまでも小遣い稼ぎのバイトに興じている訳にもいかなかったから。ここで、私の当初の目的、資格取得に立ち返る。
「昔の知人が、人には言えないお店で秘密のアルバイトをしていて、尚且つその知人は私が編入を考えている大学に通っている。そしてどういう訳か、私が師事する詐欺師は、そいつに金を落とすことを期待している。
「ならば、仲良くならない手はないじゃないか。
「訳は分からなかったが、何かの巡り合わせじゃないかって、思いすらした。
「だから頑張ったよ。
「神原選手みたいな奴には分からない話かもしれないが、この歳になると、友達って意識して作ろうと思わないと作れないからね。
「人と友達になるのって、難しいよね。
「気の長い仕事ではあった。でも、時間だけはたっぷりとあったから。
「奴の払いをそのまま懐に入れられないのは歯痒かったけれど、このフリーター時代に仕事を失うのは避けたかったし、将来を見据えての実務期間も必要だった。
「果たして貝木の下での従事が実務経験にカウント出来るかは、正味曖昧なところではあるが……まあ、そこは詐欺師だ。対象が世間なのか私なのかは問わないが、とにかく、上手くよろしく騙して貰えることを期待するしかない。
「それに、私もそこまで悪い奴になるのは、気が引けたから。
「しっかしさあ、他ならぬきみの方が分かっているだろうけれど、我ながら、私の働きぶりは中々のものだったぜ?
「本当はね、毎日通おうかとも考えた。金さえ払えばきみに会えるんだし。クライアント、いや、もはやスポンサーかな? あいつに相談すれば必要資金のアップも見込めるだろうと踏んでいたのだけれど、それは流石に、きみに怪しまれるだろうと思って止めた。
「学生って肩書きはいざという時の盾にもなるが、今回の場合は足枷だった。分かるだろう?
「事実、今こうしてきみに暴かれてしまっている。
「話を戻そうか。
「だからね、あくまで自然に仲良くなろうと努めたんだ。
「毎回指名をした。勧められたお酒は積極的に飲んだし、飲ませた。新しいサービスも一通りは試した。
「きみはまるで私の我儘に振り回されているかのように振る舞っていたけれど、私の興味本位が自分の成績向上に貢献していることは分かっているのか、完全に拒否したことはなかったよね?
「世間が怪我をした人間に優しくなることは知っていたから、故障の経験を活かさせて貰った。松葉杖を引きずってアフターに誘ったり、それがまんまと上手くいったりね。
「うん。上手くいったんだよ。
「店の外で、プライベートで会う時間も増えたし、次第にナースじゃない時のきみの話を聞ける機会も増えていった。バイトのシフトの確認だけじゃなく、今や大学の履修登録の相談までされるようになったしね。
「……何だよ。別に、嫌々やっていた訳じゃない。
「多かれ少なかれ打算があったのは認めるけれど、きみとの火遊びは楽しかったよ。
「今までああも他人に執着したことなんてなかったから、毎日が新鮮だった。私の生活に張りを持たせてくれたという意味では、きみにも感謝しなければなるまい。
「まめまめしくキャバ嬢への連絡を怠らない私に、貝木は満足していた。きみも満更じゃあなさそうだった。私の懐も少しずつ温まっていったし、僅かながら知見も増えた。
「十二月には臨時ボーナスなのか、いつもの金額にちょっと色がついていた。これはそういうことかなって思って、私はクリスマスプレゼントを用意した。中々趣味が良かっただろう?

 と、沼地は場を混ぜっ返すように笑った。
 ばちん、と弾けた音がした。
 私の左手が、彼女の頬を張った音だった。
 相手の足元に茶封筒を叩き付けて、そのまま玄関から飛び出した。
 それ以来、私は沼地蠟花に会っていない。

 

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うちのナースはおさわり禁止2

03

 沼地蠟花は一人暮らしをしていた。
 いや、戸籍謄本上は、今もしている。
 ならばどうして過去形で表現したかと言えば、ミクロ的に考えた場合に、つまりはここ数日の生活を振り返った場合に、現在進行形で表すのはどうかと思ったのだ。
 勿論、一人で食べて、一人で寝て、一人で暮らしていく為の最低限のルーチンワークが立ち行かない、という意味ではない。寧ろ一人で生きる方が何倍も気が楽だ。私は昔からそういう気質で、つまりはソロプレイヤーだ。
ソロプレイヤーだった筈だ。
 最近は、目覚ましを鳴らさずに起きた朝なんかに、布団の中でよくそんなことを考える。しかし、考えても無駄なことだということもは端から分かっていることなので、私は頭を持ち上げた。のそりと。
 そのままベッドから抜け出そうと、隣で山なりに盛り上がっていたタオルケットを跨ごうとして。足に柔らかいものが当たった。
「ぐ……」
 右足をぶつけてしまったものは神原駿河だった。丁度相手の太腿辺りをぐにゃりと踏んでしまった。
 私が寝起きしているワンルームは西向きなので、日が昇り切った明け方でもちょっと薄暗い。その所為もあって避け損ねてしまったのだ。
 それこそ、ソロプレイヤー時代には経験したこともなかったアクシデント。
 彼女は小さく呻き声を上げたが、私に非難の声は飛んでこなかった。
 だからなかったことにしよう。
 空きっ腹を抱えて、部屋の隅のキッチンスペースに立つ。僅かな希望を捨てずに冷蔵庫を開けたけれど、中には卵が一個しかなかった。
「ねえ、神原選手。卵が乗ってる卵かけご飯と、乗ってない卵かけご飯、どっちが良い?」
「その二択しかないのはあんまりだから買ってくるよ。ついでに少し走ってくる」
 と、いつの間に起きていたのか。
 彼女はきびきびと寝間着用のTシャツの下にスパッツを履いた。少し長めの丈のやつだ。
 私が何かを言うより先に、玄関で靴を履く。そのおろしたばかりのランニングシューズも、私の部屋に滞在中に買ったものだった。隣に置きっ放しのヒールを履いているところは、ついぞ見ていない。
「今日、バイトは?」
「入れてない」
「ん」
 頭の中でカレンダーを数えて、今日で七日目。朝のニュース番組ではUターンラッシュを報道していた。お盆休みの最終日、という世間一般の認識を、私も頭の隅にインプットする。
 夏休みの終わりが見え始めて、憂鬱な気持ちを膨らませる学生は多いのではないかと思うのだけど、彼女はその限りではないらしい。大学生の夏休みがとても長いというのは、私が最近新たに得た知見だ。
 自宅と学校の往復の休息タイムを得た神原は、ついでにナース服を着ることも休むことにしたようだった。

 きっかけは八月初旬まで遡る。なんて語り出すと異様な程仰々しく聞こえるが、きっかけはあくまできっかけに過ぎず、この日を境に彼女が抱えていた問題が露呈しただけだと私は踏んでいるが。
日曜日の二十七時過ぎ――つまりは月曜日の午前三時過ぎ。
 ……ねっむい。
 寝起きは最悪だった。というのも、私を叩き起こしたのが、突然鳴らされたアパートのインターホンだったからだ。でなければ、こんな冗談みたいな時間を指して早起きしたとは言わない。
 一人暮らしの私の部屋に、こんな時間に来訪するのはバイト上がりの神原選手くらいなので、ドアスコープ越しに相手の疲弊した顔を確認した後、チェーンのロックを外した。
 彼女はピンヒールを揃えて脱いだ。いつもそんなに行儀が良いのかと聞けば、雑に脱ぎ散らかしてヒールを痛めたことがあるらしく、私の前でのそれはただの経験則からのルーチンワークに過ぎなかったらしい。
「ああ、疲れた。起きててくれて助かったよ。あと、ついでにシャワー貸してくれ」
「…………」
 何だよ。いきなり現れて、その傍若無人な態度は。人の家に上がり込んだら、まずは『お邪魔します』とか言うもんじゃないの?
 なんて、面倒なことを思いはしたが言う筈もなく、相手の希望通り、そのままバスルームに押し込んだ。汗の匂いと香水のラストノートをさっさとまとめて落として欲しかったからだ。
 神原がシャワーを浴びる音を聞きながら待つのは、これで二度目くらいだっけ。しかし今回はあまり楽しい話じゃなさそうだ。なんてことを考えながら、部屋の隅に置いたままの、もう使っていない松葉杖に目をやった。これも彼女が気付いたら顔をしかめそうなものだ。
 風呂から上がって、裸の神原がバスタオルで頭を掻き始めるのを確認してから、私は訊いた。
「別に構わないんだけどさ、こんな時間に何の用? まさかうちでシャワーを浴びる為だけに来た訳じゃないんだろう」
「あー……まあ、そうなるよな。んー……別に隠すことじゃないから、良いか」
 なんて、逡巡の姿勢を見せながら不穏な前置きをした後、彼女は言った。
「家に帰ろうとしたら、店の客が出待ちしてた」
「通報案件じゃないか」
 ここまでついてきていたらどうするんだ。民事刑事問わず、ややこしいことに巻き込むのは止めてくれよ。
 私は再びドアスコープを覗いて人影がないかを確認したが、魚眼レンズを通して明け方の空がぼんやりと見えただけだった。
「大丈夫。まいてきたから。あと、知り合いのおまわりさんに通報しておいた。正義感の強い人だから、寧ろそっちの方が心配だな」
「はあ」
 と、神原はよく分からないことを言いながら、私のベッドに横になった。よっぽど疲れていたのか、ものの一分で寝息が聞こえてきた。

 程なくして、件の不審者は警察のお世話になった。と、いう話を神原から聞いた。
 知り合いのおまわりさんとやらは、よっぽどの仕事熱心だったらしい。はたまた、よっぽどの人格者だったかのどちらかだ。
「人格者とはちょっと違うような気もするのだが……まあ、私に限らず他の女の子も似たような経験をしていたようだから、結果的には良かったのかな」
 なんて彼女は言っていたけれど、それでも自宅に帰る気は起きないらしかった。
「ほら。夏休みだから」
 と、あまり身の無い理由を掲げながら、私の部屋に居座っていた。裸足であぐらを掻いていた。お昼ご飯のインスタントラーメンに卵を落として啜っていた。
「本当は味玉だとベターなんだがな」
「じゃあ自分で作ってみろよ」
「そんなそんな」
 麺を口に収めながら、神原はらしくなくふにゃりと笑ったが、それはあれだな。料理が出来ない奴の反応と見える。
「……一応、目標としている貯金額はあるんだ」
「ふうん」
 何の話で話題を逸らすのかと思えば、バイトの話か。
 ならば逸らされてあげよう、と。
 当たり障りのない相槌を打ちながら、私も自分の分の麺の塊を鍋から器に移した。ちょっと伸びかけのところを食べるのが気に入っていた。
「その目標を達成するまでは、何が何でもバイトを続けてやるって訳かい?」
 テーブル(正確には炬燵机だ。私は炬燵が好きで年中ずっと出しているのだが、神原には終始変な顔をされている)の角で卵を割りながら、私はあまり身の無い質問で場を繋げた。
「いや、そこまでの気概は無い」
「無いのかよ」
 スープの中に生卵が到達する。黄身が崩れて歪んでしまっていた。
「やめれば生活が変わるのは事実だけど」
 神原は淡々と言った。
「どうなんだろうな……正直、面倒なことを受け入れてまで続ける意義があるのかと言えば、別段そんなことも無い様な気がしてくるんだよ」
「面倒なことって、今回のケースみたいな?」
「も、含めてだな。前にも話したことがあるかもしれないけれど、元々、この仕事は向いてないんだとは思う」
 神原は気まずそうに頭を掻いた。
 まあ、確かに。
 よく喋る奴が、よく人の話を聞けるのかと言えば、別段そんな保証はないからな。
 神原駿河のコミュニケーション能力の高さは、絶妙な足し算と引き算の上に成り立っている。
 ま、それでそこそこ上手くやっていけてるんだから、これも一つの才能なんだろうね。立派な対人スキルの一種と言えよう。そこに本人の自意識がついて来れていなくとも。
「気にするなって。時間が解決してくれるさ」
「時間?」
「うん。仕事の上達も、時間の経過を待てば良い。嫌なことを忘れるのも、時間の経過を待てば良い。がむしゃらに働いているうちに自然と、きみも一人前のコスプレキャバ嬢になっている筈さ」
「そうか……って違う。違うよ。コスプレキャバ嬢は目指していない。私はスポーツドクターになるんだよ」
「あれ? そうだっけ」
「そうだよ。忘れるな」
「いつか独立して自分のお店を持って、自分好みの女の子を集めて、その全員にナース服を着せたい。とか言ってなかったっけ?」
「それも楽しそうだし、そして私が言いそうなことではあるが……」
「きみは何かと自己を過小評価しがちだけどね。もっと胸を張れば良いじゃないか。私はきみ以上のセクハラ看護師を見たことが無いよ」
「セクハラ看護師じゃない。セクシー看護師だ。セクハラ看護師だと大問題じゃないか。告発されて実名報道されそうだ」
「問題というならどっちも問題だとは思うけどな。社会問題だ。そうなると私に出来ることはさしずめ、学生時代の知り合いってことで、マスコミからのインタビューには答えておくくらいか」
「やめろ。お前にカメラを向けたがる奴なんていないから」
「『とてもそうは見えませんでした。真面目で人当たりが良くて、優秀なアスリートだったから……』」
「そういう生々しい裏事情を話すな」
「あはは」
 軽く嘲笑してみせる私。
 すると、そこで神原は気持ちを切り替えるように。
「しかし、実入りは良い分、若いうちしか出来ない仕事だしな。しばらくは、それを支えに頑張りたいと思う」
 なんて。
 まるで自分に言い聞かせるように言った。慰めるように言ったのかもしれない。
 しかし、賛同し兼ねた。し兼ねたというより、し損ねた。
「それはどうかな」
 と、うっかり口に出してしまった私に対し、まさか口を挟まれるとは思っていなかったのだろう。意外そうに眉を上げる。
 さて。
 用意した本音を開示したら、彼女がへそを曲げることは容易に想像がついたが、ここで押し黙るのも許されそうになかった。
 ので。
「……確かに時間は有限だけど、使い方は有限じゃないからさ。今しか出来ない仕事って決め付けて、それに身を投じる自分には価値があるんだと。そんな感じに思い込んでいるだけじゃない?」
 途端、彼女の目がつり上がった。
 やっぱり失言だったね。
 しかし、相手も私の性格を解してきたのか。それとも自身の性格を省みるようになったのか。はたまた私が言わずとも思うところがあったのか――だとしたら随分と無粋な真似をしてしまったことになる。
 どれが真相かは分からなかったが(全部かもしれないな)、とにかく、スルーすることに決めたらしい。
「おかわり」
 神原は仏頂面のまま立ち上がり、新しいラーメンの小袋を開けた。そして冷蔵庫から、今朝買ったばかりの卵を摘まみ上げる。
 実は意外と彼女は大食漢――ではないか。この場合は。
「贅沢な食べ方をするなあ」
「良いじゃないか。残しておいても、痛むだけだろう」
 と、白い殻を割って、今度は鍋に直接中身を落とした。夏場に湯気を立ち昇らせた所為で、また室温が上がった気がする。
 私達は二人、卵を無駄に消費して生きている。

「沼地のベッドって良い色だよな」
 神原が感心するようにそう言ったのは、その日の夜のことである。
「そう?」
「うん。私がずっと白いシーツを使っていたからか、なんだか新鮮な感じがするんだよな」
 と、神原は背を伸ばした。実にリラックスした様子で。
 何の気なしにぼやいた彼女からは昼間の熱が嘘みたいに引いていた。まるで私との付き合い方を覚えた結果、角が落ちたかのように。
 ただ、果たしてそれは良い傾向と言えるのだろうか。
 私のシャンプーで髪を洗い、私のバスタオルで体を拭いて、今は私のベッドの上であぐらを掻いている彼女が。
「……なあ、神原」
「ん?」
 彼女が顔を上げた瞬間。
 どん。
 後ろから背中を叩くような音がした。
 窓の外がおぼろげに光っている。カーテンを開けると、遠くの空の片隅で、閃光が綺麗に輪を描いていた。
「へえ、お前の部屋って花火が見えるのか」
「私も知らなかった」
「なんだ、勿体ない」
 どこか楽し気な様子で、窓の外に向き直る神原。
 その顔を見て、私の腹の底では疼く気持ちがあった。
 手首を掴む。不意を突かれた様に、目を見開かれた。掌の中があっという間に汗を掻く。
 もう少し花火が見たい、と言った神原を遮って額をくっつける。露骨に眉間に皺を寄せた彼女に向かって、私は何て返したんだったかな。また見れるだろう、とか。そんな適当なことを言ったに違いない。
 相手の瞳が二色の光を映す。遅れて、遠くで鳴った花火の開く音が、私の腹に響く。
 そして、彼女のお気に入りのシーツの上になだれ込んだ。

 翌朝のことだ。
「帰る」
 と、ため込んだ洗濯物と、新しく買い込んだ衣類、その他諸々を詰めた袋を抱えて、神原は私の玄関の戸をくぐろうとしていた。
 一体どんな風の吹き回しなのかと思わなくもなかったけれど、そこは来る者拒まず、去る者追わず。カウンセラー的には一回は追った方が良い効果が得られる時もあるのだけれど、その時は今じゃあない筈だ。
「送って行こうか」
「ん? じゃあこれ、手伝ってくれ」
 抱えていた荷物を半分手渡された。
 自分の名誉の為に言っておくけれど、この衣類の山は私が不精して洗濯機を回さなかった結果ではなく、神原駿河が私と同じタイミングで脱いだ衣類を洗おうとしなかったことが原因だ。全く、横着なんだか、それとも一周回った潔癖症なんだか。私には理解しかねるね。
 途中で休憩しようと、駅前のファミレスに入った。外食するのも随分と久しぶりな気がした。しかも、彼女と一緒にとなると。
「同伴みたいだよね」
「やめろよ」
 聞けば、夜にはバイトのシフトも入れているのだという。切り替えが早過ぎるだろう。どういう心境の変化なんだか。
「あー……バイト、行きたくないなあ」
 飲み放題のオレンジジュースに浸けたストローを噛み潰しながら、神原はぼやく。そんな様は、まるで試験期間を目前にして憂鬱さを覚える高校生のようだった。
 しかし、私達は高校生じゃない。
 だから、選択権がある。
 行きたくないって嘆くくらいならさあ。
「やめちゃえば良いのに」
「やめないよ」
「ふうん」
 彼女の答えは強情、というより強かと表現する方がそれっぽいような気がした。
「きみが何を考えているのか、私には全く分からないね」
「私が何かを考えて動いているように見えるなら、お前は病院に行った方が良いな」

 

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うちのナースはおさわり禁止2

02

 神原駿河の仕事着が変わった。
「衣替えだ!」
 意気揚々と披露してくれた新しい仕事着とは無論、看護師が着用するワンピースを模したそれのことを指している。それがどこかクラシカルな形のものに変わっていた。
 ……どうせならナース服から一新すればいいのに。
 今までのボディラインがよく見える(時点で現場で使用されているような業務用の白衣とは違うんだろうってことは嫌でも察しがつく)制服とは違う。
 エプロンドレスって言えば良いのかな?
 ロリータ? ゴスロリ? 厳密にはそれらともまた違うんだろうけれど、目に馴染んだ(好きで馴染んでいったんじゃない)前の服とは随分と様相が変わったから、曖昧なイメージが先行してしまう。
 旧制服のタイトスカートとは打って変わって、膝まであるふんわりとしたシルエットのスカート。裾ではフリル増量中といった感じの出で立ちだった。
「そんな恰好で接客業が務まるのかよ」
 あと、元スポーツ少女がそんなキャラクター性を放棄するような恰好をして良いのかよ。
「安心してくれ。私はスポーツ少女時代も、ゴスロリでバスケットコートを走り回っていた女だぞ!」
 ……うーん。
 そんな自己申告から何が安心出来るのか、私にはさっぱり分からないね。
 衣装替えによっぽど自信があったのか。それともナース嫌いの私の鼻を明かせるとでも勘違いしたのか。
 彼女は、今まで私に見せて来た中で一番に得意満面の笑みだった。ウインク(実は上手い。顔の筋肉を動かすコツを熟知しているのかもしれない)とかしちゃっていた。
 そして、そのコスチュームチェンジに合わせてなのか、神原は、ほんの数日前まで腰まであった長い髪をばっさりと切っていた。
 頭の形が綺麗に出る爽やかなショートカットは、かつてバスケットボールプレイヤーだった彼女を彷彿とさせ――ないか。ないない。思い起こすには頭の上のナースキャップが邪魔過ぎる。
「でも、どうしていきなりイメチェンなんか。ひょっとして、失恋でもしたの?」
「してないしてない。ほら、髪型が変わっている方が続編っぽいから」
「続編?」
 いや、この話は掘り下げるべきじゃないかな。
 あんまりメタなネタが過ぎると嫌われちゃうからね。
「うん……。正直、このスタイルになってから、成績はちょっと下がった」
 と、それまでの自信はどこへやら。彼女は悔やむように肩を落とした。おや、と不随意的に私の眉が持ち上がる。愚痴っぽい神原が珍しく感じられたからだ。
『成績』というのはこの場合、キャストとして指名された数のことか。それを聞くと、さっきまでのドヤ顔は、自分で自分を鼓舞させる為のハッタリだったのかもしれなかった。良かれと思ってやった営業努力が振るわない、というのは成程、それはちょっと心にキツそうだね。
「まあ、男受けするかどうかは微妙なところだろうな。慰めてやるから元気出しなよ」
 シャンパンに口を付けながら、私は彼女の肩を抱いた。そろそろアルコールが私の気を大きくさせる頃だった。
「心にもないこと言うんじゃない。顔が笑ってるんだよ。私が楽しんでる時のリアクションは希薄な癖に、私が落ち込んだ時には笑うってどういうことだ。人の不幸を面白がるな」
「あはは、バレた?」
「……はあ。やっぱり髪が長くておっぱいが大きいナースの方が好かれるんだろうなあ」
 なんて、まるで全人類の嗜好がナース服に帰結するような言い方で神原は総括をしたが、無論、そんなことはない筈だ。
 現に、その狭いフェティシズムの輪の中に入れない奴が、きみの目の前にいる。

「……酔った」
「え。珍しいな。珍しいというか、お前が酔っ払ったの初めて見たぞ」
 思ってたより強かったか? という神原の呟きを耳に入れながら、私は天を仰いだ。そのまま上半身を右にスライドさせると、着地点に太腿があった。
「マナーが悪い」
「ここだと女の子に一任してるんだろ。■■■さんのルールだと?」
「……一見さん以外は、断らないようにしている」
「じゃあ平気だね」
 それ以上は追及されなかった。
 おろしたばかりだという制服は、既に煙草の香りがしたし、その奥には香水の甘さがあった。
 上を見上げると、神原は厳しい顔で新しいシャンパンのボトルを凝視している――が、それがどこか遠くに感じられた。……胸が邪魔で見づらいだけかもしれないけれど。ちょっと避けて貰えないかな。
「あれ? もしかしてノーブラ?」
「な訳ないだろう。ノーノーブラだ」
 否定語が二重になった分、より強く否定された気がするし、そのまま胸部を触っていた腕を払われた。
 ついでに、神原は両腕で上体を抱えるようなリアクションを挟んだので、膝に垂らしてあったエプロンが私の頬を擦った。
「…………」
 駄目だ。なんとか茶化して誤魔化せないかと思ったが、瞼が重くなってきた。
「……薄々思ってはいたけれど、ここってキャバクラの割に、コスプレ色が強いよね」
「そうか? いちゃキャバ全体で見れば少数派かもしれないけれど、イメクラとかはこんなもんじゃないのかな。行ったことが無いから知らないけれど」
 知らないのかよ。
「いや、ほら。コスプレが好きならメイド喫茶でバイトするって手もあったんじゃないの? って思って」
「それは無理だ。私がご主人様と呼ぶのは生涯で阿良々木先輩だけと決めているから」
「? 阿良々木先輩って?」
「あと、別にコスチュームプレイに執着がある訳じゃないから」
 よく言うぜ。
 新しいスタイルの制服に心躍らせながら言うには、些か説得力に欠けると思った。今の私が酔っ払って判断力に欠いた状態じゃなかったとしても、そう感じたに違いない。
「……慰めてくれるんじゃなかったのか」
 薄目を開けると、神原が不服そうな目でこちらを見ていた。
ふと、彼女に私のことが好きかどうかを言葉で尋ねてみたくなったが、それはまたの機会にしておくことにした。

 

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うちのナースはおさわり禁止2

01

「神原選手って、医者なんだっけ?」
「違う。今は当ナース系いちゃキャバ場内指名ナンバー4のセクシー看護師だ。というか、私の名前は■■■だ。神原選手って誰ですか?」
「流石に自分を見失い過ぎじゃない?」
 あと場内指名(ってあれか。本命になるまでじゃあないけど、話してみると案外楽しいってタイプ?)の数で誇られても今ひとつピンと来ないし、毎回本指名料を支払っているこっちの気持ちを全く考慮していない。そんなだから、上から数えて四番目という中途半端な数字なんだよ。
 でもまあ、聞くまでもないことを訊いた過失は認めよう。ここでは隠しているけれど、彼女が医学部在学中の学生だってことを、私――沼地蠟花は既に知っていたからだ。
 ならば質問を変えようか。
「じゃあ、■■■さん。ダメ元で訊くんだけどさ。きみ、診察って出来る?」
「診察? ……ああ、分かった。そういうことか。ほんと、お前も好きだよなあ。『診察』ワンセット入りまーす」
 彼女は分かったような顔をして、カルテに見立てた伝票に走り書きをし、安っぽいナース服の前をくつろげた。桃色の生地の下から見せブラが顔を出す。軽薄そうな赤色だったが――いや、それは良い。話の本筋じゃないから。■■■さん、もとい、神原駿河さんは分かったような顔をしておきながら、なんにも分かっちゃいなかった。
「いや、全くそういうことじゃない。『診察』はナースパブ限定裏メニューを指した隠語じゃない。私の顔におっぱいを押し付けないでくれる?」
「ん? 違うのか?」
 人の話は最後まで聞いて欲しい。キャストのオーダーミスの分までサービス料を払えと言われたらどうするんだ。ぼったくりもいいところだぜ。神原選手のドリンクバック分から引いといてくれよ。
「私の記憶が正しければ、きみって医者の卵だろう? ちょっと診て欲しいんだけど、ってことだよ」
「ん? お前、どこか悪いのか? なら、こんなところでお酒なんか飲んでいたら、身体に毒じゃないのか?」
 意外そうに眉を上げる神原。それとは対照的に、私の眉間は狭くなった。
 ほらね。弱った身で相談に来ているのに、いきなり小言から入るから嫌いなんだよね、医療従事者って。
「自分だって心理カウンセラー志望の癖に」
「だからこそ、耳当たりの良い言葉を選べるようになりたいんだよ。で。なんか、目が痛くてさあ」
「目? 目かあ……うーん、眼科は専門性が高いから、よく知らないんだよなあ……」
 なんて、小賢しい言い訳をしつつ。神原は私の方に向き直った。膝頭と膝頭がくっつく。
「私は膝頭より膝小僧って言い方の方が好きだがな。ほら、美少年を彷彿とさせるから」
「じゃあ小児科医にでもなれば良いのに。子供の膝くらい、よりどりみどりの眺め放題だろう」
「いやでも、ガチな少年の膝って大抵擦り剝けているから。美少年のお膝のお稚児さんは大抵傷だらけだから。いやらしい気持ちに――じゃなかった、痛ましい気持ちになってしまう」
「お稚児さん?」
 首を傾げた私と再度対称に、「まあ、それは良いんだ」と、神原は頭を振った。
「……本来なら、医師免許を有していない者は、医業をなしてはいけないんだぞ。医師法で禁じられているんだ」
「固いこと言うなって。有名な医療漫画の天才外科医はモグリだったじゃないか」
「アッチョンブリケ」
 中々ノリが良かった。
 そのままのノリの良さで、神原は私の瞳孔を覗き込む。
 今までで一番、ナース服が様になったシーンかもしれない。品性に欠けるピンク色じゃなければ尚良かったのに。あと、ナースワンピの前が閉まっていれば。
「目のどの辺りが痛いんだ? ……こら、擦るな。傷が付いたら一生ものだぞ」
「んー……」
「痛いのはいつからだ? どんな風に痛む? まばたきして、ゴロゴロする感じか?」
 ……うるさいなあ。
 いつだったかは、私が神原を質問責め(主な質問内容は、『どうしてきみがナースコスプレ特化型のキャバクラでバイトをしているか』だった)にして、渋い顔をされたことがあったけれど、今になってポジションが逆転していることに、何か思わなくも――ないか。うん。ひたすらに面倒くさいだけだ。
「痛いのは、この間、熱を出して以来……ああ、それはもう平気、復調したんだけどさ。目の腫れだけ収まらなくて――うん、まばたきすると気になる」
 新しいおしぼりで手を入念に拭いてから(ちょっとだけそれっぽいな)、私の目元に手を伸ばしてくる神原。下の瞼を親指でゆるく押し下げられる。負っていた疾患との相乗効果で、絶妙な不快感。
「触られると、痛いんだけど」
「すまん。いや、すまんなことないよ。ちょっとは我慢しろ。おっぱい見てて良いから」
「何の慰めにもならない」
 私を何だと思ってるんだ。
 ていうか、どれだけ自分の胸に自信があるんだよ。
「実は今日から新しいブラなんだ。誰かに自慢したくて堪らなかった」
「ふうん」
 意外や意外。さっき私がスルーした方の話を、神原が本筋にしたがっていたとは。しかし残念だ。用意された広い紙幅を、期待通りに埋めることは出来そうにない。私の描写スキルは高くないからね。悪しからず。
 それでも一応、と。目前にあった服の合わせ目に集中してみようと試みる。が、あんまり上手くいかなかった。
 涙袋の異物感が瞼を重くさせていたってのもあったけど、普通に、神原の手に遮られて見えなかった。
 この店の従業員は、キャバ嬢らしくネイルをしている女性も多いのだけれど、彼女の手がそうではなかったことは良かったか。その辺りは、裏の顔(本来はナース服の方が裏の顔な筈なので、裏の裏の顔かもしれない)が医大生なだけある。手を使う実習も多いのだろう。今は患者に見立てた上客の手を握ることに忙しくしているが、いずれ本物の患者の患部を触ることに忙しくなるのかもしれない。よく分からないけれど。
「……よく分からないな。暗いし」
 一瞬、私の思考を読み取られたのかと思ったが、そんなことはなかった。ただ早々にさじを投げられただけだった。
 人の眼球をじっくりたっぷりと観察した挙げ句の台詞がそれだとしたら、まったくもって頂けない。
「直前に熱が出た、というのは気になるけどな……正味な話、ここで相談するより、すぐにでも病院に行った方が良いと思うぞ?」
「…………」
 それが易ければ、苦労はしないんだよねえ。
 私のフットワークは、一度左足の故障を経験していても(寧ろそれが転機となっていて)、決して重くはない。
しかし、行き先が病院の場合は、その限りではないんだよ。
「ん? どうしてそんな顔をする。もしかして、お前、病院が苦手なのか?」
「今更にも程があるね。冒頭の注意書きにも書いてあったじゃないか」
「何の話だ?」

 今回のオチ――いや、診断結果か。
 神原の『診察』を受けてから、翌々日。
 仏頂面でセクシー看護師をはべらす私がそこにいた。
「ものもらいだって。全治一週間」
「ふうん? じゃあ、発熱もただの不摂生か。良かったな、大したことなくて」
 と、重い腰を上げてまで通院結果を伝えに来たというのに、かようにつまらない反応をされては、私も肘をつきたくなるってものだった。
 本当は診て貰った日から大分良くなってはいたんだけど、眼帯をしたまま来店して見せたのは、ちょっとしたあてつけである。
「……あまり良くなかった目付きが更に悪くなったな」
「悪いのは私の目じゃなくて、きみの口の方なんじゃない?」
 ナースが患者に優しくないってどういうことだ。表面上は過剰な接客を模しているところが尚更、質が悪い。
「思えば、『目付きが悪い』って、割と酷いこと言ってるよなあ。目の付き方なんて、自分ではどうしようもないのに」
 どこか辛辣な見解を添えながら、神原は私の空いている方の目を覗き込んだ。今度は額と額がくっつきそうな距離まで近づく。
 と、そんな絶妙なタイミングで、店のスタッフが席にやってきた。
 途端、距離が出来た。
 ……いや、違うかな。適切な距離に戻されたんだ。それまで投げ出されていた神原の脚が、秒で行儀良く畳まれていて、そんな様に私は苦笑してしまう。いやはや、彼女も器用になってきたものだ。
 しかし、問題なかろう。
 近付い来てすぐ、彼は物珍しそうな視線で私を一瞥していたから(よくあることだ)。そして、今度は神原に向かって何かを耳打ちした。
「はい……はい、わかりました」
 きっと、■■■さんにご指名が入ったのだろう。指名が被るようになってきたということは、きみもそこそこ成績が振るうようになってきたんじゃない?
 しかし、ヘルプで呼ばれる子に興味は沸かなかったので、時間には余裕があったが私もお暇することにした。
「じゃあ行ってくる……じゃなくて、『ごめんなさあい、もうお時間なんですー。また指名してくださいね、お大事にっ』」
 語調に合わせながらなのか、左右の手指を使ってハートマークを作る自称セクシー看護師。
「……体裁の為だってことは言わずとも分かるけど、もうちょっと心は込められなかったのかよ」
 いや、それこそ目も当てられなくなりそうだな。と、私は帰り支度を始めた。

 

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泡沫に泳ぐ魚

06

 進展がないまま一週間が経過した。
「まもなく直江津高校でもプール開きですが、駿河先輩は水着のご用意はお済みですか?」
 わざわざ昼休みに三年生の教室を訪ねて来る程、彼は私を慮ってくれているのか、はたまた面白がられているのだろうか。きっと後者なのだろうなあ、と私は今日も忍野扇くんの顔を見ながら思う。
「……きみの嫌味は冗談にしては面白くないな」
 しかし、連日に渡る『溶解騒ぎ』で少なからず疲弊していた私は、後輩の笑えない冗談に対し、何ともつまらない皮肉を押し出すだけで精一杯だった。
 阿良々木先輩だったら、ここでもっと気の利いた返しをするのかもしれないな、と携帯電話に溜まった未返信のメールの数々に思いを馳せる。そろそろ誤魔化しながらエロ話をするのも苦しくなってきた頃で、先輩にも後輩にも薄情に振る舞ってしまう自分を、少しだけ情けなく思った。
 ともあれ、プール開きか。
 教室の窓から見える空の色は、連日の曇天の気配を感じさせない爽やかな青だった。まもなく天気予報で梅雨明けが発表されるだろうし、そうなると、体育の時間に水着を持って来いと指示が出るのも時間の問題だ。
「楽しみですねえ。駿河先輩は一体どんな官能的な水着を着るのか、今から期待が高まりますね」
「その期待はいくら高めても無駄だぞ? いくら私でも、学校の授業はスクール水着を着るよ」
「おやおや、それはファンとしてがっかりですね。僕は駿河先輩のきわどい水着姿を見る為に直江津高校に入学したと言っても過言ではないのに」
「過言だろ」
 何かと私を仰ぐことが多い扇くんだが、残念ながら神原スールの残党向けに、そんなファンサービスは提供していない。というか、スクール水着以上にエロい水着も中々ないとは思うのだが(学生のうちしか着れないし)……いや、この話題を掘り下げるのは止しておこう。
「まあ……きわどい水着はないにしても、今年もプールに入ること自体、無理だろうな」
 言うまでもなく、私は身体が溶ける現象が収まらない限り、水泳の授業は欠席するしかないだろう。
 はてさて、今年はなんて言い訳をしようか。二年連続で、となると、相応の理由を考えねばなるまい。
 こう事情が複雑になってくると現金なもので、早々に『左腕が治りました!』と公表するべきじゃなかったかと、ちょっとした後悔の気持ちも覚える。取り戻した日にはあんなに喜んでた癖に、我ながら皮肉なものだ。
 なんて算段を立てていると、やはり日傘は『友達』というだけで随分と甘やかして貰っているんだなあ、と遅まきながら感謝の気持ちも覚えるのだった。
「うーん、それは残念ですね」
 さして残念そうにも見えない笑顔のまま、私の水着姿を惜しがってくれる扇くん。
 この子は本当に、良い性格してるよなあ……。
「冗談はさておき」
 冗談だったのか。
「プールという着眼点は、我ながら悪くはないかと思ったんですけどねえ」
 と、扇くんは私の机に肘をつきながら、見解を述べる。
「ほら、今回のキーワードは『水』ですし。解決の糸口が見当たらない今、身近な水回りを調査することは決して無駄ではないと思うのですが」
「んー、まあ……そうなのかな?」
 些か強引な案の様に感じるが――確かに彼の言う通り、打開策が見当たらず、現状、停滞気味であることは事実である。
 だから肯定的な返事をしてはみたものの……正直、本能的に水辺に近寄りたくない、という気持ちもなくはないのだが……。
「まあまあ、ちょっと調べてみましょうよ。実際に体を動かしてみた方が、新しい発見があるかもしれません。駿河先輩だって、考えるより動く方が得意でしょう?」
 放課後に屋上の入り口で会いましょう。
 と、扇くんは言い残し、さっさと教室から出て行ってしまうのだった。私が待ち合わせ場所に来ることは始めから決まっている、とでも言うような口ぶりで。
 だから、私の意思などあってないようなものなのだ。

 直江津高校のプールは、実は屋上にある。
 私は、水泳の授業は一年生の時に受けたきりなので、体育会系女子ながら今ひとつ馴染みの薄い場所なのだが。
 しかし、プール開きより一足早い訪問にもかかわらず、おあつらえ向きに水が張られた五十メートルプールを前にすると、どこか清々しい気持ちになるのだった。
 煌めく水面。どこか懐かしい塩素の香り。
「言うまでもないですが、駿河先輩、くれぐれも落ちないでくださいね」
「分かっているよ」
「今落ちたら洒落になりませんからね。制服が濡れて下着が透けてしまった、なんてラッキースケベでは収まりません。駿河先輩の肉体ごと透けてしまっては、僕にとっても残念な結果になりますし」
 そんな、色んな意味で物騒なことを言われても。
 とにかく、目の前の液体に対し細心の注意を払いながら(私は隣に立つ扇くんに対しても警戒しながら)、私達はプールサイドに立つ。
「いざ調べに来たのは良いんだが……うーん、うちの風呂とは違って、直接的に何かがここで起こった訳でもないからなあ」
「そうですねえ……でも、駿河先輩は左手のことがありましたし、プールの授業は一年生の時しか受けていないんでしょう? どうしても裸でプールに入りたかった、という駿河先輩の執念が怪異現象として具現化した可能性は捨てきれないと思いますが」
「捨て切れ、そんな可能性。私はそんな執念を抱き続けられる程、ハイテンションな奴ではない」
「元はあなたの発言なんですけどね。ドラマCDのあれです」
 と、やけにマニアックな話(何故扇くんが知っているんだ?)を挟みながら。
「しかし、この説を捨てるのはやや早計ですよ? 怪異にはそれにふさわしい理由がある――人間の想いや執念だって、十分な理由になり得ますから」
 なんて、悪ふざけの延長で、急に専門家の端くれのようなことを言い出す扇くん。その辺りは流石、忍野さんの甥っ子と言ったところだろうか。
 その見方は正しいのかもしれない。
 私が猿の手を動かしたのも、単に母が残した木乃伊のパーツが手元にあったことだけが理由ではない。
 私は自分で願って、あの悪魔に阿ったのだ。結果、私は自分の想いを、ひいては受け入れることが出来なかった自分の暗黒面を、悪魔として顕在化させてしまった訳だが。
 人の想い。
 執念。
 そう、沼地のことだって――
 三年前に自殺したあいつが、人の不幸を集める怪異としてこの世に留まっていることだって、突き詰めれば彼女自身の執念が体現化しているようなものなのだろう。
 沼地自身は『怪異は適当でいい加減なものだ』と主張しているが、彼女の存在自身が怪異の存在理由を裏付けしてしまうとは、どこか皮肉な話である。
 ……ふむ。
 実らなかった気持ち、か。
「でも……まあ、流石の私も、水着で登下校したかったとか、裸でプールに入りたかったとか、そんな冗談をいつまでも引き摺りはしないよ」
 と、後輩には一応、否定の意を見せておく。
「改めて言葉にされると冗談じゃすみませんけどね、そのロマンは。しかし、惜しかったですねえ。僕がもう少し早く生まれていれば、あなたの裸体を――いえ、水着姿を拝めていたかもしれないのに。実に無念です」
「きみって、偶にさらっとエロいこと言うよな? 女子の裸体がそんなに簡単に見れると思うな」
「空耳でしょう? 安売りしていたのは他ならぬあなただと言うのに」
 そんな風に、扇くんは私の小言をへらりとかわして。
「しかし、安心してください。今からでも遅くはありません。幸いにもプールサイドには僕と駿河先輩の二人しかおりませんし、絶好の機会です。さあ、駿河先輩、どうぞ裸でご入水ください!」
「だからそうやって、流れるように人を陥れようとするな! しかもきみは、私の置かれている状況を分かった上でわざと言っているよな!?下手をすれば私を殺そうとしているよな!?今この場で全裸入水したら、物理的にも社会的にも死ぬよ!」
 まったく。
 相変わらず人をおちょくるのが好きだな、きみは。
 あまりの物言いに、いっそのこと私ではなく扇くんを水の中へ突き落としたくもなったのだが、声を張り上げただけでなんだか無性に疲れてしまった。
 はあ、とため息を吐く。「幸せが逃げちゃいますよー」と耳聡く声を掛けてくる扇くんは無視。
 この先、彼からまともな意見を期待するのは諦めた方が良さそうだ。元々、自分が抱えている問題なのだ。人任せにせず、自分で考えるべきだろう。
 陽の光が反射する界面を改めて眺める。
 こうしてまじまじ見ていると分かるけれど、水面の模様って、一度として同じ形のものは見られないんだよな。そう思うと、水鏡なんて随分と不確定性の強いものなんじゃないか、なんて気持ちも湧きおこらなくもない。
 うちの風呂の水にまつわるいわくなんて、怪異譚というよりは、半ば迷信染みたおとぎ話に近いのかもしれないが……しかし、最近は湯船に浸かる機会そのものがとんとなくなってしまったから、水面に誰が映るのか見ていないな。
 なんて、底が見える程澄んだ水の層を、じっくりと見分していると。
「……ん?」
 うちの風呂の水面ではなく。
 目の前の、学校のプールの水面に映っていたのは。
 私と、扇くんと、それから。
 あの日、自宅の湯船で見たものと同じ影だった。
「駿河先輩?」
「……え?」
 迂闊だったと思う。
 反射神経は決して悪くなかった筈なのに。末端神経が鈍っているというか。まるで自分の身体が自分のものでないみたいに――自分と自分じゃないものとの境目が、次第に分からなくなっていく。
 それこそ水に溶けていくような――
 そんな夢心地の意識のまま、不用心にも、私は水底に沈もうとしていく影を追おうとして。
「っ……!?」
 瞬間的だった。
 いきなり水面から伸びて来た尾に腕を絡め取られたかと思うと、強い力で引っ張られた。
 流れに逆らえず、あっという間に重心が傾く。プールサイドの縁を掴んでいた自分の足の指は簡単に外れてしまった。
 あ、どうしよう。
 流石に頭からはまずい気がする。
 と、後悔しても遅く。まさしく『覆水盆に返らず』と言ったところか――この場合、こぼれた水は私自身になるかな?
 なんて、ふざけたことを考えながらも、落下を防ぐことは叶わなくて。
 ざっぱーん、と。
 人間一人が落ちた時相応の大きな水音が、私の耳の奥でくぐもった響きを立てた。
 輝く泡で一杯の視界を、瞳に入った水が歪ませる。
 ――あ。
 水に触れた瞬間、私の意識は流された。

 
07

「薬になれなきゃ毒になれ。でなきゃあんたはただの水だ」
「……近頃の私は、本当に水になってしまいそうで、恐ろしいです」
 聞き慣れた母の言葉が、そこにはあった。
 親の一番の決め台詞に可愛げもなく答える私。娘に宛てた母の教えも、窮地に立たされた今は嫌味にしか聞こえなかったからだ。
 相も変わらず余裕の笑みを湛えている母親に対し、少しくらい反抗の気持ちを抱いたとて、許されるのではなかろうか。しかし、愚かな娘の反発的な態度は、偉大な母には何のダメージも与えていないようだった。
 臥煙遠江。
 私の母親であり――私に『猿の手』を遺した張本人。
 故人である彼女が私の前に現れること自体、非常識的な出来事の筈なのだが……如何せん、対話を重ねる頻度が高過ぎて、今ひとつ怪異現象として認識出来ていないような気がする。
 慣れっこだ。
 しかし、今回ばかりは気にしておいた方が良いだろう、と私は親に探りを入れてみることにした。
「……こうしてお母さんと再会しているということは、私はいよいよ死んでしまったのでしょうか?」
 水に落ちて。
 跡形もなく溶けてしまったのだろうか。
「いやいや、大丈夫だ。今回はね――くくく。そう心配そうな顔をしなくとも、私はそんなに簡単に死ぬようにお前を産んだ覚えはないよ」
 とのことなので。
 ここがあの世で、完全溶解してしまった私が、先立った母の顔を彼岸で拝んでいる、という可能性は消去して良いらしい。
「はは、相変わらず苦労しているようだね、可愛い娘の駿河ちゃんは。だから言っただろう。あんたの人生は、きっと人より面倒臭いってね」
「他人事みたいに言わないでください。これでも結構ピンチなんですよ……というか、あなたが水中に引き込んだ訳ではないんですよね?」
「なんでもかんでも、お母さんの所為にされちゃあ困るってもんだよ。あたしは偶々、あんたが意識を失ったから出てきただけさ。だからいつも通り、あんたが夢を見ているって体で話させて貰うよ」
「はあ……」
 母の言葉を鵜呑みにするならば、どうやら私は意識を失っているらしい――と、自分で認識するのもおかしな話だが。
 己の意識を失ったと自覚している自分は、果たして意識がないと言えるのか。パラドックスだ。
 意識と無意識。
 自分の無意識下の衝動を意識の下に顕在化させたのが、この人の遺した『猿の手』だった訳だが――
 ……まあ、私が母の夢を見ることはよくあることだ。なんて、腑に落ちない気持ちは拭いきれなかったが、私は無理矢理に自分を納得させておくことにした。
 母も詳しい事情を――この人が私の前に化けて出る条件やメカニズムを――説明する気は更々ないようで、
「ところで、駿河ちゃんはママとの思い出を、どのくらい覚えているのかな?」
 なんて、らしくなく穏やかな話題選びをする。
「正直な話をすれば、あんまり自信はありませんね。記憶力が良い方ではないらしいので……それがどうかしたんです?」
「いやなに、こうしてひょんなところで親子の時間が持てたんだ。娘の窮地を助けるヒントくらい、あげておこうかと思ってね」

「なあ、駿河。あたしは昔――それこそあんたがまだ幼かった頃、娘に絵本の読み聞かせとかしていたんだけど、その様子じゃあ殆ど覚えていないんだろうね」
「その通り覚えていませんが……え、そんなこと、あったんですか?」
「冷たいねえ。それこそ、あんたが水でも飲むように本を読む乱読家に育った理由は、ひょっとするとその辺りに原因があるかもしれないってのに」
 と、恩知らずな娘を嘲笑うかの様に臥煙遠江は嘆息したが、しかし、この人がそんな母親らしいことをしていたとは軽い驚きである。
「あなたが読み聞かせる話がどんなものだったのか、覚えていないどころか想像もつかないのですが……」
「色々読んだよ? おとぎ話から日本昔話まで、寓話の類は大抵読み聞かせた。『白雪姫』とか、『ハーメルンの笛吹き』とか、『三匹のくま』とか、『さるかに合戦』とか」
「チョイスが微妙と言いますか、登場人物が可哀想な目に遭う話ばかりですね……」
「世間に知られている童話の大半は、子供向けに多少マイルドになっているだけで、原作はそんなものだろう。聞こえ良く語った話だからこそ、多くの人に知られることになったと言えるかもしれない。ただし、果たして現代に伝わった話が、原作者が本当に語りたかった話なのかどうかは、また意見が割れそうな話ではあるけどねえ」
 そんな皮肉的なことを言いながら、くっくと笑う母はやはり、書店の絵本コーナーで娘に読み聞かせる一冊を選ぶような人には到底思えない。それは私がこの人の娘だからこその感想だろうか。
 私も大概だが、この人も本を斜めに読む気があるのではないかと思うし。
「娘に向けて読み聞かせる時くらいは、私も文面を真っ直ぐに読んださ。駿河ちゃんのお気に入りは『人魚姫』だったぜ」
 人魚姫?
 って、あれか? アンデルセン童話だっけ?
「人魚は人魚でも『赤い蝋燭と人魚』の方だった、なんて意地悪なオチはありませんよね?」
「小川未明先生の童話も有名だけど、あんたが気に入っていたのは日本のアンデルセンの方じゃない『人魚姫』だったよ。よく読み返したものさ。ハンス・クリスチャン・アンデルセンが書いた原作は中々に宗教色の強い話なんだけどね。駿河は知っているかな? 人魚のお姫様は、最後は空気の精になるんだよね」
「いえ、流石に原作を読んだことは……あれ? 人魚姫って、最後は泡になってしまうんじゃないんですか?」
「いや、その後、神様の国に登っていくんだよ。だから、可哀想な人魚姫の為に、子供達は日々善行を積まなくちゃならない――ってのが、原作で読者に向けて描かれているメッセージ。説教臭いだろ」
「…………」
 読んでいないから大きなことは言えないけれど、名作を一言で切って捨てるようなまとめ方をしてしまう辺り、この人の大らかさは目を見張るものがある……見習いたいとは思わないが。
「まあ、そうやって、物語の読み聞かせを重ねることで、あたしは娘の想像力を豊かに育て上げてしまったんだろうね」
 そんな風に、適当に話を切り上げて、母は満足気に笑った。
 しかし、幼い頃の自分のことならともかく、今の自分の性格や気質――果ては好きで読んでいる本の種類まで親の影響とされては堪ったもんじゃない。
 私がBL小説を嗜んでるのは、あくまでも私自身の嗜好によるものあって、決して母親に感化されたからではないのだ。
「いやいや、そんなおこがましいことを言うつもりはないし、あんたの偏った本の趣味まであたしに責任を求められても困るって。あんたはあんたで勝手に育ったんだろう――ただ、親子の影響はなくとも、血縁の影響はあったかもしれない。こと今回の件に関しては」
「……?」
「まあ、だからごめんね、と謝ったところで、どうこうなった話でもなかったんだろうよ」
 と、母はよくわからないことを言いながら、一人で納得したような顔をするのだった。
「あの……もう少し、分かりやすいヒントを貰えませんか?」
 これでも追い詰められているのだ。愚かな娘を哀れんで、出来ることなら回答まで教えて頂きたいくらいに。
 あなたの子はあなたに似てシンプルなのだ。
 もっと言えば、私は母より考えることに向いていないとさえ思うし。
 しかし、この人にそこまでの優しさを期待したところで返って来るものはないだろう。それに、完全に親頼みにするのもどこか釈然としない――なんて子供染みた意地もあって、自分なりに考察はしてみる。
「その『人魚姫』が解決策に繋がるんですか? それとも、その思い出話から『母の優しさを思い出せ』というお説教でしょうか?」
 確かに、海に落ちて泡になってしまう辺りは、水に触れると溶けてしまう私の状況と、似通ったものがあるが……いや、人魚姫の場合は泡になってしまうのは、悲恋が原因になるのか? 私の恋愛事情なんて、それこそ閉じた物語だと思うのだが……。
「お母さんに言わせれば、お前は私より考え過ぎのきらいがあると思うがね――原作を読めば分かるけれど、人魚姫は王子様と結ばれることはなかったけれど、だからといって、幸せになれなかった訳じゃあないだろう」
 そうなのだろうか。
 失恋や失意を超えた先に、何か得られるものがあるのだろうか。
 果たして、空気の精になったという人魚姫は、幸せになれたのだろうか。
「『愛されることには失敗したけど、愛することなら、うまくゆくかもしれない』――これもまた別の『人魚姫』の一節だけど――どちらかというと、あんたはそういうタイプなんじゃねーの?」
 母は言う。
「人魚のお姫様然り、他の寓話の主人公然り、あんたの憧れの先輩然り、自分の望みは自分で叶えることだ」
 いつもの教えを思い出せ、と。
 薬になれなきゃ、毒になれ――
「ただの水になりたくなければね」

 
08

 どうやら生きているらしい、と漸く自覚出来たのは、頭上にあった彼の顔を認めてからだった。
「……扇くん」
「あ、気が付きましたか。いやはや、このまま起きなかったらどうしようかと思いましたよ。丁度、お姫様へ目覚めのキスでも捧げようかと思っていたところでした」
「思い留まってくれていて良かったよ」
 今しがた聞いたばかりの話によると、私は眠り姫ではなく、人魚姫らしいし。
 首を持ち上げて辺りを見回すと、見知った自分の部屋の中だった。散らかっているのはいつも通りだとして。丁寧に敷かれた布団の上に、自分は横たえられていたようだ。
「まあまあ、悪ふざけはこの辺にしまして」
 と、空中で物を移動させるジェスチャーをわざとらしく挟みながらも、扇くんは今までになく真剣な口調を作りながら続けた。
「今回の件なんですけども――駿河先輩、何が起こったのか覚えていますよね?」
「うん。プールに落ちたところまでは」
「ええ、そうです。あなたはプールに落ちて――身体のみならず、駿河先輩の意識が溶け出してしまったのではないか、と思われます」
「意識?」
 それこそ意のなさそうな面持ちで言葉を反芻しただろう私に、扇くんが眉間の皺を深くする。私の惚けた反応は感心されないものだっただろうが、目覚めたばかりの頭で考えるにしては理解の範疇を越えていたので、仕方があるまい。
「記憶まで溶け出していたら面倒だと危惧していたのですが……どうやらその心配はなさそうですね」
 さらりと恐ろし気な仮説を立てていた扇くんだが、気を失っていた間に夢を見ていたことも覚えているから、それはないと願いたい。
 そういえば、どうして彼は私が目を覚ますまで付き添ってくれていたんだろう?
「いえいえ、流石の僕でも、あの状態の駿河先輩を放置出来る程、心無い奴ではありませんよ。というか、もう少し労ってくださいよー? あれから駿河先輩を布団に寝かすまで、僕もそれなりに働いたんですから」
「それは苦労をかけたな、申し訳ない」
「いえいえ、僕のドライビングテクが役立って良かったです」
「え、きみって車とか運転するのか?」
「あなたを助手席に乗せて海辺を走りたい気持ちもありますが、それはまたの機会にしておきましょう」
 何故か私とドライブに行くことを、さり気なく確約させる扇くん。真実とも虚言とも分からない彼のボケは華麗にスルーしておくことにして。
 私は自分の左の手指を動かしてみる。
 ぐー、ぱー。
 ……うん、大丈夫。
 四肢もちゃんとある。どの程度まで溶けていたのかは定かではないが、一応、私の身体は原型を留めているようだった。
「私はどれくらい眠っていたんだ?」
「約一日ですよ。回復に要する時間が長くなっていることも事実です」
 一日。
 扇くんと屋上に赴いたのが放課後――およそ午後五時台だと考えて、現在時刻が……午後の八時か? だとすれば、私はなんと二十四時間以上眠っていたことになる。
 何分室内だし、意識を失っていた割りに、妙に現実感のある夢をみてしまったから、時間の感覚がはっきりしないけれど。
「え、じゃあ、もしかして、きみは丸一日私に付き添っていたのか?」
 だとしたらそれは、先輩に助力する後輩の域を超えている働きぶりなのだが……。
「あ、それは安心してください。阿良々木先輩と交代で付き添っていたので」
「えっ」
 それはそれで問題だ。
 別に考える余地がある問題だ。
 あの人のお人好しぶりには今更驚かないのだが。それでも、私の知らないところで私を助けられてしまっては、後輩として立つ瀬がない。
 またも恩人に恩を作ってしまった。
「というか、あなたを救出するに当たって、阿良々木先輩に協力を要請するのは避けられなかったんですよ。非力な男子高校生一人では、完全溶解ギリギリのあなたを水から引き上げて、事を荒立てずに自宅まで送り届けるのはハードなミッションでしたからね――そこは阿良々木先輩ですから、新車を出すことに渋りはしませんでしたよ」
 懇切丁寧に説明してくれる扇くん。
 超が付くほど失礼系な後輩にしては、らしくなく、やけに献身的な態度ではないか。
 隣に立っていた筈の先輩が、いきなりプールに落下した現場を目の当たりにして、もしや、彼は彼で責任を感じている……のかな?
 だとすれば、その反省の仕方は見当違いで、きみが気に病む必要はないと、声を掛けてやるべきなのだろうが――そんな殊勝なことを考える後輩では勿論なかった。
「とりあえず、駿河先輩が無事に復活なされて何よりでした――では、僕はこれで」
 と、扇くんはあっさりと立ち上がる。
「え、もう帰るのか?」
「ええ。僕は僕で色々と忙しいんですよ。それに、これ以上沼地さんに睨まれるのも本意じゃありませんしね」
 ……沼地に睨まれる?
「それでは失礼しますね」
 なんて、妙に去り際が良い後輩を前に、目覚めたばかりの私は、どうしてか心細さを覚えてしまって、
「ちょ、ちょっと待って、扇くん」
 と、うっかり彼を引き止めてしまった。
「はい? なんでしょう駿河先輩」
 手のひらを反すが如く、くるり、と身体の向きを変える彼。
「いや、その……」
 とはいえ、二の句を準備していた訳ではなかったので――場を繋ぐ為、苦し紛れではあったが、私は彼に、母との対話で得られた知見を話してみることにした。
 幼い頃の絵本の読み聞かせ。
 親が子に与える影響。
 そして――私が好きだったという『人魚姫』。
「……やっぱり、何か理由があると思うんだ」
 怪異にはそれにふさわしい理由がある。
 そして、母の言葉をそのまま受け取るならば。
 私はなるべくして、水に溶ける身体になってしまった筈なのだ。
「ほお。では、駿河先輩の見解を聞いてみましょうか。改めてお母様との思い出を振り返ってみて――あなたの身体が水に溶けるようになったことには、どんな理由があるとお考えですか?」
「え」
 まだ成熟した考えがあった訳ではなかったのだが――しかし、引き止めてまで話を振っておいて、そんな肩透かしなまとめ方をするのも味気ないだろう。
 と、後輩に対する下手な見栄から、なんとか即興で、場を取り繕うと試みる。
「え、えっと……私にとっての幸せを見つけたら、呪いが解ける……とか?」
「……はあ」
 微妙な反応を見せる扇くんだが、仕方なかろう。
 言いながら、私も微妙な案だったと後悔したし。
 呪いは解けていないが、身体が溶けているし。
 上手いこと言えていないのだから、ちゃんと否定してくれれば良いのに、私のやることなすこと全てにイエスマンの扇くんときたら。
「んー、じゃあ、駿河先輩がそう思うのなら、そうなんじゃないですか?」
 …………。
 訊いた私が悪かったよ。

 
09

 それからまた数日後。近況報告。
 シャワーを浴びることが難しくなってきた。
 朝起きて顔を洗う。そんなルーチンをこなすことさえ必要以上に体力を消耗させられる――それで漸く気付いたのだが、私は身体を濡らす度、それだけで体力が削られているらしい。
 言わば、生命力まで溶け出している状態か。溶解が進んでいるとでもいうのだろうか。
 否応なしに、雨が降った日は否応なしに外出が出来なくなった。今朝のニュースで報道された例年より遅い梅雨明けを、素直に恨めしく思ったものだ。
 それから、阿良々木先輩を避けるようになった。
 先日、汗を掻いたグラスを持った時、指を溶かしてしまった現場を見られてしまったのだ。不要な心配をかけまいと、症状が悪化していることを黙っていたら、叱られてしまった。
 私の嘘は詰めが甘いらしい。
 以来、先輩には会っていない。
 あとは、なんだろう。
 母がくれたヒントから何か得るものがないかと、絵本を読み返してみたことくらいか。
 えっと、なんだっけ? 『白雪姫』と、『ハーメルンの笛吹き』と、『三匹のくま』と、『さるかに合戦』と――流石に、著者名や出版社名まで聞き出した訳ではなかったから、幼い私が読んだ本とは別の本を選んでいた可能性もあったが、そんな細かい違いは気にしなくとも良かろう。そんなやみくもに、しらみつぶしに事に当たれと教えたがる母でもないだろうし。
 結果、成果は出なかったのだから、同じことだ。
 ちょっと懐かしい気持ちになったくらいだった。
 それから――『人魚姫』か。
 そうだ。これは原作を読んでみた。
 地元の大型書店では生憎在庫がなくて、わざわざ取り寄せて貰ったのだった。
 短い話だから、目を通すのにさして時間は掛からなかったのだが――残念ながら、それらしい解決策を得るには至らず。
 母の教えを生かせない点においては、愚かな娘と言われても反論は出来ないのだが……こうも空振りが続くとなると、あの人はあの人でどうしてストレートな手掛かりをくれなかったのだ、と恨み言を言いたくもなる。
 しかし、プールに落下して以来、母の夢を見ることもないので、この文句は心中に留めておくのみになっていた。
「――『人魚姫』ねえ」
 不意に零れた呟きに頭を上げると、沼地が例の文庫本を開いていた。
 時間つぶしになのか、手慰みになのか、彼女も読んでみることにしたらしい。
 ……まあ、本の読み方は人それぞれだから、沼地が原作を一読することで、私には見えなかった何かに気付いてくれる、という可能性もなくはないだろう。
 そんな甘い期待をしてみる。藁にも縋る思いだ。
 溺れる者は藁をも掴む。
「……仮に、この人魚のお姫様をきみだと仮定するとさ」
 ページを静かに捲っていた手を止め、重々しく口を開く沼地。
「ならば神原選手にとっての王子様は、戦場ヶ原さんということになるのかな?」
「ぶっ」
 いきなり突飛な解釈を披露され、私は思わず吹き出してしまった。
 確かに自分では得られなかった見解ではあるが……私はそんな夢見がちな読み方を沼地に期待していたのではない。見当違いも良いところだ。
 なのに。
「だったら手っ取り早く、戦場ヶ原さんにキスでもして貰えば、元に戻れるんじゃない?」
「そ、そんなこと頼める訳ないだろう!?」
 怒鳴る私。
 悪ふざけだと分かっているのに――悪趣味な冗談を受け流せず、動揺をそのまま声にしてしまった。
 言って、流されると思っていたのか。沼地は、意外そうに眉を上げたが、それも妥当な反応だっただろう。思いの外強く出た否定の言葉に、私自身も驚いたのだから。
 なので、次に私が続けた言葉は、自分で自分を宥める為のものだったかもしれない。
「……そもそも、戦場ヶ原先輩は、私にキスするような人じゃないよ」
 私は戦場ヶ原先輩が好きだったが、戦場ヶ原先輩の好きな人は私ではない。
 あの人はきっと、自分の好きな人にしか唇を許さない。
 ……しかし、どうだろう。
 私が戦場ヶ原先輩を好きになった理由の一つに、あの人の心の奥底に秘めた情の深さというものがある。それは私達二人がヴァルハラコンビと呼ばれていた時代から、そう呼ぶ人が阿良々木先輩しかいなくなった今でも、私はずっと変わらず感じている。
 そして、今回ばかりは私も窮地に追い込まれていて。
 だから――どうか私を救う為、一度で良いからキスして欲しい、と懇願すれば――もしかすると、情けをかけてくれるのではないだろうか。
 ほんの一瞬でも、私のことを深く想ってくれるのではないだろうか。
 ……でも、だからこそ。
 断られるのが、怖い。
 いずれの仮定も、自分に都合の良い可能性を考えているだけに過ぎないと、分かっているのだ。私を救う為に――と、もっともらしく理由を付けてお願いした末に、断られたとしたら、きっと私は堪えられない。
 私の好きな先輩がそんな非情な人だとはちっとも思わないけれど、その僅かな可能性を想像するだけで、私は躊躇してしまう。
 一度知ってしまった痛みは怖い。
 否応なしに恐れてしまう。
 いつからこんなに臆病になってしまったのか、と自嘲的な気持ちを抱く半面、もうあの人から拒絶されたくないと願う気持ちも、確かな自分の本音なのだった。
 だから言い聞かせる。物分かりの良い振りをする。
 そんな可能性はないと。皆無だと。
 キスして貰えば解決するという話だって、全く根拠のない前提であり、所詮は希望的観測でしかないのだから。
「……そうやって言い訳しているけれど、つまりは逃げているだけだろう」
 逃げる為の言い訳だ、と沼地。
 流してしまえば良い筈なのに、彼女の緩慢な声の響きが、今日はやけに自分の胸に刺さった。
「真面目な話をすると――私とは未遂だったけどさ、ほら、きみときみの好きな先輩となら、可能性はあるかもしれないじゃないか。それこそおとぎ話みたいに」
「まさか」
 存外、沼地は沼地で、思いの外真剣に私の状況を案じてくれているのかもしれない。悪ふざけのような提案だったが、そこに悪意はなかったのかもしれない。
 気持ちを素直に受け取れない自分を恥じ入る一方で、相手に――沼地に対してどこか投げやりになってしまうことも今は隠せなかった。
「……嫌なんだよ。友達に嘘を吐き続けることも。先輩に心配をかけてしまうことも。後輩に流されるまま自己嫌悪することも」
 口から零れた本音は、想像以上に弱々しかった。不安で滲んだ自分の声は、そのまま消え入ってしまえば良いのに、とさえ思う程、情けない。しかし、何か感じるものがあったのか、沼地は。
「……そっか」
 と、分かりの良い返事をした。
「言っておくが、逃げることが悪いことだとは、私は思っていないよ」
 添えられた言葉は彼女の持論であり、本心であり、その裏で私に対する助け船にもなっていたんだろうけれど、それがかえって辛くて――
「じゃあ、代わりに私とちゅーしようか」
「は?」
 思わず相手の方を見る。
 沼地は己の唇に自分の指を押し付けて、不敵に笑っていた。聞き間違いであってくれ、と願わずにはいられないその発言は、どうやら本当に彼女の口から発されたものらしい。
「私のことを戦場ヶ原さんだと思って良いよ」
「なっ……!」
「私はきみにとって、友達でも、先輩でも、後輩でもないんだろうし」
「っ!」
 ふざけるな、と私が一発振りかぶるより、沼地が動く方が先だった。たじろぐ私のことなんてお構いなしに、距離を詰めて来る。
 反射的に身を引く――いや、考えるべきは、沼地が皮肉を言うこと自体は珍しくないが、そんな悪趣味な冗談を言うような奴じゃない、ということだ。
 近づいてくる視線から逃れるように、私は手を突っぱねて。
「お、おい、冗談も大概に――」
「冗談?」
 ぴたり、と彼女の歩みが止まる。
 それでも沼地の顔は既に私の目と鼻の先にあった。
「神原はさ、私が冗談でこんなことをしていると、本当に思っているのかな?」
 ……ああ、駄目だ。
 額に額を付けるような勢いで、私の瞳を覗き込んで来る沼地。
 ずっと、苦しくて目を逸らすことしか出来ないでいる。

『きみが大好きな先輩の名前を出せば、いい加減に目を向けてくれるんじゃないかと思っただけだよ。こうでもしないと、きみは私のことを見てくれないんだろう?』
 耳の奥に残る言葉を反芻する。
 逃げてきたというのに、沼地の台詞はしっかりと私の胸に残っていた。
 屋上に立つ。今度は一人きりで。
 何も考えずに走って来た筈なのに、衝動的に動いた私の足は、学校のプールサイドへと向かっていた。
 乱れた息と思考を落ち着けようと、はあ、と息を吐く。それでも冷静な頭になれそうにない。水面に映る私の顔は、自分の弱さを嘲笑っているかのように見えた。
 沼地の話を聞いて。その時、頭に思い浮かべた『もう一つの可能性』を、私は無視出来ない。
『人魚姫』。
 人間の王子に恋をした人魚姫は、自分の声と引き換えに足を手に入れて陸に上がった。だが、王子は人魚姫の想いに気付くことなく、別のお姫様と結ばれてしまう。悲しむ人魚姫の前に彼女の姉達が現れ、王子を殺せば人間に戻ることが出来る、と短刀を渡す。しかし、人魚姫は愛する人を殺すことが出来ず、海の泡になってしまう。
 この話をなぞらえて考えてみると。
 自分で例えるのもおこがましいし、非常に恐れ多い仮定だが――仮に私が人魚姫だとして、王子様が戦場ヶ原先輩だったとしよう。
 その場合、お姫様が人魚に戻る為のキーとなるのは。
 ……阿良々木先輩、じゃないのか?
 全ては仮説だ。
 それに、物語に沿って順当に役割を当てはめるとすれば、私が手を掛けようとするべき相手は、戦場ヶ原先輩の方だろう。
 しかし、私はかつて願ったことがあるのだ。
『阿良々木先輩なんていなくなってしまえ』と、あの人を心底憎んだことがあるのだ。
 未だに、あの想いが私の中でくすぶっているとは思えないが、決して無視することは出来ない前例だ。
 あの『猿の手』が私の手元からなくなった今、あの許されざる願いは完全に実現不可能となった筈。
 しかし、私はまだ悩んでいるとでも言うのだろうか。
 携帯電話のディスプレイに、阿良々木先輩からの受信メールを映し出す。この人は、どんな気持ちでこのメールを送ったんだろうと考えると、今は罪悪感しか浮かんでこない。
 ――どんな悩みも、いつかは時間が解決してくれる。
 ――しかし、時間が解決してくれない問題もある。
 彼女の持論は私を励ましもしたし、苛みもした。
「ねえ、神原選手」
 不意に名前を呼ばれて振り返ると、屋上と階段を結ぶ入り口に、沼地が立っていた。
 追いかけて来たのだろうか。
 学校まで逃げてくれば、直江津高校生じゃない沼地も追っては来ないと踏んでいたのだが、どうやら私の認識は甘かったらしい。
 彼女の姿を視界に捉えることが出来たのは一瞬で。逃げ出した後ろめたさから、すぐに私は顔を背けてしまった。やり場のない視線と行き場のない想いが、目前の水面に注がれる。
「……どうしてきみは、私と目を合わせてくれないのかな?」
 けれども沼地は、今度は逃してくれなかった。
 身が竦む。蛇に睨まれた蛙の如く脚が竦んで動けない。
 それはきっと、私は心の奥底で、彼女の指摘が正しいものであると認めているからだ。
 目線を合わさずとも、彼女の視線が私の顔に向けられていることが、気配だけで分かる。それでも私は目を逸らし続けた。
「そ、そんなこと――」
「今に限った話じゃない。『あの日』から――私達が悪魔を賭けて1on1をした日からだよね?」
「あ……」
 私の言葉を遮るようにして、沼地は前に出た。
 一歩ずつ、距離を詰めてくる。
 ゆっくりと。まるで『あの日』を思い返すように。
 足取りはやはり緩やかな彼女のそれで、再び逃げ出すことだって容易な筈――なのに、気圧されるまま、その場で後退する私。
 プールを背にしたまま一歩退いた場所には、踏み締める為の地面がなかった。
 足の裏が宙に浮く。その感覚を覚える間もなく、触れる水面。
 冷たい水の底に。
 ――あ。
 落下する。
 沼地に追い詰められて落下する――否、違う。
 私を追い詰めたのは、他ならぬ私自身なのだ。

 
10

 あの日、私は負けた。
 忘れもしない四月二十日。
 死出の旅路に就くには相応しい快晴の日だった。
 私達は勝負した。
 神原駿河は、詐欺師から譲り受けた悪魔の頭部を賭けて。沼地蠟花は、自分の趣味である不幸と悪魔の蒐集活動を賭けて。私達は一発勝負の1on1をしたのだ。
 彼女と正面から向き合って――――しかし。
 私の自慢のダンクシュートは、沼地の手によって止められた。
 ボールはリングをくぐらなかったのだ。
 もしもあの時、勝負に勝ったのが沼地ではなく私だったら、私達はまた違う結末を迎えていたのではないだろうか。
 実力不足を嘆いていても仕方がない。バスケの試合なんて『まぎれ』と『まぐれ』の連続だ。単に、私に運がなかっただけかもしれないし、はたまたその日、沼地の運が良かっただけかもしれない。
 勝敗について悔やむつもりは毛頭ない。
 ただ、あの日以来、私の心を悪戯に掻きむしるような現実は、あり過ぎる程そこにあって。
 私が沼地との距離を計りかねていることも。『もう二度と会うことはない』と言っていた沼地が、何故か私の部屋に居付いてしまったことも。身体を溶かした私に、沼地が異様に優しく気を遣ってくることも。まるで互いに負い目でも感じながら付き合っているかのような、この関係のことも。
 全てはあの1on1の勝敗がついてから始まったことなのだ。

 
11

「……ぶはあっ!」
 目覚めると同時に水を吐いた。
 呼吸器官に入っていたのか、喉と鼻の奥がツンと痛む。遅れて鼻腔を刺激する濃い塩素の匂い。
「ん……」
 瞼を持ち上げて、一番初めに視界に映ったのは沼地の顔だった。
 私以上に肩で息をしている沼地蠟花が、そこにいた。
 全身ずぶ濡れのジャージ姿で、私に覆い被さっていた。
 プールサイドで重なり合う私達。初夏の日に照らされて熱を持ったタイルが、私の背中を静かに焼こうとしている。
 沼地の下で――まるで相手に取り押さえられたかのような形で、やっと私は彼女と目が合った。
 水に濡れてくすんだ色になった茶髪。毛先から垂れた滴が、私の上へと落ちていく。きっと、その僅かな水の粒でさえ私の身は溶かされてしまう。
 しかし、それでも構わないと思ったのは、一体どうしてだろう。

 どうやら沼地に助けられたらしい。
 落下してからすぐ、彼女が私を水から引き上げてくれたのだろう。意識を完全に失わなかったのは、沼地の対応が早かったからだろうか。もし数秒でも遅れていたら、引き上げるべき身体が残っていなかった――なんて悲惨な結末もあり得ただろう。
「……きみ、もしかして馬鹿なんじゃないの?」
 漸く呼吸を落ち着けた沼地が第一声に選んだのは、そんな辛辣な言葉だった。妥当なところだろう。
 言い争っていた相手が目の前で足を踏み外し、プールに落ちたのだ。さぞかし滑稽な姿だったに違いない。
「なんだ、今更気付いたのか」
 馬鹿じゃなければ、悪魔のお前と1on1だなんて、あんな確実性のない大勝負になんて出られないだろう。
 しかし、憎まれ口を叩かれながらも、私はこいつに救われてばかりだ――と、そこでふと、思い至る。
 ……ああ、そうか。
 私はこういう時に、なんて言えば良いのか知っている。
 彼女に何を言いたかったのか、やっと思い出したのだった。
「なあ、沼地」
 私は言う。
 ずっと言えなかったことを。
 言葉にしなければ、伝わる筈がないじゃないか。どうしてそんな当たり前のことに、今まで気付かなかったのだろう。
 自分から相手と視線を合わせる。彼女の目を正面から見たのは、『あの日』――コートの中で向かいあった日以来だった。
 情動のままに言葉を紡いでしまうことを、恥じる必要なんてないんだ。
 心に満ちて溢れた気持ちを、そのまま声にするだけで良い。
「――私を、助けてくれて、ありがとう」
 そうだ、私は沼地に感謝したかった。
 お礼が言いたかったんだ。
 だけど、私が真っ当に感謝出来る程、沼地のやり方は素直なものじゃなかった。
 捻くれて、やさぐれて、精一杯悪ぶっていた沼地を前にして――感謝したかった私の想いは、かつて彼女に封殺された――否、そんなことは言い訳に過ぎない。どんな形であれ、彼女が私の悩みを取り除いてくれたことは事実なのだから。
 私は彼女を抱き締めた。
 私の左右で突っ張っていた腕の支えを失い、重力のまま降りて来る沼地。
 驚いたように目を見開く彼女に構うことなく、私は続ける。
 重く水を吸ったジャージの生地が、私の掌の中で重く軋む。強い力で握ったまま、それを離したくないと思った。
 だから、この気持ちははっきりさせておくべきだろう。

「私の左腕を奪ってくれて、ありがとう」

 一度口に出してしまえば、とても簡単なことだった。
 どうして早く認めてしまわなかったのかと、不思議に思うくらいに。
「……なんだよ、それ。良い話で締めたつもりかい?」
 文字通り身体を張った告白に、呆れた様な声を上げる沼地だったが、その顔は穏やかに笑っていた。
 私の好きな、可愛い女の子の笑顔だった。
 人に優しい人になりたかった。人を助けられる人になりたかった。人に優しくされたから。人に助けられたから。
 お前は否定するだろうが、私は、無私の行いで人を助けられるお前が、憧れだったんだ。自分を投げ打ってまで相手のことを思い遣れる、沼地蠟花のことが。
 自分でもやけにすっきりした顔をしていたと思う。この表現を選ぶことすら気恥ずかしいが――まさに心が洗われたかのような。
 相手への感情に名前を付けることで、私は私を取り戻した。
 そんな感覚さえあった。
「そういえば、神原選手」
「なんだよ」
「身体、溶けてないんじゃない?」
「え?」
 濡れたままの両手で、今度は自分の身体を抱き締めてみる。
 水に触れても溶けない。
 溶けて流されることのない心身。
 手も足も、髪も爪も、全てが私のものだった。

 
12

 後日談というか、今回のオチ。
 いや、オチに関しては、今回の私の『溶解問題』は原因がよく分からないまま発現し、そしてよく分からないままに解決してしまったので、これ以上語るべきことはない、というのが話の顛末なのだが、しかし残念ながら非常につまらないオチが待っていた。
 風邪を引いたのである。
 プールに落ちて、そのまま全身ずぶ濡れの濡れ鼠でいたのがまずかったらしく、その日の夜から私は熱を出した。
 青空の下、呑気に告白なんかしている場合ではなかった。早急に身体を拭いて温めるべきだった。あの時を境に、湯船にも問題なく入れるようになったのだから。
「まあ、それまで幾度も身体を濡らしてそのままだったのに風邪を引かなかったというのも、怪異現象の一つだったんじゃないの?」
 なんて、沼地は適当な見解を述べた。
 寝込む私の隣で携帯電話をいじりながら、こちらを見向きもしない。
 というか、お前だってずぶ濡れだっただろう。
 なんで一人だけピンピンしてるんだ。
「……私に構ってないで、いつものように不幸の蒐集にでも行けよ。近くでうだうだしていると風邪がうつるぞ」
「あれ? 神原選手に言ってなかったっけ? 『悪魔様』は今、休業してるんだよね」
「えっ? そうなのか?」
「うん」
 まるで何でもないことのように頷く沼地だが、意外や意外。だって、お前のそれは死んでからも尚執着していた悪趣味で――私が止めさせるのに腐心して、失敗した挙句、こうもあっさり休業となると、なんだか肩透かしを食らったような気分にもなる。
「まあ、元から自分のペースでやっていたってのもあるけれど、それらしい理由を強いて挙げるなら――存在意義を他に見つけたからかな」
「存在意義?」
「……あ」
「ん?」
 ふと、虚をつかれたような声を漏らし、沼地は顔を上げた。手元のスマートフォンから移った視線の先を、私も遅れて追いかけると。
 開いたままの襖の奥、廊下に立っていたのは。
「阿良々木先輩?」

「今度は風邪をひいたって? 大丈夫か?」
「ああ。大過ない。一日寝ていれば治るだろう」
「そっか」
 と、私の体温を、額を触って確認してから、阿良々木先輩は納得したように手を離した。
 どうして私の体調を把握しているのかと訊けば、おばあちゃんがメールで教えてくれた(阿良々木先輩とうちのおばあちゃんは私の知らないところでメールを送り合う程仲が良い)のだと言う。大方、最近暦くんの顔を見ていないことと、孫娘の部屋の散らかりぶりが限界値を迎えようとしていたことを見計らって、そんな一報が送られたのだろう。
 次いで、私の抱えていた『溶解問題』が解決したことを伝えると、阿良々木先輩は安堵の表情を見せながら、やっと笑ってくれたのだった。
 なんだか久しぶりにちゃんと顔を見た気がするなあ、と考えて、それは自分から先輩を避けていた所為だったと思い出す。身体を取り戻して本当に良かったなあ、と私が心から思ったのは、実はこのタイミングだったかもしれない。
 先輩と沼地が鉢合わせしてしまったのは、ちょっと良くなかったかもしれないが。
 あれから沼地は、無言で阿良々木先輩に軽く会釈だけ交わし、そして私を睨むように一瞥した後、さっさと部屋から出て行ったのだった。
 不注意を咎められるように、とん、と音を立てて襖がきちんと閉められてから。阿良々木先輩は、
「今のが、その……」
「ああ、うん。沼地蠟花だ。可愛いだろう?」
「あ、ああ……まあ、そうだな」
 退室した沼地の背を見送って、阿良々木先輩はどこか居心地の悪そうな面持ちで頷いたが、彼の突然の訪問を後で詰られることになるのは私の方だろうな、と自分の口からは苦笑が漏れた。
 痛め付けたような茶髪に、だるんだるんのジャージ姿の女の子。
 阿良々木先輩の周りにはいなかったタイプだろう。
 今や見慣れてしまったが、そういえば私も彼女の茶髪を初めて見た時は、そんな反応をしていたかもしれない。忘れかけていた気持ちを思い出しながら、たかが数ヶ月の筈なのに、私と沼地は随分と長い時間一緒にいるような気がしていたんだな、と想起するのだった。
「いくら可愛いからって、阿良々木ハーレムに勧誘しては駄目だぞ?」
「そんな組織は元から存在しない」
 いつも通り話に茶々を入れながら、阿良々木先輩にも沼地が見えるのだなあ、とぼんやりした頭で考えていた。
 いや、『今は』見えるようになったのかな? 
 不幸を集める怪異だった彼女の存在を、阿良々木先輩が視認出来るとは思えない。だから、彼女が語った『存在理由』とは、もしかすると、そういう話だったのかもしれない。
「それで、何の用だ? アポイントもなしに私を訪ねて来るとは、礼儀正しい阿良々木先輩にしては珍しいな」
「ああ。今日はちょっと、お願いがあって来たんだけど」
「お願い?」
 えーっと……と、先輩は気まずそうに首の後ろを掻きながら、やや躊躇の姿勢を見せた後。
「お前んちの風呂に入らせて貰えねーか?」
 なんて、不思議なことを懇願するのだった。
「なんだ? 阿良々木先輩、さては私の裸体が恋しくなたのか。しかし、今更になって私と風呂に入りたいと思うのは、流石に虫が良過ぎるのではないか? だからあの時、私の誘いに素直に応じておけば良かったのだ」
「違う。お前と一緒に風呂に入る日は一生来ない」
 と、思いの外強い意志を見せる阿良々木先輩。
 またもやきっぱりとお断りされてしまうと、こちらとしてもやや複雑な気持ちなのだが……。
「そうか……戦場ヶ原先輩なら、いつ一緒に風呂に入っても私の裸体を褒めてくれるのに、阿良々木先輩は私の裸には何の興味もないのだな……」
「僕の理性を過信し過ぎなんだよ、神原後輩は」
 私の分かりやすいボケにツッコミを入れる先輩。いつも通りと言えばいつも通りの遣り取りなのだが、今日はいつにも増して心地良かった。
 阿良々木先輩は変わらず、阿良々木先輩のままなのだなあ、と思うと、それはとても頼もしいことの様に感じられたのだった。
 今回の件に関してもそう。
 私の身体が溶けても。
 私が相手を避けても。
 この人だけは最後まで変わらないスタンスで接してくれていたことが、密かにありがたかった。
 ……うん。私を励ます為だったのか、メールの話題にことごとくエロ話を選んでいたことも含めて。
「戦場ヶ原と言えばさ――お前の問題も解決したんだし、そろそろ会いに行ってやれよ。あいつも寂しがってたぞ」
「うん」
 阿良々木先輩は気遣いの人だから、その台詞は何の気なしに場に出したように見せたかったのだろうけれど、きっと、今回の件も彼を通して戦場ヶ原先輩には筒抜けだったんだろうなあ、なんて気付く。しかし、この場は気付かなかった振りをして、私は素直に返事をしておくことにした。
 心から思う。私がこの人を尊敬している気持ちが嘘じゃなくて、本当に良かった。
 だから、
「えっと――なんというか、後始末みたいなものだよ。詳しいことは僕にも分かんねえから、説明が難しいんだけど……頼む。何も訊かずに、僕に風呂を貸してくれ」
 と、頭を下げた阿良々木先輩に。
「良いぞ」
 私は二つ返事で答えるのだった。
「ただし、条件がある」
 ……まあ、このくらいは甘えても良かろう。
「まず、私の部屋を片付けてくれ」
「そうくると思ったぜ」
 と、持参してきたらしいゴミ袋の束を掲げる先輩。
 まったく、用意の良い人だ。
「それから、もう一つ良いか?」
 ん? と眉を上げる彼に向かって、私ははっきりと、最後のお願いをした。
「私の髪を、切ってくれないかな?」
 この提案が衝動的なその場の思い付きだったのか、はたまた、ずっと無意識化に感じていた懸念が、抱えていた問題を解決したことによって浮き上がったきたのか、私にも分からなかったけれど。
 とにかく。
 それで漸く、私の物語にもけじめがつくんじゃないかと思うのだ。

 熱が下がってから髪にハサミを入れて貰うことを約束し、風呂場へ向かう阿良々木先輩を見送ってから、私はまた眠りにつくことにした。
 そうだ。後で扇くんにも、怪異現象の解決を連絡しておかなくては。もう少し元気が出てきたらラブコールならぬ電話で一報入れておこうか。
 あと、幸いなことに、日傘が海に行くと予定していた日にもまだ余裕がある。受験生だが、一日くらい羽目を外して遊ぶのも良いかもしれない。日傘は口を尖らせるかもしれないが、『やっぱり私もついて行くぞ!』と少しくらい我儘を言っても良いだろう。友達なんだし。
 夢うつつで布団の中、そんなことをつらつらと考えていた途中、沼地が隣に座った気配がしたが、さして気にはならなかった。
 ……不毛な趣味から身を引いている所為で退屈しているのだろうか。それとも先の鉢合わせの憂さ晴らしか。
 まあ、どちらでも良いだろう。
 戯れに唇に触れた感触を、私は素直に受け取った。

 
13

「さて、阿良々木くん。ここらでひとつ、解説といこうじゃないか。
「あ、この姿で会うのは初めてだから、私だと分かんなかったって? 悪いけど、色々と事情があってさ。訳あって中学生の女の子の見た目をしているけれど……ほら、中身は大体同じだから気にしないでくれ。きみと一緒に風呂に入った臥煙遠江だぜ?
「……ああ、きみがさっきすれ違った女の子とは別人だから、そこは安心してくれて良いよ。この蛇足的なイベントは、阿良々木ハーレムの通過儀礼でも何でもないからね。
「そうだね。まずはお礼を言うべきか。それとも謝罪をしておくべきかな。
「不肖な私の娘が、またきみに迷惑を掛けたと思う。
「悪かったね。駿河の為に色々と気を回してくれた様で――あ、うん。あいつを救うってえ名目で、きみが風呂場に飛び込んでいったことも、私はちゃあんと知っているよ。
「しかし、今回ばかりは駿河が自分でどうにかしなきゃいけなかったからさ。
「阿良々木くんは聞いているよな。多分、私の妹辺りが大きい面して語ったんじゃないかと思うんだが――私が作り出してしまった怪異の話は知っているよね。
「――そう。ご存知、『レイニー・デヴィル』だ。
「いや、この名前は私が付けたんだけどさ。
「昔々、私は私を戒める怪異現象に名前を付けて――『正体』を与えることで、退治した。
「恥ずかしい話さ――だが、きみも同じことをしたんだろう? 
「きみと、きみの友達の羽川翼さんかな?
「いやいや、知ってるとか知らないとか、そういうのはどーでもいいんだよ、阿良々木くん。
「知ってるというか、分かるというか。なんたって、私はきみ達の『前例』に当たる訳なんだし。
「その件に関しては、駿河は何にも知らないんだろうけれど――ま、あいつはあいつで影響を受けやすい性格だからね。無意識にでも、大好きな先輩の影響を受けたって、そうおかしな話ではないと思うよ?
「良い影響も。悪い影響も。
「いやいや、きみが落ち込む必要はないんだよ。
「子供は親の背中を見て育つというが――親がなくても子は育つ。憧れの先輩の背中は、あいつが勝手に見ていたに過ぎないのさ。
「きみだって意図して影響を与えた訳じゃないし、影響を受けた側も気付いてはいなかった。
「そう。無意識。
「ましてや駿河は臥煙の血を引いちゃってるからね。何も知らなくとも、化物の一つや二つくらいなら産み出してしまえるんだろう。
「その結果があれだ。
「駿河が水面に見た影――あれは駿河が自分で作り出したものだよ。
「ベースはなんだったんだろうね。私の読み聞かせた『人魚姫』だったのか、はたまたあの子の父親が語っていたロマンチックなお風呂の水の話か。それとも、その両方かな。我が娘ながら、妄想逞しく育ってしまったもんさ。色んな意味で。
「羽川翼さんが、己のストレスや嫉妬から怪異を生み出したように。
「阿良々木暦くんが、自己批判精神から怪異を生み出したように。
「神原駿河は、この女の子に対する羨望や憧憬の念から怪異を生み出した。
「言わば、自分で設けた告白までのタイムリミットだったんじゃねーの?
「はは、己自身を攻撃する怪異という点では、阿良々木くんとお揃いだね。やけに自罰的というか――いや、これは私に似てしまったのかな。血は争えない――なんて、ジョークにしては笑えないね。
「過去に『レイニー・デヴィル』の――私の分身の左腕を使って、自分の無意識を顕在化させたこともあるあいつのことだ。元々素質はあったんだろうよ。
「人の想い。
「執念。
「実らなかった気持ち。
「駿河本人も答えに近いところまで行ったんだが……まさか自分で作った怪異だとは思わなかったんだろう。だからそのまま秘密にしといてくれ。
「臥煙の血について知ったところで、良い影響があるとも思えねえし、うん。なんか適当に誤魔化しといてよ。
「さて、ここまで話せば、きみも先駆者として解決策も見当が付くだろう?
「そう。
「あれを退治するには――自分の気持ちに名前を付けて、片付けてしまえば良かったのさ。
「整理を付ける。
「それこそ、散らかったあいつの部屋の如く。
「私は自分で名付けた怪異を――『レイニー・デヴィル』を退治するという形で、私は自分の裏側と向き合うことになったのだけれど、今回の件で駿河も自分自身を見つめ直すことになったと思う。
「阿良々木くんがその助けになってくれたことは、母親として感謝しているよ。
「薬になれなきゃ毒になれ。でなきゃあんたはただの水だ――私の言った言葉の意味を、駿河は分かってくれたのかどうか。
「言葉にしなければ、伝わる筈がない、というのはあいつの得た答えだったけれど、それは一方で、私が得るべき教訓だったのかもしれないね。
「じゃあ、阿良々木くん。
「出来の悪い娘で申し訳ないけれど、後片付けは――もとい、部屋の片付けはよろしく頼むよ。

 

0

泡沫に泳ぐ魚

01

 沼地蠟花と私の関係を、私は上手に言い表せない。
 高校三年生の四月、およそ三年ぶりに再会した私と彼女は、友達と呼べる程穏やかな間柄ではないし、好敵手と呼ぶには時間が経ち過ぎていた。
 互いが互いのライバルだともてはやされていたのは、中学時代のコートの中での話であり、今や過去の話である――否、それでは聞こえが良過ぎるか。昔の思い出はとうに過ぎたものだからこそ、何か良い感じのニュアンスで思い出されるだけなのだろう。
 バスケットボールから離れた私は、かつてはライバルとすら呼ばれていた相手を忘れはしたが、沼地もまた、私を忘れていたに違いない。
 元来、私が持つ悪魔のパーツを狙って蒐集家として現れた沼地の目には、私は単なる蒐集対象としか映らなかったのかもしれないし。
 彼女から奪われたものは数知れない。
 私の個性。
 私の価値観。
 私の悩みごと。
 私の願いごと。
 そして――私の左腕。
 かつて私が己の身に宿した悪魔を、彼女は根こそぎ奪っていった。
 私は私の意地で、その奪われたものを賭けて、彼女と対決したこともあったけれど。
 あの日、沼地に引導を渡し切れなかった私の物語は、きっと様にならずに終わるだろう。

 
02

 朝日と一緒に起きるのが難しくなってきた。庭の桜の木の枝葉は日に日に青さを増す一方で、季節は初夏に差し掛かっているのだと感じさせられる。
 あの印象深かった新学期の出来事も、一日ずつ過去のことになっていくのだ。そろそろ左腕を隠さずに学校に行っても許されるんじゃないかな、と包帯の買い置きを止めたのは、つい先日の話である。
 伸びをして左手に当たるのは、脱皮の跡の様に残された衣服の束。脱ぎ散らかしたのは他でもない私だ。『そんなんだから神原の部屋は片付かねーんだよ』と阿良々木先輩が並べるお小言の意味が分かってきたのは、実は最近のことだ。
 それから、中途半端に重さの残ったペットボトル。これは私のものじゃない。少し迷ったが、寝起きでひりつく喉に耐えられそうにはなかった。
 ボトルの主が部屋の襖を開けたのは、丁度飲みかけのそれに口を付けたタイミングだったので、私は危うく口に含んだ水分を吹き出してしまうところだった。
「あ、おはよう」
 そんな私の動揺などつゆ知らず、彼女は――――沼地蠟花は呑気に朝の挨拶をした。
 返事はしない。代わりに、口に含んだ水を嚥下してから、私は彼女の横顔を盗み見る。
 水に濡れてくすんだ色になった茶髪。今にも滴が垂らしそうな毛先は、すぐに真っ白なバスタオルで包まれた。
「お風呂借りたよ」
「ん、……ああ」
 事後報告で済まされてしまうのは、正直不本意ではあるのだが、今更文句を言ったとてどうしようもないことくらいは私にも分かるので、口からは曖昧な返事しか出て来なかった。
 いや、事前許可制にしたところで私はきっと良い気持ちはしないのだろうが。
 おじいちゃんとおばあちゃんに見つからないように配慮しつつ、こいつをこっそりうちの風呂へ案内するのは、正直なところ、気が進まない。まるで相手が罪を犯すことを知りながら悪人の手引きをしているようで、どこか心がすっきりしないのだ。私は共犯者になりたくないのに。
 たかが風呂一つでそんなことを考えるくらいには、私は沼地との距離感を計りかねているのだろう。
 今だって、自分の布団の上で当然の様に全裸で寝ていた私を、彼女は一瞥しただけで、呆れられることも非難されることもなかった。
 ……これは良くないかもしれない。
 彼女がいる生活に慣れているのかもしれない。
「……私も入ろうかな」
 寝起きのテンションの所為か、どこかセンチメンタルに浸ろうとする感情を、熱いシャワーでさっと流してしまうのはアリかもしれない。
 一人、自分のやるべきことを確認するかのように呟いた私の言葉に、沼地もやはり、何の興味も示さないようだった。

 沼地蠟花が勝手に部屋に上がり込んでいる現状を、私はなんとなく受け入れている。
 私から左手を奪った彼女は、何故か私の部屋に居付いてしまった。
 同じ部屋で寝起きして、同じ風呂の湯に浸かり、同じ空気を吸う生活――流石に布団は同じとはいかないけれど。
 一体、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 想起すること、四月九日。
 新学期。私、神原駿河が三年生になった日。
 私達は再会した。
 いやはや、実にセンセーショナルな邂逅だった。三年ぶりに沼地蠟花は、その風貌からも、その性格からも、その人生観からも、私に少なからずショックを与えたものだった。
 彼女は不幸の蒐集と悪魔の蒐集、という悪趣味に興じる『悪魔様』として私の前に立ち、およそ一年余り私を悩ませていた悩みごとを――私が左手に宿らせていた悪魔を見事に奪っていったのだが――うん。その辺りの話はやや込み入っているので、ここでは割愛させて貰おう。
 まあ、色々あったのだ。
 何があれば、同い年の女の子と一つ屋根の下で暮らすことになるのか、私の方が知りたいくらいだが……。
『神原選手は良い顔しないだろうけどさ、もうちょっとこの街で、蒐集活動を続けてみたいんだよね』
 みたいなことを沼地は言った……のかな?
 良い顔をしないことを分かっておきながら、何も私の部屋に居座らなくとも良いのではないか、と思うことしきりだが。
 かと言って、強く問い詰めるのも難しい。
 私と彼女の関係は、触るとぷつん、と糸が切れ、そのまま見失ってしまいそうな危うさもある。
 私の家は広い方だと思うし、(ほんのちょっぴり散らかっている私の部屋に沼地が文句をつけることを除けば)別に、彼女一人が居候するくらいは構わない。
 構わないけれど、困ってはいる。
 悩んでいる。
 要は、私は相手との距離を計るのが苦手で、こと沼地に関しては、どうしても会話のイニシアティブを握られがちだから、どんな一面をもって接すれば良いのかが分からないのだ。
 どんなキャラを演じようと、彼女は私を空々しいと嗤うのだろうし。
 人間関係に名前が付いていれば、まだ分かりやすいのに。友達とか。先輩とか。後輩とか。沼地に関しては、そのどれに分類することも出来ないでいるのだ。
 なんて。
 そんな、もやもやした似たり寄ったりな下手な思い悩みも、熱い湯に浸かると解していくようだった。
 否、それは錯覚なのだろうけれど。
 目の前に丁度良い快楽があるから、それに甘んじて目を逸らし、問題を先延ばししているに過ぎない。そうしているうちに、問題は勝手に解決してしまう。どんな悩みも、いつかは時間が解決してくれる――というのは沼地の持論だ。
「…………」
 自問自答から逃れるように、首が完全に埋まるまで湯船に浸かった。
 熱い湯がすぐに頰を火照らせて、額に汗が浮いても構わず、ただひたすらに長湯をする。
 そうすれば、部屋に戻って顔が赤いと沼地に指摘されても、風呂にゆっくり入っていた所為だと言い訳が出来るだろう――と、言い訳染みた理由付けをしていた。
 その時。
 見慣れた筈の浴槽に。
 神原家自慢のお風呂の水面に。
 何か――影のようなものを見た。
 明らかに人の形ではないそれは、柔らかな尾を引くように、水の上を揺らめいて。
「ひっ!?」
 反射的に水面を叩いた。
 殴った、と言った方が正しい表現かもしれない。が、これは分かりやすい失敗だった。
 私の掌が与えた衝撃は、当たり前の様に水面を揺らす。なだらかな水鏡の表面が波面に変わったことで、像を映さなくなってしまったからだ。
 弾けるようにして湯船から這い上がってから、暫く。肩が冷えるくらいには時間を置いただろうか。
 漸く落ち着きを取り戻した私は、再び凪いだ風呂の水面を覗き込む。
「…………」
 しかし、そこには自分の顔しか写っていなかった。

「……なあ、沼地。うちの風呂場に何かおかしなところなかったか?」
 というか、何かおかしなこと、しなかったか?
 浴室から出てきて開口一番、バスタオルで頭を掻きながら、私は彼女に問うてみた。
「え?」
 しかし、沼地はらしからぬ顔できょとんと、何も知らないとばかりに首を傾げたものだから。
「いや、いい……なんでもない」
 私は言葉を濁す以外にすることがなかったのだった。
 否、彼女を問いただすより先に服を着るべきだったかと、部屋の姿見に映った裸の自分の間抜けさに、少しばかり反省はしたかもしれない。

 
03

「ふうん? おかしな影、なあ」
 その翌日。
 私の話に真剣な相槌を打っていたのは、やはり阿良々木先輩なのだった。
 やはりと言うか、なんというか、相談相手に彼を選んでしまう当たり、私はまだまだ未熟な身なのだなあと感じざるを得ない。高校を卒業してから顔を合わせる機会こそ減ってはいるものの、今日もこうして私の部屋を片付けに来てくれていることも含めて。
 ついでに触れておくと、沼地は外出中である。きっと今日も、悩める中高生の不幸を求め、どこかの町で絶賛蒐集活動中なのだろう。
 阿良々木先輩が来る日、沼地は決まって私の部屋から出ていくので、きっと意図的に顔を合わせないようにしているのだと思われる。
 だから阿良々木先輩は、私が旧知の女の子を部屋に置いている事実を知らないし、説明するのもなんだか厄介な気がして、黙っている。
 黙ってはいるのだけれど……はて。
 どうして、厄介だと思うのだろう。
 尊敬する先輩相手に隠し事をしているようで、少々心が痛い。それも私が彼女に対し、歯痒い思いを抱いている原因の一つだろうか。
 そもそも阿良々木先輩に沼地が見えるのかどうかさえも、私には分からない話なのだが……。
 それはさておき。
 閑話休題。
 私は簡単に、昨日風呂場で経験した出来事について阿良々木先輩に話したのだった。本日の彼の訪問は、あくまで私の部屋の清掃活動が目的であり、件の話は所謂雑談の類として持ち出したつもりだったのだが。
「まあ、気になるってなら調べてみようぜ」
 と、どんなに些細な話にもしっかりと耳を傾けてくれるのが阿良々木先輩だった。
「とは言っても、お前のうちの水道トラブルに対して、僕が出来ることってあんまりなさそうだけどな」
「いや。それはそれで『何もなかった』と改めて他人の口から言って貰えれば、私も安心出来ると思うし」
 それこそ水道トラブルだったとでも言って貰えれば、理由が付いたことで私は納得出来るだろうから。どこか茶目っ気ある表現を選んだのは、私を不安にさせない為だろう。だからこの先輩には頭が上がらないのだ。
 脱衣所と浴室を隔てる戸を開けて、二人で乾いた檜の床を踏む。そして浴槽を覗き込んではみたのだが。
 うーん……。
 なんというか。
 空っぽの風呂の底をただただ眺めているだけというのも、中々シュールな絵面だな、と鏡に映った阿良々木先輩と自分の姿を見て、その程度の感想しか浮かばない。
 さもありなん。
「……水面となると、やはり、お湯を張ってみた方が良いのだろうか?」

 思い立ったが吉日――ではないが、思い付いた案は実行するに限るだろうということで、その日、神原家の浴槽には早めに湯が張られることとなった。
 自慢の井戸水を沸かすのに一時間程掛けた後。
 沸きたての風呂の水面に先輩は顔を近付けて。
「んー……特に変わったところは見られないけれど」
「そうか? ついでに水面に私の顔が映っていたりはしないか?」
「ついでとばかりに、僕と将来結ばれたがらないでください。ちゃんと自分の顔が映ってるよ」
「それは残念だが、私の話はちゃんと覚えていてくれたようで嬉しいぞ」
 私も彼の肩越しに湯船を覗き込んでみたが、『将来結ばれる相手が映る』といういわく付きの水面には、私と阿良々木先輩の顔がそのまま並んでいるだけだった。
 阿良々木先輩の指先が湯の表面を突いてみても、波紋に合わせて二人分の像が震えるのみ。そこには不自然さも、運命の相手の顔も、不穏で怪しげな影も、何もない。
 目の前のそれは、ただの澄んだ水鏡でしかないようだった。
 それでも先輩は、それこそ穴が空きそうなくらい念入りに、うちの浴槽を暫く眺めてから。
「うーん……とりあえずは、気の所為だったってことで今回の話は終わりかな」
 と、そんな結論を出したようだった。
 妥当なところだろう。
「お前にとってはすっきりしないだろうけれど、現状、これ以上どうすることも出来ないしな……」
「いや、そんなことはないぞ。やはり人の口から否定して貰えた方が納得しやすい面もあるし。それに何より私は、阿良々木先輩の目を信じているからな」
 だからあなたの判断に従おう、と明るく笑って見せると、彼は居心地が悪そうに首の後ろを掻いた。
「まあ、でも、差し当たっての結論だから、もしまた何か変なことがあればちゃんと言えよ?」
「うん」
 しかし実際、阿良々木先輩の口で結論付けられてしまうと、その調査結果はすんなりと飲み込めてしまえるのだった。抱えていた煩慮の気持ちが簡単に解してしまう。我ながら現金なものだ。
「そうだ、阿良々木先輩。調査の為とはいえ、折角湯を張ったのだ。阿良々木先輩も入浴してから帰ったらどうだ?」
「え? いや、人の家の風呂をそう何度も使うのも心苦しいというか、なあ……」
「阿良々木先輩は謙虚な方だからな。遠慮されるとは思っていたが……しかし、そうも言っていられなくなったぞ」
「え?」
「おばあちゃんはもう、今晩先輩はうちで夕食を食べていくものだと思っているみたいだな」
「あー……」

 おばあちゃんの厚意に根負けした阿良々木先輩は、ついでに私の熱意にも折れてくれたようで、最終的には、お風呂そして夕食を頂いてからの帰宅を選んでくれた様だった。
 バスタオルを渡して脱衣所に押し込むと、やけに早く済ませて出てきたものだから(以前にも他人の家の風呂は落ち着かないと言っていたからそれが理由かな?)、阿良々木先輩に次いで、私も夕食前に入浴を済ませてしまうことにした。『ならば一緒に入っても良かったんじゃないか!』と一度息巻いたが、その案は先輩の方から辞されてしまった。
 あんなに丁寧にお断りしなくったって良いのに。というか、入っている最中だって、脱衣所に鍵なんて掛けなくても良いのに……信頼されていない様で、正直少しばかり寂しい。
 だからという訳ではないけれど、私は断固として鍵を掛けずに入った。とは言うものの、私は日頃脱衣所の戸まで開け放したまま入ることも少なくないので、これはいつも通りと言えよう。
 髪を洗う。身体を洗う。
 自慢の湯船にざぶりと浸かって、どのくらい経っていたのだろう。正確な時間は分からないけれど、『上がれば阿良々木先輩との夕食が待っている』と楽しい気持ちになっていた私がそこまでの長湯をしていたとも思えないのだが。
 ふと下を見れば。
 脚が。
 爪先が。踵が。足の甲が。踝が。脹脛が。脛が。膝が。太腿が。そして付け根に至るまでが。
 私を支え、己の唯一の誇りであり、自分の拠り所としている、当たり前のようにそこにある筈の脚が。
 溶けていた。
 ……いや、もう。
 いきなり突飛な表現を選んでしまうのはとても心苦しいのだが、本当に、自分の身体が水に『溶けていた』と言い表す他ない。
 身体そのものが融解していくのではなく、固体が液体に溶け出していくような感じ。
 それこそ塩が水に溶けていくかのように。
 ――あ、まずい。
 とりあえずお湯から上がらなくてはならないのだろうが、上がるための足がない――あ、あ――!
「阿良々木先輩っ!」
 状況を飲み込めないまま、気付けば半ば反射で叫んでいた。私の悲鳴というSOSコールはなんとか彼に届いたようで(うちの家の広さを考えるとちょっとした奇跡と言っても良いくらいだ)、浴室と脱衣所を隔てていた扉がガラリと開き、すぐに阿良々木先輩が飛び込んで来る。
 彼からすれば、私が風呂で倒れて助けを呼んだとでも思ったのかもしれない。しかし、一見すれば呑気に湯に浸かっているだけの私を見て、彼が湛えていた焦りが一度消える。まあ、事実はもっと切羽詰まっていたのだけど。大方、私がまだ『阿良々木先輩とお風呂に入りたい』と主張しているとでも思われた、というところか。
「大きな声がしたから何かと思えば……お前、風呂くらい一人で入れるだろ? 一度収めたネタを引っ張り続けるなんて、お前らしくないぞ」
「いや、後輩に対してそのように期待をかけてくれるのは嬉しいし、先輩と湯船を共にしたいという気持ちにも偽りはないのだが……いや、今はそれどころじゃなくて――」
 長い前口上が出てくる辺り、私も多少は混乱していたのだろうか。
 とにかく。
「今すぐ私を風呂から上げてくれ!」
 と、言い終える前に、私の並々ならぬ危機感は伝わったのか、途中で阿良々木先輩の表情が真剣なものに変わった。よってそれ以上の悪ふざけは続かず。
 文字通り足を失った私を、彼がすぐに浴槽から引き上げる。次に私の下半身を見咎めて――そして絶叫した。
「っ……うわあああああぁぁ!?」
 不思議なことに、他人が乱心している様を前にすると、存外自分の方は冷静になれてしまえるもので。
「阿良々木先輩、しー。おじいちゃんとおばあちゃんがびっくりするから」
 私は人差し指を自分の唇に当てた。
 図らずも、彼にお姫様抱っこをされながらの行為だった。
「お、おう……?」
 とりあえずは静かになって貰えたが、『そんなこと言ってる場合じゃないだろう』というツッコミは頂けなかったことから鑑みても、先輩はまだ混乱しているようだった。しかし、私にとって、一つ屋根の下で暮らしている祖父母に超常現象的なものを見られてしまうのは、何としても避けたい事態だったから。
 そして、唇から離した自分の指を見つめた後、気付く。
 脚だけではない。指先や、その関節――つまりは身体の至るところが水に溶け出していた名残があった。

 それから『阿良々木先輩がいきなりうちのお風呂場に飛び込んだ』という事実が私のおばあちゃんに伝わったタイミングでやや一悶着あったのだが、ひとまずは『孫娘が風呂でのぼせたところを先輩がいち早く駆けつけて、救出してくれた』という体で収めることに成功した。
 この言い訳は大したもので、『のぼせた私を介抱する』という体で、必然的に夕食の時間も後に延ばされることとなった。下半身が溶けた状態で食卓に着く訳にはいかなかったので、これは本当に助かった。
 片付けて貰ったばかりの自室に横たわる。バスタオルに包まった私の隣に、阿良々木先輩も腰を下ろした。
 溶けたというものの、感覚的に変わった感じはしなかった。
 だから初めは普通に足を動かして座ろうとしたのだが、そこに動かすものがないことに気付いて、『あ、ないんだ』と認識する、といった具合で。だからこう、自分の中で今ひとつ危機感に欠けていることを自覚はしていた。
 今や懐かしき『猿の手』がくっついていた時の方が、まだ存在感があったくらいだ。
 とりあえず、水から離れれば進行は止まるらしい。その事実から鑑みるに、やはり『私が自ら溶解している』のではなく、『液体に触れることで、その水を溶媒として溶けている』という認識が正しいのではなかろうか。
 はたまた、さっきは塩が水に溶けていく様だと感じたが、水性のインクが水と混じり合っていく様な感じにも近い気がする。何分私の身体そのものは固体として形あるものなので、真っ先に浮かべたのは前者のイメージだった訳だけれど。
「ふむ。エロスを追求する妖精になりたいとは思っていたけども、まさか水の妖精みたいなことになるとはな。つまりは水溶性の神原駿河か……」
「そこはかとなくファンシーなことを言ってる場合か? 上手いことも言えてないし」
 今度はきちんとツッコミを頂けたので、阿良々木先輩もある程度は落ち着いてくれたのだと思う。おどける私を嗜めるような、少し柔らかな口調だったが。
 しかし実際、溶けた身体を見ると、足首から先なんかは酷いもので殆ど残っていない。
 でも。
 少しずつだけど、回復してはいる、のかな?
 あまり湯に浸けていなかった手の指先なんかは見た感じ、もう元の通りみたいだし。
「痛いか?」
「いや、痛みは全くない。寧ろその所為で気付くのが遅れたくらいだ」
「そうか……」
 それでも不安そうな面持ちで、阿良々木先輩も私の掌を触診し、次いで私の足があったであろう場所を眺め。
「うーん……」
 と、少し熟考するような素振りを見せた。
「身体が水に溶けたっていうのは分かりやすく非日常的な超常現象だから、何らかの怪異現象であることは確かなんだろうけれど」
「まあ、そうなんだろうなあ……」
 怪異。
 怪しくて異なる、現象。
 私もそれなりだが、私以上に怪異に関わってきたこの人が言うのだから、きっとそうなのだろうなあ。
「それ以外で今、分かることと言えば――僕は問題なく風呂に入れていたから、風呂そのものより神原の方に原因があるって感じなことくらいか。お前を引き上げる時に湯に触っても、なんともなかったし……それも推論の域を出ないけど……」
 言いながら、阿良々木先輩は漸く形になってきた私の足首を触る。おっかなびっくりの手つきだったので、踝を撫でる指の腹の感触が、少しくすぐったい。しかし、それはつまり失くした足の触覚を取り戻しつつあるということなので、素直に安心の気持ちも覚えるのだった。
「しかし、昨日の話を聞いてから、これだからな。やっぱり神原が水面で見た影とやらが、直接の原因と考える方が自然なんだろうな」
「んー……、やはりそうなるか」
 しかし、私をお湯から引き上げてから再度、阿良々木先輩は風呂場を確認しにいったらしいが、やはり変化は見られなかったらしい。
「どうせなら、服だけ都合よく溶ける怪異とかだったら面白かったのに……」
「そんな状況を面白がれるのはお前くらいだ。まったく……思っていたよりは落ち込んでなさそうで安心したよ」
「ん? 阿良々木先輩は私の身を案じてくれているのか?」
「当たり前だろ」
 思いの外真剣な調子で頭を撫でられてしまったので、私はほんのちょっぴり面はゆい気持ちになった。
 湿ったままの私の髪をかき分けて、阿良々木先輩の掌が額を触る。抑制していた心細さが滲んだのは、きっとそのタイミングだっただろう。
「……心配をかけてしまってすまないな」
「気にすんなよ。今に始まったことでもねーだろ? 原因については、夜を待ってから忍にも聞いてみるし。まあ、その……あんまり気を落とすなよ」
「わかった」
 私の気休めのような謝罪に、阿良々木先輩からもまた気休めのような慰めを頂いてしまったが、ここは互いの為に笑っておくことにしよう。
 それに、考察を進めているうちに、なんとか溶けた身体は全て元通りになりそうな気配だった。
 心の底から安堵する。と共に、そこで余裕が出てきたのか、心配そうに私の下半身を見つめ続けている先輩の真剣な視線に気付く。
 そういえば、風呂から上がってそのままだったので、無論その場所には何も身に着けていない。
「……阿良々木先輩」
「ん?」
「その、あまりまじまじ見られると、恥ずかしいのだが……場所が場所だし」
「あっ、いや、ごめん」
 言ったが早く、下半身に集中して注がれていた視線がぱっと離れた。
「そろそろ服を着たいから、何か取ってくれるかな」
「お、おう」
「あ、下着は取ってくれなくても構わない。そこは阿良々木先輩の好みに合わせたい」
「僕にそんな趣味はない」
 冷静なツッコミを入れながら、阿良々木先輩は私の部屋の衣類入れ(私の部屋には服を入れる収納という概念が無かったので、これは本日の清掃活動で先輩が用意してくれたものだ)に向かう。
 見繕って貰った下着に、元の形に戻ったばかりの足を通しながら。
「あ、そうだ。阿良々木先輩」
「ん?」
「少し申し上げにくいのだが……このことは、戦場ヶ原先輩には秘密にしておいて貰えるかな?」
 余計な心配をかけたくはないから――と、言っても、阿良々木先輩には現時点でかなり頼ってしまっているので今更かもしれないが。
 そんな私に、彼は少し訝しむような、はたまた憂心を抱くような表情が浮かべたが、すぐに。
「……ああ、わかった。でも、何かあったらちゃんと言えよ? 戦場ヶ原でも、僕にでも良いから」
「うん」
 そして、延ばされた夕ごはんを頂きに居間へ向かう頃にはもう、溶けた私は何事もなくいつも通りの私に戻っていたのだった。

 
04

「おはようございます、駿河先輩」
 と、扇くんが朝早く(午前五時台という恐ろしく早い時間帯だったが、しかし私が毎朝十キロ×2のジョギングを日課としていることを、彼は知っているらしかったので、ギリギリ良識的な時間といえよう)に訪ねて来たのは、阿良々木先輩に裸を見られたその翌日のことである。
 起き抜けの、寝癖が付いた髪で彼の前に立ったのは、先輩(しかも異性の)として情けない姿だったと承知の上ではあるのだが、朝一番にきみの顔を見ようとする気になっただけでもありがたいと思って欲しい。
「えー? 冷たいですねえ。後輩をそんなにラフな格好で出迎えておいて、あなたも完全にウェルカムの姿勢に見えますよ? 成程、今日の下着は薄浅葱色ですか」
「適当なことを言うんじゃないよ」
 着ているのはランニングウェアだ。確かに身体のラインが出る服ではあるが、決してラフな格好ではない。しかし下着の色は何故か当たりだったので、後でこっそり違うものに替えておくことにしよう。
 心の中だけで嘆息しつつ、私はスニーカーを履こうとしていた手を止める。我が家の玄関先で鉢合わせてしまった手前、後輩を置いて走りに行くのもなんだか気持ちが良くないので、今日のジョギングは見送ることになりそうだった。
「さて、それで『駿河先輩の溶解問題』についてなんですけども」
「その言い方は何か引っかかるな……自分が妖怪か何かのように言われているようで」
 昨夜は自分で妖精と称した辺りも、そんな表現をされては今になって恥ずかしくなってくる。
「いや……その件に関してはもう阿良々木先輩が調べてくれるって言っていたし……」
「おやおや? 先輩の身を案じてわざわざ駆けつけてきた後輩の厚意に対し、情に厚い駿河先輩らしくない発言ですねえ?」
「うっ……」
 そんな風に言われてしまうと、まるで自分の方が非情な奴の様に思えてくるのだが。
 そもそも、きみに人を慕う情とかあるのか?
「酷いことを仰いますね。これでも僕なりに奇策を練ってきたんですよ」
 奇策?
 あからさまに眉を顰めたであろう私。自分を慮ってくれた相手に対し、この反応は良くなかったかもしれないが、扇くんは気分を害した様にも見えなかった。
「というか、きみはその話をどこから聞いてきたんだ?」
「阿良々木先輩から聞きました」
 ん……?
 どこからしくなさを感じる。
 あの人に限って、身近な人が直面している危機的状況について、そう易々と第三者に話したりするかな?
「それもそうですね。じゃあ、えっと……――いやだなあ、駿河先輩の方から僕に声を掛けてきたんじゃないですか。『ちょっと困っているから相談に乗ってくれないか』って」
「ん? そんなこと言ったっけ?」
「言いました言いました。昨晩の、おやすみ前の日課である僕へのラブコールで仰ってました」
「いつ言ったかは覚えていないが、そんな電話は絶対にかけていないことは分かる」
「まあ良いじゃないですか、もう駆け付けてしまった訳ですし。大事なのは不肖の身であれど、駿河先輩の後輩である僕が、ピンチに窮するあなたを助けに来た、という事実です」
 緩く口角を持ち上げながら甘言を吐く後輩。
 彼の発言を正面から受け取るのは些か危険であると、私は経験から知っている。しかし、『助けに来た』と言うのなら、ここで無情に追い返すのも悪いような気もしてしまうのだった。
「じゃあなんだっけ。とりあえず、きみの奇策とやらを聞かせて貰おうか」
 立ち話も何だし、幸い部屋は片付いているから上がって貰って――
 と、言おうとして振り向いた瞬間。
 扇くんが私の右肩に噛み付いた。
「……っ!?」
 いきなり突飛な展開過ぎて、私もすぐには理解が追いつかなかったが、言葉の通り。
 音もなく飛び付いて来た忍野扇が、神原駿河の肩口に食らい付いている。
「いっ……たいっ!!」
 痛い、痛い、マジで痛い!
 皮膚の上を走る激痛、歯列が肌に沈む感覚。
 中々に波乱万丈の人生を送ってきたんじゃないかと自負する私だが、流石に人間に噛み付かれた経験はなかったので、これ以上なく驚いた。否、経験があったとしても驚いただろうけれど。そもそも経験せずに人生を終えたかったけれど。
 私の腕にがっぷり組み付いた――もとい食い付いた扇くんを、それこそ突き飛ばすかのような勢いで引き剥がして。
「なんだ奇策って! いきなり先輩に噛み付くことが、きみの考えた奇策なのか!?」
 だとしたらデンジャラス過ぎる。
 奇策じゃなくて奇行だ。
 ずきりと痛む右の肩を押さえながら後輩を一喝する。
 一方、私に手加減なしで突き飛ばされた扇くんは、どうやら怪我はしなかったらしく、ついでに私の叱責にもノーダメージのようだった。
「はっはー、ちょっと刺激的過ぎたというか、荒療治だったことは認めますが、何も殴ることはないじゃないですか」
 そしてこの後輩、この期に及んで遠慮というものを知らないのか、ずかずかと家に上がり込んでくる。何故か私の手を引いて。
「えっ、お、扇くん!?」
「じっとしててください」
 どこか強制力のある台詞に、私はそのまま右腕を引き摺られ――
「すぐに終わらせますから」
 そしてもっと恐ろしいことに、その腕を洗面台に突っ込まれた。
 なんて残酷なことをするんだ、この後輩!
 ざあっと大きな音を立てながら蛇口から流れる水が、私の肩から指先にかけて――右腕全体に勢い良く降りかかった。
 傷口に水がしみて、痛い、と思った矢先、それもすぐに感じなくなる。
 それは傷が塞がったからでも、痛みに慣れたからでもない。
 水に浸かった私の右腕が、扇くんの歯型ごと、根こそぎ流水に持っていかれた所為だった。

「では、腕が回復するまでの時間を解説に当てさせて頂きますね」
 私の腕を飛ばしてしまった報いを、残っていた左手で与えた後だというのに、扇くんは気にも留めず、冷静に語り始めた。いや……驚きのあまり合計二発も殴ってしまったことに関しては、私もちょっと悪かったとは思うけれど。それでも、事の重大性をもう少し気にして欲しいと願うのは、私の我儘だろうか。
「簡単に言えば、『駿河先輩の溶けた身体は、元の形で再生するのかどうか』を調べたかったんです」
「はあ……」
 真剣に話している口振りを見ると、どうもふざけている訳でもないらしい。まあ、彼ってふざけている時とふざけていない時の違いが分かりにくいのだけど。
「いや、話を聞いたなら知ってると思うけど、それはちゃんと回復するよ。脚だってこの通り、元通りになったんだし――」
「本当にそうだと言えますか?」
 強い口調で遮られた。細めた瞳から放たれる彼の真っ黒な眼光が、少し鋭くなったのが分かる。
「よくよく考えてみてください。駿河先輩が擦り傷を作ってかさぶたが出来た時、その下で形成されるのは新しい皮膚ではありませんか? トカゲが天敵から逃げる為に自分の尻尾を切った時、新しく生えてくる尻尾は元のものと全く一緒のものではありませんよね? それは果たして、本当に、元通りになったと言えるのでしょうか?」
「トカゲの自切と並べて語られるのはなんとなく嫌だけれど……確かに、どちらも新しいものが再生するという意味では、完全に元の通りとは言えないかもしれないな」
「でしょう? だから僕としては『駿河先輩の新しい腕には僕の歯型が残っているのか』を調べたかった訳ですよ。自切と同じ類のメカニズムであれば、あなたの新しい左腕に、痕は残っていない筈ですからね」
「意図は理解したが……」
 そういうことならきみが手ずから噛まずとも、他にも色々調べようがあっただろうに。
「キスマークの方がお好みでしたか?」
「全くお好みじゃない。それを聞くと、歯型の方がまだマシな気がしなくもないな……」
「でしょう? 僕なりに気を遣ったんですよ、これでも。なのに察しの悪い駿河先輩ときたら、僕の気持ちが全く汲み取れていないようで非常に残念です」
「残念がってないで、きみもちょっとは反省しろ」
 なんて会話をした十数分後。
 程なくして再生した私の腕を見れば、そこには痛々しい歯列の痕が、きっちりと残っていたのだった。
「ははあ。これは中々興味深い結果ですね」
 満足そうに傷口があった場所を覗き込む後輩。その顔が思いの外近くにあったので、私は逃げるように右腕を抱え込む。
 まだ良からぬことを企んでいるかもしれない。
 これ以上、被害を被って堪るものか。
「では続いて、『下半身だけを残して溶かした場合、駿河先輩は復活出来るのかどうか』でも調べてみましょうか」
「いやいや、ちょっと待て。いきなり危ない実験コーナーを始めようとするな。復活出来なかった時って、それ私が消滅しちゃってるだろ」
「どうなんでしょう? この場合『完全溶解』と『人間としての死』がイコールで結ばれているとも限りませんし。その辺りも含めて調査してみてはどうですか?」
「私も大概馬鹿だけれど、それは『どうですか?』って軽いノリで提案して良いものじゃないことくらいは分かるぞ。一歩間違えば自殺行為じゃないか!」
「でも、上半身を残して溶かした時は元に戻ったんですよね?」
「まあ、そうだけど」
 それは阿良々木先輩の前で実証済みである。
 昨日、腰から下が溶けてしまった私の身体は、時間を置いたらしっかりと元の形に戻ったのだ。自慢のプロポーションをそっくりそのまま取り戻せたのは、幸いだったと言うべきだろうか。
「どの程度の損失にまで耐えられるか、というのはかなり重要なポイントですよ」
 と、思いの外、真剣な面持ちで扇くんは言う。
「例えば、駿河先輩が左腕だけを残して全部溶けてしまったとしましょう」
「そんな恐ろしい仮定はしたくないし、実験は全面的に禁止だからな?」
「あくまでも例えですよ、例え。えっと――果たしてその時、左腕から駿河先輩は全身分復活するのか、というのは十分議論の対象になるかと」
「……ふむ」
「さっきの下半身の話にも言えるんですけどね。僕が付けた歯型まで駿河先輩が再生したところを見ると、肉体の再生に関して言えば、これは駿河先輩の意識的なものと関係しているのではないかと思うんですよね」
「ふーん……?」
 扇くんには悪いが、さっきから曖昧に相槌を打つくらいしか出来ない。それは彼も承知の様で。
「今ひとつ実感が湧かないあなたの為に、ネタばらしをしましょうか。駿河先輩、僕があなたに噛み付いたのと同時に、腕に落書きしたことって気付いてました?」
「えっ!?」
「駿河先輩の美味しそうな肌を噛むのと同時に、ちょっとばかしマーカーで印を付けさせて頂いたんですよ」
 言って、懐から油性マジックを取り出す扇くん。
「親愛を込めて『忍野扇』と書かせて頂きました」
「嘘を吐け。きみが私を噛んだのは一瞬なのに。そんな暇なかっただろう」
「まあ、名前を書いたのは嘘ですけれど、印を付けたのは本当です。で、油性ペンでマーカーしたのは二の腕辺りなんですが、そっちの跡は残ってますか?」
 言われて、私は自分の腕を確かめてみる。場所が場所なので、肌を摘んで腕周りを確かめるのにやや時間が掛かったが。
 残っていない。
 そこにあるのは何の痕跡もなく、ただの私の二の腕である。そのちょっと上――私の肩には歯型がきっちりと残っているのに。
「だから、これは憶測なんですけど、『再生はその部位を失う前の駿河先輩の意識に依存している』のではないでしょうか。言い換えれば、『意識していなかったものは再生されない』とか」
「ふむ」
 中々まともなことを言っているような気がする。
 これでは自分の持ち物に記名するかの様な気安さで、先輩にマジックペンを突き立てたことについて叱ることは出来なさそうだ。意図を聞いてみれば、私の意識を外す為、あえていきなり歯を立てることを選んだとも言えるのだろうし……言えるよね?
「書いたのは確かなんだよな? きみが嘘を吐いているという可能性を、私はどうしたって否定しきれないのだが」
「酷いですねえ、もう少し、この可愛い後輩を信用してくださいよ」
 頬を膨らませて拗ねる様な仕草を見せる扇くん。これまでの外れた言動と行動さえなければ、この子も素直に可愛い後輩と思えるのかもしれないが……うん、現状では無理そうだ。
 あ、そういえば。と頭を上げた本人も、これ以上可愛い子ぶるつもりはないらしく。
「話は変わりますが、駿河先輩、朝ごはんはもう食べました?」
「いや、まだだけど……」
 私はジョギング後に朝食をとることにしているのだが、今日に限ってはその前に扇くんと顔を合わせていたから、走ることも食べることも中途半端のままだった。
 指摘されることで意識に上ったのか、自分の胃が控えめに空腹を訴え始める。
「折角だし、扇くんも一緒に食べるか? 私が言うのもなんだが、我が家の朝ごはんはかなり美味いぞ?」
 自分で用意している訳でもないのに無責任な提案をする私。しかし、昨夜、阿良々木先輩を食卓に上げたのも突発的な流れだった筈だ。扇くんをおばあちゃんに紹介しなければならないのは多少頭が痛くなるが……まあ、朝ごはん一人分くらい増えたところでどうにかなるだろう。
「他でもない駿河先輩からのお誘いですし、神原家のダイニングでご相伴に与ることになるのも悪くはないんですが……いえね、もう一つ懸念がありまして」
「なんだ? 私はこれ以上何を心配しなきゃならないんだ?」
 より正確に心配事を言うなら『きみが何をしでかすのか』なのだが。そんな私の憂いはつゆ知らず。
 まあ、質問から察しがついている通り『食事』に関する話なのですが――なんて、扇くんは前置きして。
「駿河先輩の身体が、液体の『水』のみならず『水分』に反応するとなると、非常にまずいことになるかと思いまして」
「ん? ……『水』と『水分』って違うのか?」
 なんだか小学生の理科の勉強みたいな話になってきたが、意外とその頃学習した知識ってもはや常識に近いところもあるからか、改めて問われてみると定義が難しかったりするんだよな……。
「理数系が苦手な駿河先輩もご存知かとは思いますが、人間の約六十五パーセントは水分です。なので水を摂らなくては文字通り、生きていけません」
「まあ、そうだな」
「なので、駿河先輩が水を飲んだら内臓から溶けていく、なんてことになったら大変です。生命活動に支障をきたすどころじゃありません。内側から溶けてなくなってしまいます」
 なんて、扇くんは物騒な物言いをしたが、それは存外的確な指摘だっただろう。
「そして、さっきの僕の仮説が正しかったとするならば、溶かした五臓六腑を復元出来るとも限りません。内臓なんて、普通に生活する分には意識していないものですからね」
 言われて、ひゅっと、空いていた筈のお腹が縮こまるような気配がした。どうしてこうも次から次へと恐ろしい可能性を提示出来るんだろう、この子は。
「飲料に限りませんよ? 食品にだって多かれ少なかれ、水分が含まれていないものの方が珍しいですし」
「え、えっと、それは大丈夫だと思う」
 多分。
「い、いや……内臓が溶けているかどうかなんて、どうやっても確かめようがないから分からないけれど。少なくとも昨日から普通に食事はしているし、水も気にせず飲んでいた」
 それがまずかったのだとしたら、迂闊な自分は扇くんに責められて然るべきだろうが。しかし、
「ならば大丈夫そうですね。『個体が液体に溶け出すようだった』という駿河先輩の認識は恐らく正しいのでしょう。多量の水というか、ここは『水溜まりに弱い』とでも言いましょうか」
 彼は私の軽率な行動を気にした様子もなく、そんな風にあっけらかんと結論をまとめたのだった。
 私の旺盛な食欲は見事に失せてしまったけれど。
「水だって所謂分子の集合体なので、どこから水溜まりというのか今ひとつ基準が曖昧で、すっきりしませんがね。流水にだって溶けてしまいましたし。シャワーを長時間浴びるのも、あまり良くないのかもしれませんね」
 流水に溶かしたのは他ならぬきみの所為だがな。と、文句を言いたい気持ちはあったけれど、いい加減根に持つ先輩だと思われても面白くないので、ここは口を閉ざしておくことにしよう。
「溶けている間は、失った箇所の感覚はないんですか?」
「んー……傷の痛みとか、そういうはっきりしたものの有無を見ると、感覚も一緒に失ってるような気もするな。しかし、不思議と自分の身体のパーツがなくなった、という感じはしないんだよな……」
 流されてからこっち、いじらしく再生し続けている自分の腕を見る。今も、右手の指先を動かそうとすれば動かせそうな気はするけど、肝心の指がない、という印象だ。
 内臓の有無なんて、尚更分からない。
 しかし、お腹が空いて胃が鳴ったということは、あるんじゃないかな?
 多分、ある。
「……でも」
 身体が溶け始めてから、阿良々木先輩には絶叫され、扇くんには色々遊ばれて――もとい、思案されているけれど。
「そんなに大変なことかな? 要は水辺に気を付けていれば、そうそう身体を溶かすこともないだろう? 仮に溶けても時間を置けば、一応は元の形に戻ることだし。ひとまず日常生活は問題なく送っていけそうだぞ……きみのような子がいきなり水を浴びせてこない限りは」
「大変ですよ。由々しき事態です。本当に『意識していなかったものは再生されない』説が正しかったとしたら、いつ元に戻れなくなるとも限りませんしね。どこからが自分で、どこからが自分じゃないのか。自我の境界があやふやであるということは、とても危険ですよ」
 なんて、私の嫌味を華麗にスルーして、やけに哲学的なことを言う扇くん。しかしそれは私にとって、当たらずといえども遠からずなアドバイスである気もした。
 私は他人から影響を受けやすいところがある、と自覚してはいるのだ。一応。
 自我の境界。
 どこからが自分で、どこからが自分じゃないのか。
 人の意見に流されやすく、簡単に感情移入してしまいがちな私の性格を、扇くんは見抜いているのだろう。
 しかし、およそ一年の間左腕を隠し通してきた私のことだ。異常な状況に対して耐性が付いてしまっているのかもしれないが、正直な話、自分の置かれた立場についての危うさには、今ひとつピンと来ていない。
「んー、まあ、ちょっと難儀なのはお風呂とかかな。それこそシャワーを騙し騙し浴びるくらいならなんとかなりそうだが、湯船にゆっくり浸かるのは避けた方が良さそうだし」
「うーん、そういうことを心配してるんじゃないんですけどね……僕で良ければ、介助者として付き添いますが」
「きみじゃ良くないからお願いしないよ」
 きみ、男の子だろう。
 さらっと混浴を提案しないで。
「それから、今回の件も内輪の話に留めておく方が無難でしょうね。駿河先輩は水に触れない、なんて知れたらあなたの一ファンである僕同様、きっと学校のお友達も心配しますよ」
「それは……うん。なんとかばれないようにするよ。嘘を吐くのは得意だし」
「褒められる特技じゃありませんね。使えるスキルではありますが」
 辛口の評価を下しながら、私の部屋を一瞥する扇くん。
 彼の視線が止まった先。寝床の近くに転がっていた包帯の束と、置きっぱなしの松葉杖を目敏く見咎めて。
「それに――今や一緒に暮らしている沼地さんだって、例外ではないでしょう?」
「いや、あいつは……そこまで他人のことを気にするような奴じゃないし」
 他人というか、私というか。
 実際、『ふうん? それは大変だね』の一言で片付けられて、それで終わりだった。
 原因が分からない以上、その先はどうしようもないから、ともとれる反応だが、『悪魔様』が欲する悩みごとの相談は、話の経緯や経歴を重要視する傾向があるから、何の前触れもなく起きた私のそれは、彼女の興味の対象外なのだろう、きっと。
 そうでなくとも、彼女は怪異を知ってはいるが、専門家ではないし。寧ろ、行き遭った怪異の数だけ見れば、私より素人に近い。あまり突っ込んだことは聞かれなかった。
 およそ二年前、私が戦場ヶ原先輩の『病気』について知った時、変に『なんとかしよう』として失敗した私とは違って、沼地は冷静だった。
 それはそれで、ありがたいことなのかもしれない。少なくとも、下手に気を遣われるよりはよっぽど気が楽だ。
「でも、お友達なんですよね?」
「沼地は友達じゃないよ」
「……そうですか」
 その辺り、僕のような奴にはちょっと分からない話なんですよねえ、と扇くんは不思議そうにぼやいたが、それは相応な意見だろう。
 だって、私だって分からなくて、悩んでいるのだから。
 そして結局、その日は扇くんに付き合わされ、私は右腕のみならず上半身と左半身を溶かすことになったのだが、いずれもちゃんと元には戻れたということを報告しておこう。

 
05

「神原選手、肩」
「あ」
 相手の視線に合わせて自分の左肩を見ると、雨に打たれた私の肉は静かに水と化していた。
 これ以上滴が身体に跳ねないように、傘を差す角度を改める。まったく、自覚症状がないというのは厄介なものだ。
 濡れた制服の生地の下。溶かしてしまった左肩に衣服が不自然に張り付いているが……まあ、大丈夫だろう。この雨の中、相手の傘の中まで覗き込んでくる人もそういるまい。
 隣を歩いているこいつを除いて。
「この時期に雨具を忘れる方がおかしいんだって。今朝も天気予報で言ってたぜ? 午後から降るから傘を持って出るようにって」
「それでも走って帰るから問題ないと思ったのだが……」
 それも、体調の変化が――怪異現象が起こる前の話か。
「折角迎えに来たのに、随分な態度だね」
「頼んだ覚えはない」
「この雨じゃあ、どうせ一人で帰れなかっただろう。私が来なかったらどうするつもりだったんだよ」
「う……」
 分かりやすく言葉を詰まらせた私だったが、それ以上沼地から詰られることもなかった。
 気持ちに合わせて視線を下げると、相手の傘の下では、松葉杖をつくのに合わせて濡れた地面が波紋を描いている。
 ……雨、か。
 なんだか昔から、私と相性が悪い相手である。
 三年通って見慣れた通学路も、濡れた景観ではどこか重苦しいものに感じられてしまうのは、気の持ちように過ぎないだろうか。
 溶けた肩を隠して歩くには、雨傘は心許ない防御壁なのだと知ることになった。

 阿良々木先輩と調査をしてから十日。
 扇くんと実験をしてから九日。
 それから先は特に大きな変化はなく、日々は平穏に過ぎていった。
 時たま、今みたいにうっかり指先を溶かしたり、知らぬ間に足先を溶かしたり、と言うようなことはあったけれど。一応は、人間としての形は保ったまま過ごしていた。
 液体を避け続ける生活も、慣れてしまえば問題ない。
 慣れさえすれば。
 異常も日常、異常こそ日常。
 如何に非現実的で悲劇的な状況に置かれようと、人間、案外生きていけるものなのだ。
 生きていける筈だ。
 生きていかねばならない。
 問題を強いて挙げるとすれば、毎日の様に阿良々木先輩から届くメールの、現象解明の成果が上がらない旨とそれ故の彼の落ち込みぶりが伺える文面に対し、慰めやら励ましやらの言葉を選ぶのが大変なことと、
「濡れた手できみのおっぱいを触ったらどうなるんだろうねえ」
「洒落にならないから止めろ」
 こういう具合に、私をからかうような沼地の発言を、扱いあぐねていることぐらいか。
 前科一犯。
 胸のサイズには困っていないから、勘弁して欲しい。
 近づいて来た嫌味ったらしい笑顔に、分かりやすく煙たがってみせると、彼女は特に未練もなさそうに退くのだった。
「それで、何を思い悩んでいたのかな?」
「え」
 開いた私と沼地との間、前触れなく投げられた質問に、思わず歩みを止めてしまった。それがいけなかった。
 分かりやすい反応を返すことはすなわち、彼女の指摘が正しいものだったと認めてしまうことになったからだ。
 やっぱりね、と沼地が目を細める。
「肩をそんなに濡らすくらいだ。考えごとでもしていたんだろう?」
「私がものを考え込むようなタイプに見えるか?」
「以前の私なら否定してあげたかもしれないけれど……そうだな。どちらかと言えば、きみは気持ちを溜め込むタイプだろうね」
「…………」
 彼女の観察眼は侮れない。
 それは互いがコートの中にいた時から経験則で知っている。
「はは、これでもカウンセラーの真似事をしていたからね――完全に独学だけれど。悩んでる人間が、どんな顔をしているかくらいなら知っているよ? 今のきみが浮かべている表情は、典型的なそれだ」
 ゆったりとした口調で自分の論を語られてしまうと、まるで沼地の言うことが真であるような――自分の気持ちを言い当てられたかのような気持ちになってしまうのは、流されやすい私の悪い癖だろう。
 所詮、雰囲気に飲まれているに過ぎないのに。
「身体が溶けてもめげないきみが、そう落ち込むとは珍しい」
「別に、落ち込んでなんか……」
「ないって、言える?」
「…………」
 押し切られた私は沈黙に逃げたが、私のリアクションは『悪魔様』が自分の見立てを確信するに十分だったらしい。
 相手の不幸話の尻尾を掴んだ彼女は、頬が緩むのを抑えきれない様だった。
「さて、受験生の神原駿河さんは、どんな悩みごとを抱えているのかな?」

 今年の夏こそ海に行こう、と誘って来たのは日傘の方だった。
「受験生なのにか?」
「受験生だからこそよ。一日くらい息抜きしないとね」
 と、日傘は自分の机にスケジュール帳を広げた。一緒に海に行くクラスメイトの名前を、指折り数えて列挙しながら。
「ほら、るがーは去年、行かなかったじゃない? 折角左手も治ったんだし」
「ああ、……そうだったな」
 実は、私は去年も彼女の誘いを断っていた。一年前の夏――その頃の私の左腕にはまだ猿の手がくっついていて、水着になる訳にいかなかったから、という理由で。
 だから、折角声を掛けてくれた日傘の気持ちを続けて無下にするようで、少し心苦しい気持ちはある。
 しかし、私は今回も、その誘いを断らなければならなかった。またしても、本当の事情を伏せたまま。
 まさか『海に入ったら身体が溶けてしまうから』なんて言える訳もない。怪異絡みの理由だから、何も知らない日傘に正直に話す訳にはいかないだろう、と自分を宥めてはみたのだが、こちらを慮って提案してくれたであろう友達の気持ちを思うと、自分の胸は痛むのだった。
「そっか。用事があるんだったら、仕方ないね」
 と、彼女の掌の中で、ぱたん、と手帳が畳まれる。その音がやや物悲しく聞こえるのは、自分が抱える後ろめたい気持ちの所為か。
 嘘を吐くことに罪悪感は覚えない。
 ただ、ちょっと贅沢な悩みを吐露すれば、目の前の友達が笑って許してくれることが、今は少しつらいかな。
 日傘は日傘で、そんな私を見て、何か思うところがあったらしく。
「もう、るがーってば……なーんか最近、付き合い悪くない?」
「すまん。また――」
 来年誘ってくれ、と言いかけて、それはもう訪れない機会なのだと思い直す。
 私達は受験生。すなわち、高校三年生。
 高校生活最後の夏、私はもう日傘と海に行くことはないだろう。

「やれ、神原選手もえらく寂しい立場になったじゃないか」
 と、語り終えた話に対し、そんな感想をこぼす沼地。
 他人事だと思って随分と冷嘲的な言葉を選んでくれるな、と私が嫌な気持ちになったのは確実だったが、しかし、下手な同情や慰めを貰うよりは、かえって良かったのかもしれない。
 寧ろ責めて欲しかったくらいだ。
 友達を思いやれない私を責めてくれれば良かった。
 沼地も。そして日傘も。
「そう気にすることもないんじゃない? 奇々怪々な現実だって、存外受け入れて貰えるかもしれないぜ? 友達なんだし」
「……友達だからこそ、だよ」
 友達だからこそ、言いたくない。
 特に日傘は怪異関係者じゃない。
 怪異に関われば、怪異にひかれやすくなる。
 それは私自身にも、そして沼地にも言えることなのだが。
 私の左腕にくっついていた猿の悪魔は、今や沼地の手中にある。全身のあちこちに悪魔を宿している彼女だが、元々は故障した左足の代わりを得たことが、悪魔の蒐集という悪趣味を始める引き金となった筈だ。
 初めのきっかけこそ私にないが、悪魔の左足と、悪魔の左手が私達を引き合わせたことは、その法則を裏付けする事実だろう。
 後ろ向きで――後ろ暗い事実だ。
 だから私は、同い年の女の子にしては起伏に富んだ人生を歩んでいるであろう沼地から、そんな浅薄な言葉をかけて欲しい訳ではなかった。
 やっぱり言うべきじゃなかった、と後悔しても、今更だった。
 沼地の――ひいては『悪魔様』の言葉はその場限りの気休めだと分かっていながら、不思議と口を軽くしてしまうのはどうしてなのだろう。
「じゃあ、私のことは?」
「え?」
「神原選手は、私のことはどう思っているのかな?」
 相手の意図を読み取れず、間抜けな声を漏らした私に、同じ質問を繰り返す沼地。
 話の流れで場に出たに過ぎない、何のことはない問い掛けの筈なのに、私の心臓はどきり、と跳ねた。
 深紅の傘の下、鋭さを増した沼地の眼光が露わになる。
 私の不幸話を聞きながら浮かべていたおいしそうな表情は、もうどこにも残っていない。
「きみの身に起こった怪異現象を、私は当然のように教えて貰った訳だけど、それは一体どうしてなのか。そういうことを私は訊いているんだよ」
「どうしてって、それは――」
 今更気を遣うような間柄ではないから。
 怪異の存在を知っているから。
 お前は友達じゃあないから。
 と、真っ先に浮かんだ冷たい言い訳の数々は、私の口から出かかったものの、最後まで喉を通り抜けることはしなかった。
 沼地蠟花は友達じゃない。
 扇くんに言ったその言葉は、真実である。
 しかし、友達じゃなければ一体、何だと言うのだろう。
 分かりやすく言葉を詰まらせた私は、相手に訝し気な顔をさせてしまうだけだった。
 そんな私を見兼ねてなのか、沼地は自分の傘を閉じて、私の隣に立つ。
 小柄な彼女一人が入っただけで、私の差していた防御壁は狭くなる。柄から落ちた雨垂れが、私の頬を濡らした。
 狭い雨傘の中に、逃げ場はない。
「ん……」
 これは春先から分かっていたことなのだが、神原駿河を困らせると、沼地蠟花の心は慰められるらしい。
 なんて悪趣味なのだろう。
 そして最近分かったことは、彼女は私を困らせる為の方法を熟知しているということだ。
 まるで、敵に弱点を握られているかのような感覚――それがとても悔しくて歯がゆい。
「終わってから嫌な顔をするくらいなら、始めから逃げれば良かったのに」
「…………」
「嘘だよ。からかっただけだって。きみが私のことを快く思っていないことも、私はちゃんと分かっているさ」
 と、一度だけ触れた感触に、沼地は自嘲的な感想を述べたが、私は何も言えなかった。
 場に持ち出された誤魔化しの方法が、いやに優しくて、ただ泣きたくなっただけだった。
 ……そういえば、泣いたらどうなるのかな。
 私の涙は、私の頬を溶かしてしまうのだろうか。
 手の甲で乱暴に口元を拭う。懸念も感傷もまとめて。
 沼地蠟花は友達じゃない――ましてや、気軽にキスを交わして良い間柄でもない。
 だけど。
 私と沼地の関係がなんでもないものだとしたら、今しがた捧げられたファーストキスは、何の意味もないものになるのだろうか。

 

0

祈る

02

 沼地と墓参りに行くのは決まって夏だった。しかし、彼女の命日が暑い日だったのかと言えば、別段そんなことはないらしく、彼女の訃報が新聞の隅に小さく載ったのはもっと、暑くも寒くもない、印象に残らない日だったのだという。雨が降っていたのかさえ覚えていない――というのを、私は人づてというか、本人づてに聞いた。
「最初は死んだことにも気付かなかったしね。どうして気付いたのかと言えば、それも大きな切っ掛けがあった訳じゃあないから、面白い話は出来そうにないな」
 と、彼女は言うし、その通りだとも思う。
 私と沼地の間にあるのは、愉快な時間ではないのだ。

 墓地からの帰り道、土砂降りに遭った。
 快晴だった筈の空模様は、いつの間にか入道雲が大きく膨らんで、いきなり泣き出したかのように雨粒が落ちてきた。
 閉まったシャッターが目立つ商店街のアーケードの下で雨宿りをしながら、
「……これじゃあ墓石を洗った意味がなかったな」
 と、沼地がぼやいたのには少し笑ってしまったが。この分だと用意した花も散ってしまうかもな、と私も午前中に費やした時間の殆どを甲斐なく思った。暗くなった空の下で深呼吸をすると、湿った空気が肺を満たす。濡れた制服のスカートを絞ると、指の隙間から水滴が落ちた。
 沈黙を薄めるかのように、水滴が地面を叩いている。思いの外雨脚が激しい。
「……お盆」
「ん?」
 前触れのない雨に閉じ込められたことを言い訳に、私は沼地に訊いてみたかったことを、この機会に訊いてみることにした。
「墓参りって、普通はお盆に合わせて行くもんじゃないのかな」
 もしくは春分の日とか秋分の日とか。所謂お彼岸の時期か。
 今日は七月の下旬。夏休みの一歩手前だ。
 地域差はあるとはいえ、この近隣のお盆期間は平均的な八月中旬の筈で、墓参りには時期尚早だ。毎年おばあちゃんが家で準備をするから、私でも覚えている。
 だから、どうしてなんでもない日に沼地が私を墓地へ誘うのか、実はずっと疑問だった。疑問に思いながら、毎年準備をしている私も私だが……。
「気にする?」
「少しな」
「まあ……ほら、冬だと寒いし」
 なんて、沼地は少し考え込むような素振りを見せながら、身の無い理由を挙げた。
「あとは、そうだな……オフシーズンに行った方が良いんだよ。人がいなくて空いているから」
「テーマパークみたいに言うな。墓地にアトラクションなんてないよ」
「肝試しなんかは、墓地でしか楽しめない娯楽のひとつだけどな」
「そんなものカウントするな。心霊体験ならお前で間に合ってるよ」
 そこで、ぴしゃん。と、雷が鳴った。
 だから私と沼地の会話はそこで途切れた。
 最後の一言は要らなかったかもしれないが、撤回するタイミングも逃してしまった。

 

1

祈る

01

「なんだかんだ言って、きみとコートの中に立っていた頃が、私にとって一番良い時代だったんじゃないか――なんてことを偶に考えるよ」
 と、その日の沼地はあまりに感傷的にぼやいたから、危うく私も「そうだな」と同意してしまうところだった。
 代わりに沈黙で返事をした。夏の陽は高く、幽霊が化けて出るのには相応しくない快晴の日だった。砂利道を蹴って歩く私の横で、沼地はえっちらおっちら松葉杖で地面を叩いているが――無論、その様も単なるパフォーマンスだということを私は既に知っている。いわんやその切なげな台詞においてをや。
「なんなら今からでもお前の墓参りに行くのは止めて、行き先を市民体育館に変えるのも吝かではないぞ」
「皮肉とはきみらしくないなあ。勿論、引退したバスケットプレイヤーとは言えど、その誘いを無下にする程野暮じゃあないけどさ。せめてこの花は供えてからにしようぜ」
 と、彼女は松葉杖を持っていない方の手で、持っていた仏花を振り上げた。白色の花弁が数枚落ちた。
 対して、私の手にあったスーパーのビニール袋は重くなったような気がする。中身はペットボトルのお茶と紙で包まれたお線香の束とブックマッチだ。これがネットに入れた新品のバスケットボールであれば私の気もちょっとは紛れたかもしれないが、人生思い通りには行かないものだ。
「そうかな? 終わった後だから気楽に言えるんだろうけれど、人生ってやつは存外思い通りに、自分の好きな通りに歩めるものだぜ?」
「それは本当に終わった後だから気楽に言えることだよ。というか、お前、それは好き好んで成仏してないってことか?」
「いやいや、違うよ。つまりは終わった後の方が上手く行かないってことさ」
 そう言って、彼女は気ままな笑顔を作った。
 はぐらかしてばかりだな、こいつは。

 沼地の墓はよく日の当たる場所にあった。なんだか似合わないと言うと失礼かもしれないけれど、私の知る彼女の印象と比べてみても、目の前の墓石は嘘っぽくてどこか現実感に欠ける光景だった。無論、それは自分の墓石を自分で拭いている彼女のあり様も含めての感想だが。
 花を生け、マッチを擦って線香に火を移し終えた頃には、私も首の後ろが汗で濡れていた。
 見れば、隣で静かに手を合わせている沼地も額に汗を描いていて、心成しか呼吸のペースもやや早い。そんな様を見ていると、こいつが本当は死んでいるなんて嘘で、質の悪い冗談で、季節外れのエイプリルフールか何かで、本来はそれこそ私とコートの中でだけ対面する関係が正だったんじゃないか、という気持ちが胸の内から沸き上がりもしたが――しかし、持って来たお茶を一口飲めばそんな浮ついた考えは、それこそ煙のように立ち消えてしまったのだった。
 線香が細く燃えている。煙の尾が静かに消えていく。
 どうして私の好敵手は死んでしまったんだろう。

 

0

 クリームソーダの美味しいお店がある、と神原選手に誘われたので、学校の帰り道、私は彼女にのこのことついて行った。いくら直江津高校が進学校とはいえ、寄り道のひとつもしないようでは女子高生として不健全というものだ。
「だけど、どうしてクリームソーダなんだよ。今のご時世ならタピって帰るのが一般的じゃない?」
「それは昨日、別の友達と行ったから良いんだよ」
 と、神原はこちらに目もくれず、つんとした表情で私の前を歩いている。
 この田舎町でどこにそんな店があるのか、不勉強な私は知らなかったけれど、対する神原駿河選手の交友関係の広さは流石と言おうか。私は未だ飲んだことのない流行りの味を想像しながら、彼女の背を追った。
 神原選手が足を止めたのは、煉瓦造りの年季の入った建物だった。カフェ、というより喫茶店という表現の方が似合う気がする。意味合いは同じなのだろうが、私達を出迎えた分厚い半透明な自動ドアを前にして、私はそんなことを思った。
 扉の前に立つ。隙間からエアコンの冷気がふんわりと漂って来て、するとやっと喉を潤したい気分になってきた。

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添い寝

 沼地蠟花と一緒に寝ていた頃の話だ。
 あいつは不躾で趣味の悪い悪戯が好きだったから、寝ている私の胸に自分の頭を乗せてくるような奴だった。頻繁に私のおっぱいを枕代わりにした。
 体躯だけ見れば私よりやや小柄な彼女のことだが、それでも人間の頭なのでそれなりに重くて息苦しいし、そして何より固くて痛いので、それをされる度に私は眠い目を擦りながら抗議する羽目になる。
「重い。退けろ」
「うん」
 端的な抗議には端的な受け流ししか返ってこなかった。
 というか、返事こそあれど無視と同義じゃないか。
 私の異議申し立てに対し、沼地は自分の頭どころか表情ひとつ動かさない。私からは顔が見えないので正確なところは分からないけれど、声のトーンがそんな感じだった。興味が沸かない時に出すときの相槌だ。
 頑張って首を持ち上げると、痛みが酷い茶髪の中につむじが見えた。それでもどんな面をしているかは分からなかったので、私は首の筋肉の酷使を止めた。
 仕方が無いので、胸元に乗った頭に手を置いてみる。痛みが酷い茶髪というのは実は柔らかく、私の手指にふんわりと絡むので、なんとなく、それになら免じられても良いかな、という気もしてくる。
「お前は見た目で損をしてるよな」
「よく言われるよ」
「かと言って、中身で得をしている訳でもないよな……なんなんだろうな?」
「流石に、そこまで酷いことは初めて言われた」
 酷いことかな、これ。
 私の両胸を平坦にせんとばかりに、お前が頭の角度を変えている現状に比べたら、私の話の意なんて些事に過ぎないと思うのだが。止めろ、乗せても良いけど極力動かすな。胸が潰れる。
「また大きくすれば良いじゃないか」
「うるさいよ」
 お前の方が色々と酷いこと言ってるじゃないか。
 かように文句は散々言っていたが。でも、
「私はお前の頭を胸に乗せるの、結構嫌いじゃなかった」
 のだけれど、それはお前が居なくなったから持てる感傷なのだろうな、とも分かる。

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