贅とどん底

 およそ三ヶ月振りに拝んだ沼地の面は、記憶の中のいけ好かない表情と大して変わりはなかった。
「どうせ、暇しているんじゃないかと思って」
 なんて具合に、顔を近付けてこちらを覗き込みながらやけに嫌味ったらしく笑った顔(ひょっとしたらただの主観だったかもしれないけれど)すらもいつも通りで、しかし、現在の私が置かれた状況にそぐわない訳ではないのが、より癇に障る。
 時は三月の半ば。春休み。春分の日である。学生の身分では、数ある国民の祝日のひとつでしかないかもしれないが、ここでは状況説明の為に、より今日という日付に迫ってみるとしよう。要するにお彼岸である。牡丹の花が咲く季節。一般的にはお墓参りをするのが望ましいとされており、私のおじいちゃんとおばあちゃんもその例に漏れず、数日前から本家に逗留している――その為、私はこの広い日本家屋に一人でいた。私もこの家に引き取られてもうすぐ十年程になるが、ただの一度も神原の本家に行くことは望まれたことがない為、この時期になると気忙しい祖父母とは違って気楽な身分である。今日、うち、親いないんだ。という素敵な挨拶を耳元で囁ける機会(良い機会だけど、またとない機会ではない。実は年に何度かそんなタイミングがある)だと言うのに、そんな殺し文句を使えた試しは一度もなく……なので、沼地の言い草を認めるのはつまらないけれど、身体が空いているのは事実だった。
 街を離れていた沼地が帰ってきたのはそんな折りだった。無論、長年温めておいたとっておきの殺し文句を、ここで使う気にはなれない。またぞろ彼女は『悪魔様』として荒稼ぎしてきたのだろうし。どこか顔がほころんでいる。趣味の悪い愉悦が見え隠れしている。
「それこそきみの主観じゃないの? だからさあ、『悪魔様』は稼げないんだよ。無料相談所なんだって。毎回律儀に訂正しなくちゃならない私の身にもなってくれよ……まあ、それはどうでも良いか。ねえ、神原選手。家にひとりっきりで、どうせ暇しているんだろう? 私が帰って来るまで、大学生の春休みという人生の中でも最も時間を持て余しそうな余暇の中で、何をするでもなくダラダラと過ごしていたんだろう?」
「いや、忙しい。楽しみにしていたボーイズ・ラブ小説の新刊が」
「それを消費している時間を、ダラダラしているって言うんだろ」
「楽しみにしていた新刊なんだぞ。ファンと作家さんに謝れ」
「はいはい。悪かったよ……で、まあ前振りはこんなもんで良いだろう? きみが乗り気じゃないのは、はなから予想が付いていたからね。それは私にとって大した問題じゃあないんだ」
 言って沼地は、文庫本に指を挟んでいた(楽しみにしていた新刊がちっとも進まない)私の手首をおもむろに掴んだ。
「なんだよ。金なら貸さないぞ」
「人聞きの悪い。私が今までに一度だって、きみに金の無心をしたことがあったかい?」
「ないけど……」
 まさか、言ってみたかっただけ、とは言いにくい。
 あと、嫌味たらしくも基本はゆったりとした振る舞いをする沼地が、こんな風に強引にことを進めてくるシチュエーションにあまり良い思い出がない為、話を逸らしたかったというバックグラウンドはあったかな。
 まあ、どちらの理由も開示出来る訳でもなく――ただ腕を掴まれていると、
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ。面白い場所を見付けたんだ」
 そうやって、私は沼地に連れられて、ひとりきりの日本家屋から外へ出ることになった。

 そんなこんなで、神原駿河は馴染みのないバスルームで、沼地蠟花の頭髪を洗っている訳だが――
「随分と大胆に事情を割愛するなあ。それはちょっと良くないぜ。好ましくない。私が何よりも過程を大事にする女だってことを、神原選手だって知らない訳じゃないだろう?」
「知っているからこそ、伏せたい。あまり振り返りたくない」
 私はなるべく素っ気ない調子を作って返事をした。白い泡に包まれた茶髪に指を通しながら。沼地の髪は毛染めの影響か、少し癖が目立つものの、元が軟らかい髪質なのか、あっという間にシャンプーが馴染んだ。この、どこのメーカーとも分からない、如何にも女性受けしそうな甘やかな香りのシャンプーが。
「こういうところのは、案外馴染みのあるブランドだったりするけどね」
「ふうん」
 さっきよりも簡素な返事になったのはわざとではなく、あんまり興味がないというか、実感のわかない話だったからだ。出掛ける前の自分ではないけれど、私はあまり自分の家以外で寝起きをしないというか、外の宿泊施設を使うことが少ないので――否、友人の家に泊まりに行ったり、バスケットボール部の合宿に行ったりはあったから、この申告だと嘘になるかな?
 より率直に言えば、私はホテルに泊まるという経験をあまりしたことがない。だから、浴室の広さがどうとか、置いているアメニティの種類がどうとか、猫足バスタブなんてBL小説の挿絵の中でしか見たことがなかったけれど実際に置いているんだ……とか、そういうあれこれを測れる気がしないのだ。
 沼地は測れるのかな? ……測れるんだろうなあ。何せ、日本全国を渡り歩いている『悪魔様』なんだから。ホテルなんて飽きる程泊まっているだろう。さっきのチェックインの手際の良さだって見事だったし。
 浴室の床を滑らせるような重めのため息を吐くと、ふと、前方の鏡越しに自分達と目が合った。とても綺麗に磨かれた鏡が、全裸の女二人を映し出している。急に、妙な背徳感があった。
「……おい。ちょっと下を向け」
「ん」
 次に出た私の声は少々上擦っていたようだったが、沼地は別になんの感慨も無さそうに、目を瞑ったまま首を曲げた。髪を掻き上げると相手のうなじが出てくる。そこにもちゃんと泡が馴染むように指を動かす。他にも、耳の後ろとか、もみあげとかも洗いながら、人の頭って結構小さいんだな……なんて思った。こればっかりは、ホテルに詳しい沼地だって持たない知見の筈だ。
「これが終わったら、きみの髪も洗ってあげようか」
「いいよ。自分でやる」
「どうして。絶対気持ち良いよ」
「お前は気持ち良いのか」
「うん」
 なんとなく意外だった。これはただの偏見だけど、沼地も美容院で人に頭を預けるような行為が、苦手なタイプかと思っていたから。今日のこれも、ちょっとした私への当て付けで始めた遊びみたいなものだと捉えないとやっていられなかったので、まあ素直な返事がやって来ると身構えてしまう。
「ん? 『私は』ってことは、何? 神原選手ってもしかして――」
 妙に感の良い沼地の指摘を遮るようにして、私は泡だらけの頭にシャワーを当てた。

「私は頭皮が性感帯なんだ」
 というかなり苦しい言い訳で難を逃れ、代償として沼地からの冷ややかな視線を浴びながら、私は浴槽に浸かっていた。沼地も向かいで窮屈そうに膝を抱えている。人間が二人同時に入った所為で水位を高くしたバスタブの湯が、私達を緩やかに温めていた。風呂の縁に首を預けると、視界の端に可愛らしい猫の足が覗いていた。
「面白い場所って、ここのことか?」
 私は訊く。その質問は今更だったし、それでもやや緊張があった。本当に訊きたかったのは「ここにはよく来るのか?」だったのかもしれないが、ここぞとばかりに私のチキンハートが邪魔をしてきた。
「うん。一度入ってみたかったんだよね」
 沼地は別になんとも無さそうに答えた。反面、私が含ませていた疑問を感じ取り、自ら解消してくれたような気配もあった。嬉しくない気遣いだ。
 私は水面を叩いて、それから自分の頬を触った。
「ただの興味でこんな場所に連れ込むのは不自然だ。お前、今回の旅程で何か思い出したのか?」
「さあね。神原選手はどう思う? ここに来たのは何かを思ってのことかもしれないし、はたまた、退屈そうなきみを気遣って外へ連れ出してやったという、そんな私の優しさの結果って線もあるとは思わないのかな?」
「思わない」
「じゃあ、身体が目当てだったとか、そういうことを思うのかな」
「そっちの方がまあ納得する」
 深いため息が湯の表面を揺らした。そのまま浸かっているとのぼせてきそうな気配があったので、私は膝をバスタブの外へと追い出した。自分の腹筋の谷が、水中の屈折率でやけに幼い見た目に見える。そのままぼんやりしていると、急に沼地が浴槽内の空いた場所――私の尻の下に自分の足を差し込んで来たから、素っ頓狂な声を上げてしまった。いきなり足の甲に臀部を撫でられたら、誰だって驚く。
「やめろ。狭い」
「仮に、ただ私が幸せに浸りたくてここを選んだ、とか言ってたら、きみはどうするんだよ」
「ドン引きする」
「嘘だね。きみはあんまりそういうことが得意じゃないだろう」
 と、沼地は言ったし、実際その通りかもしれないと思った。じゃあ本当ならどうするかな……と、彼女から視線を外して天を仰ぐ。ラブホテルの浴室の天井は、その豪奢な内装の中では割とシンプルなそれだった。満月のような黄色のLEDが、湯気の向こうで揺れている気がした。半身を出した私とは対照的に、沼地は湯船に身体を沈み込ませるように姿勢を動かして、ややぬるくなってきたお湯が贅沢に逃げていく。反作用で私の身体もふわりと浮かぶ。
「あー……風呂って良いな」
「あんな立派な風呂に毎日入っているきみにそう言って貰えると、私も報われるよ」
「お前は逐一嫌味を挟まないと喜べないのか」
 相手の方に向き直りながら眉を顰めると、沼地は丁度壁のリモコンで黄色の照明を薄暗い紫色に切り替えたところだった。バスルームが夜になる。依然としてちょこちょこと尻を突き続ける彼女に辟易し、「じゃあ上がってからな」と私は降参の気持ちを覚えながら、耳の後ろに濡れた髪を流した。

2

うちのナースはおさわり禁止2

04

 沼地蠟花のことを何も知らない。
 生まれも育ちも。将来の展望も。月に二度は私に会いに来て、安くはない酒と接客に金を落としていくけれど、その金はどこから回ってくるのかも。病院に人一倍苦手意識を持っている癖に、心理カウンセラーを志すようになった心境も――その病院嫌いの理由だって、全てを開示する義務などない筈なのに、沼地は私に話してくれた。しかし、それも私にとっては理解しかねるものだった訳で。
 とどのつまり、私は彼女のことを何も分かっていないのだろう。
 私だって、ただ黙って相手の隣に座っている訳ではない。実は喋り上手な彼女の言葉を――素直に受け取るには巧妙に混ぜられた皮肉をかわす必要があるし、毎度毒見でもするような心持ちにさせられる言葉の数々を――なるべく受け止めようとはしている。
 それでも私は、彼女について何も知らないと言えよう。相手の話を聞けないことは、少なからず自分が不道徳を働いているような気持ちも芽生えるが、しかし。
 時たま、何か些細な気まぐれがきっかけで、沼地の語る言葉にこちらが自ずから手を伸ばしたとしよう。すると途端に、彼女のとろいながらも過多な言葉の中からは、本質だけがするりと抜け落ちてしまうのだ。
 だから、私は彼女の言いたいことを、一つだって正しく拾えてはいないのかもしれない。
 でも、それでも良いと思う。その理由は、二つくらいある。
 一つ目は、語り手としての彼女はきっと、聞き手のクオリティまでは求めていないから。
 そしてもう一つの理由は――いつか彼女が言った通り、真実の開示の瞬間は、常に痛みと隣り合わせにあるからだ。

 沼地が借りている部屋の場所を知ってから、私の生活は大分楽になった。
 どれくらい楽になったかと言えば、今や客として店で会うより、プライベートで会うことの方が多くなったくらいだ。
 まず、そのアパートは職場に近く、大学から遠い。
 私のバイト代には送迎費なるものが付くのだけど、そもそもの稼ぎが(言い換えてしまえば成績が)芳しくないので――いや、同年代の中で見れば、額面は決して悪くない筈だ。稼ぎと共に消費も激しいから、と訂正しておこう。経済を豪快に回せるのは素晴らしいことだけれど、生活を成り立たせる為の支出を抑えられるのは、一大学生として喜ばしいことだった。
 加えて、学生としての顔がある以上、在籍している学校から離れた場所で活動出来ることは、私の心を少しばかり穏やかにさせた(つまるところ、私は身バレを恐れた結果、わざわざ自宅から遠い場所のバイト先を選んでいたので、週末に自宅に帰らないだけでも時間の余裕が出来た)。
 あと、これはここだけの話なのだが、私は彼女が使っている寝具が気に入っていた。
 セミダブルのベッド。
 知らない人にとってはそれがどうした、という話かもしれないが――いやいや、一人暮らしの学生にとっては、中々手が出し辛いものだとは思わないか?
 と、苦学生ぶってはみたものの――私の内面を知る人からすれば、家具の一つや二つ、ぽーんと買ってしまうような金銭感覚を有しているだろうと予測されるかもしれない(そして、その憶測は決して間違ってはいないとは思う)が、しかし現実はそうもいかない。
 ……私の部屋が、ベッドを運び込めるくらいに片付いていれば、良かったんだがなあ。わざわざ大型家具を運んできたというのに、業者さんが部屋に入った途端、さっと青ざめてしまったので、私も注文をキャンセルする他なかった。
 そんな失着エピソードはともかく(これを直接沼地に言えば、たちまち非難の視線を貰ってしまうだろう。だからここだけの話だ)。
 閑話休題。
 つまるところ、私は沼地の生活に甘えていた。
 だらだらに甘え切っていた。
 明け方、玄関のチャイムは鳴らさず、合鍵でドアを開ける。きついパンプスとストッキング、それからガーターを脱ぐ。ユニットバスの熱いシャワーでアルコールを抜く。濃い色のシーツに潜り込む。私が気に入っているセミダブルベッドは、成人女性二人くらいなら難なく横になれる。その日あしらった客の顔は上手に思い出せないけれど、週明けに提出を求められているレポートのことは憂鬱に思いながら、瞼を重くする。
 そんな甘やかな生活は快適だった。部屋の主から通い妻だと揶揄されること以外は。
 勿論、世話になっている以上、それくらいの軽口は目を瞑ろう。

 その日は手紙が届いていた。
 郵便受けの中身を覗くのは私の仕事ではないのだが、しかし、今日に限っては私がその役を仰せつかった。
「ぁ、痛っ」
 もとい、玄関先に置きっぱなしだった郵便物を、気付かずに踏んでしまったのである。
 磨かれたフローリングと紙の間の摩擦係数は小さく(ストッキングを穿いていたことも敗因かもしれない)、私はその場にすってんころりんと尻もちをついた。否、すってんころりんなんて可愛らしいオノマトペで表現したのは主観に過ぎなくて、実際はどったんばったんと近所迷惑な音を立てていたようだ。
 その証拠に、部屋の奥から沼地がのそのそと起き出してきた。
 寝ていたのだろう。後頭部にゆるく寝癖がついている。そんな顔を見せられると、人が通りそうな道に郵便物を放置した無精を責める為の憤りは、みるみるうちにしぼんでしまうのだった。
 足元に転がっていたそれを素直に手渡す。その大きな封筒は、私が足蹴にした所為か(わざとじゃない)、角がよれてしまっていた。
「何だ、その物々しい郵便物は」
「受験の手引きだよ」
「受験? 何のだ?」
「公認心理士の資格」
 コウニンシンリシノシカク。
「ほら。これでも一応、カウンセラー志望だから」
 という沼地の言葉に、やっと私の頭でも理解が追い付いてくる。
 えっ!? お前、資格の勉強なんかしてたのか!?
 いつの間に、そんな堅実なことを。
「てっきり、女遊びだけで食っていく気なのかと思っていたのに……」
「きみの中の私のイメージに何か思わなくはないけれど、現実にそんな生き方が出来ていたら苦労してないよ」
 と、沼地は眉間に皺を寄せた。
 そうだな。
 努力をしている相手に失礼な発言だった。
 お前が勉強をしている様なんて、私には逆立ちしたって想像がつかないけれど。しかし、沼地も見えないところで努力はしているということか。取得を目指しているというカウンセラーの資格がどんなものなのかは、分野に明るくないので分からないが……少なくとも、ヒモになるような努力をするよりは断然良い。
 しかし仮にそうだったとしたら、私みたいな奴が真っ先に食わせる側に回るんだろうなあ……。
 なんて、つまらない想像をしながら、シャワーを浴びに行こうと立ち上がったところで。
 ふと、郵便受けの下に、『何か』を見つけた。
 おっと、危ない。如何せん公認心理士のインパクトが大きかった所為で、見落とすところだった――と、冗談めいたことを考えられたのは、それを玄関先で拾い上げるところまでだった。
 その『何か』も封筒だった。
 先の受験票に比べれば、幾分かサイズが小さい。
 どこにでも売っているような、簡素な茶封筒。
 ただし、宛名も差出人の名前も見当たらなかった。それだけでもかなり怪しい。
 不自然さに後押しされ、蛍光灯に透かして見る。が、中は空っぽではないことくらいしか分からない。
「…………」
 少々躊躇はしたものの、私は中身を検めることにした。不用心極まりないことに、封はされていなかったから。
 ほら、危険物とか、怪文書とかが入っていたら不味いじゃないか。不気味で怖いじゃないか。
 中をそっと覗き込む。今思えば、そっちの方が対処は簡単だったかもしれない。
 怪しげな封筒の中には――一万円札が数枚入っていた。
 紛うことなき、日本銀行券である。一番高価な金額の。しかも、不自然に厚みがあった。
「他人の郵便物を勝手に見るなんて、趣味が悪いぜ」
「!」
 いきなり声をかけられた。
 思わず茶封筒を取り落としそうになって、そっちの方の手を上にあげてしまい、対象を相手から遠ざけるような形になってしまった。そんな暴挙に出た私を、沼地はじとりと睨んだが、それ以上追っては来なかった。
 彼女の冷たい視線が語る。
 この封筒の中身について。触らない方が賢明だ、と私の本能も警鐘を鳴らした。
 それ以上を聞けば、きっと、この甘やかな生活は瓦解する。
 しかし、私は避けることを――問題を先送りにすることを良しと出来なかった。
「これは、何だ」
 出来る限りの力で、感情を押さえ付けながら問うた。
 自分でも吃驚するほど、静かな声だった。
「さあね? 通り掛かりの優しい人が入れてくれたんじゃない?」
 はぐらかされた。しかも、やる気のないはぐらかし方だった。それが分からない程、私は馬鹿じゃない。
 面白くない気持ちそのままに相手をきつく睨んだが、動じなかった。
 彼女はきっと、私から追及させることを諦めている。
 重くわざとらしいため息が、私達の間に落とされて。
「……一ヶ月につき、五万円かな」
 先に沈黙を破ったのは沼地の方だった。
「だから、料金形態にもよるけれど、最低でも月に二度は会いに行ける。きみが聞きたいのって、要はそういう話だろう?」
 確かに、私から訊いた話だった。
 でも、聞きたかった訳ではなかった。
「私もアルバイトをしていてね。雇い主、もしくはクライアントとでも言えば良いのかな。その封筒は、そいつが郵便受けに入れたものだよ」
「…………」
 元から不可解な点はたくさんあった。
 彼女の賃貸ワンルームに通うようになって、生活水準のズレに気付くべきだったのだ。定職を持たない沼地の支出入は、とてもじゃないが、ナースキャバに通える羽振りの良さではない、ということに。
 しかし、私はそれらの不自然性を見ない振りをしてきた。
 見たくなかったのかもしれない。
「一ヶ月に二回、会いに行きさえすれば良かった。お店に行って金を落とす。きみがナースのコスプレで働いているのを確認する。それが仕事で求められた最低限のノルマだった。クライアントへの委細の報告は義務じゃなかったからね」
「……その、クライアントとやらの名前は」
「本当は言わない方が良いんだろうけれど、きみにも予想がついているだろうから」
 と、煩わしい前置きで予防線を張りながら、彼女は教えてくれた。
 貝木泥舟。
 聞いたことがある名前だった。
「つまり、お前はそいつの要望に従って、今まで私を指名していたってことか」
 なんて、私は不毛なことを聞いた。
「まあ、そうなるね。わざわざ訂正を挟むほど間違ってはいないな」
 だから不毛な答えしか返って来なかった。

「目的? いや、そういうのは知らないよ。私もきみと同じで、ただのバイトに過ぎないから。奴にどんな高尚な目的があろうと、下卑た思惑があろうと、私の及ぶところじゃないからさ。私は振られた役割に従って動いていたまでだ。
「知っての通り、私も心理士を目指していて――まあ、それなりに金もかかるし、時間もかかる。
「そうだな。まずは私がカウンセラーを志し始めた辺りから、話を進めようか。
「実はね。
「かつては私も、バスケットボール選手になりたかったんだ。
「神原選手も考えたことがあるだろう? 優秀なバスケットボール選手なら、一度くらいは思ったことがあるだろうし、そして大抵、それは通過点に過ぎない。学生時代の思い出の一つで終わるだろう。
「しかし、こういうことを自分から言うと嫌われてしまうかもしれないけれど――実際、私はなれたと思う。
「あそこで足を故障していなければね。
「……うん。今は治っているんだけど、でも、ちょっと時期が悪かった。
「あれは中学三年生の冬だったかなあ。推薦を狙っていた高校が視察に来ていた試合で、私は接触事故を起こした。その辺りは、あまり詳しくは語りたくないのだけれど、まあ、分かるだろう?
「私の夢は潰えた。
「なんて、格好良い言い方をしたものの、そんな前向きな将来設計じゃあなかったな。
「死ぬまでの時間をやり過ごす為の方法を、一つ失ってしまった。なんて表現をした方が、当時の感覚に近いかもしれない。
「大袈裟だって? それは大人になった今だから言えることだよ。大人になれた今だから、かつての自分を上から目線で慰められるのさ。
「足は駄目になった。
「だけど卒業を目前にして、他の進路を見つけなきゃいけなくなった。
「就職か、進学か。どちらも私には厳しい道に感じられた。ほら。得意な球技を軸に進路を決めていたから、受験に向けての勉強とかしていなかったんだ。という訳で、選択肢は無いに等しい。
「足のリハビリが終わるまでは、一応、家に置いて貰えたけどね。それが親から貰った最後の甘やかしだったよ。
「ん? ……いやいや、本当はね。その推薦先のスポーツ進学校には学生寮があったから、そのタイミングで家から出るのが理想だったんだ。
「ノーワーク、ノーペイ。
「なんて言われても、当時の私はまだ若かったし、自慢の足を失ったことで荒んでいた。いきなり他の道を見つけろと言われても、ねえ?
「しかし、挫折が私の転機となった。
「あれは私が偶然、学校の保健室を通り掛かった時だ。否、私がその時期保健室に通ったのは、言うまでもなく壊した足が理由にあったから、偶然ではなく必然だったのかもしれない。
「足が痛んだから、ベッドに横になっていた。ま、要するに不貞腐れて寝ていた訳だが。
「カーテン越しに、話し声が聞こえてね。
「口ぶりから察するに、常連じゃあなさそうだったな。
「始めはてっきり、私と同じように、体の不調を言い訳にしてサボりに来た連中かと思った。
「だけど違った。
「保健室に蔓延っていた彼女達が負傷していたのは、体ではなく心だった。
「まあ、他人に言うのは気が引けそうな、そして聞くのもはばかられそうな悩みを、ぽろぽろ喋っていたよ。それらは全て『ここだけの話なんだけど――』みたいな前置きで始まりそうなものばかりだった。
「確かに辛い話、心がしんどくなる話ばかりだったけれど、その奥には――愉悦があった。
「それはきっと、当時の私が不幸だったから気付けたんだろうね。
「そう。彼女らがしていたのは被カウンセリングじゃなく、不幸自慢だった。可哀そうな自分を可愛いと信じることで、心のバランスを保っているようだった――そして、それは決して間違った行いじゃあない。
「立ち聞きするのは気が引けたけど、すっかり聞き入ってしまって――そして魅せられてしまった。
「身体のみならず、私も彼女達と同様、メンタルに傷が付いていたのかもしれない。それが価値観を歪ませたのかもしれない。
「そして、その歪みは身体のリハビリが終わっても、ついに矯正されることはなかったよ。
「他人の不幸に触れることで、私の心は癒された。
「どうすればこの幸福を、もとい不幸福を確立させられるだろうか。あれこれ探し回った結果、私は今の進路に行き着いたって訳だ。
「カウンセラー。
「分かりやすい進路希望だろう? こうなってくると、やはり私も多分に漏れず、バスケットボール選手という夢は通過点だったんだろうな。
「手始めに、私は資格を取ることにした。
「さっききみが言った通り、堅実にね。
「資格を取るにはまず、資格を取る為の資格を得るところから始めなければならなかった。カウンセラーになるには大学を出なきゃいけなかったんだけど、私は中卒だったから、人生の舵の切り方をややハードモード寄りにしてしまった訳だ。
「それでも、私は諦めたくなかった。
「一度知った蜜の味を忘れることは出来なかった。
「とりあえず、素人感覚のカウンセリングごっこを始めてみることにした。何もかもが初めましての手探りだったから、こうして思い返してみると、仕事というより、趣味や道楽に近いかな。
「そもそも、私が心理士を目指し始める原点には、他人の不幸話を聞きたいという欲があったからね。仕事に直結しなくとも、とりあえずその気持ちを満たすことで、モチベーションの維持を図ろうとした。
「始めは対象を中高生に限定した。
「彼ら彼女らは匿名性を好むからね。先に述べた通り、素人の――言わばモグリの相談員だったから、責任逃れのリスクヘッジ的な意味で、名前を伏せて活動したかった。
「なんてもっともらしく理由を述べてみたけれど、こんな話は後付けかもしれない。単に、私の中の心理士のモデルケースがスクールカウンセラーだったから、その影響で無意識に相談対象を選んだのかもしれない。
「選り好みをしたんだ。
「ただ一つ、これは確実に言える。より生々しい話を聞けるから、という理由はあった。
「そんな最低な動機の元、私はひっそりと旗上げをした。
「不幸を愉しむカウンセラーの誕生って訳さ。
「……そんなに煙たがるなって。無論、私は相談者の話を真剣に聞いたよ。ほくそ笑んでいたのは、あくまで心の中でだけさ。
「その証拠に、私の慈善事業は中々に上手くいっていて――いや、謙遜を入れると話が煩雑になるか。
「好調だった。
「大成功だった。
「私の人心掌握の才能が、このタイミングで花開いたと言っても良いかもしれない。
「それをそのまま仕事に出来れば良かったのかもしれないが……いや、その好調さは私のカウンセラーごっこが完全無料相談所だったことに理由がないとは言えないだろうから、ここで採算が取れた気でいるのは拙速かな。
「そんな折だったよ。私と貝木が出会ったのは。
「きっかけは、何だろうな? とある街の相談者が抱える悩みを一本に辿った結果、私がその男に行き着いたんだったかな。それとも、貝木の方が、自身が勤しむ詐欺活動の妨げになるからと、私のカウンセリングに当ててきたんだったかな。まあ、そのどちらかだよ。
「彼は詐欺師だった。
「そして、話が分かる大人だった。
「この場合の『話が分かる』とは、『金払いが上手い』という意味だと思ってくれて良い。詳しい事情は割愛するけれど、それまでの私が如何に稚拙な金の使い方をしていたかを学ばせられたよ。
「私は貝木の仕事を手伝うことにした。
「相手の思想に感銘を受けた訳ではないけれど、ここでビジネスの場数を踏んだ大人からスキルを盗んでおいた方が、その後の自分にとって一助になると思ったんだ。
「主な仕事は火消しだった。詐欺師の巻き起こした火の粉を、適度に鎮火させた。
「具体的に言えば、傷付いた被害者の話を親身になって聞いてあげた。しかも、これは今までの活動と手口は変わらない上に、より込み入った身の上話を聞けるようになった。たまに現れるマジもののクレーマーは、然るべき機関を紹介してあげた。空々しく聞こえるかもしれないけれど、それらは私にとってかけがえのない経験になったよ。
「断っておくが、私は詐欺活動そのものに助力はしていないよ。あいつの思想に肯定もしていない。私が行っていたのはあくまで、被害者のメンタルケアだけだ。一人で切り盛りしていたプレ期間と同じように、無料でね。
「ただ、奴が働く社会悪的行為を阻害しようと動いて訳じゃないし、静観するのも悪だと責められたら、弁明は出来ないな。
「まあ、そんな風に。
「そうやって私は、カウンセリングの経験を積んで、精度を高めていった。
「そんな生活が続いたある日、貝木から言われた。
「『もっと金払いの良くなる仕事をしないか』
「ってね。
「どんな無理難題を押し付けられるのかと身構えていたけれど、あいつからは、
『ナース服特化型のキャバクラで酒を飲んで来い』
「とだけ言われた。
「訳が分からなかったよ。
「その時に渡された名刺には、きみの源氏名が書いてあった。だからてっきり、きみと貝木は知り合いなのかと思っていたけれど、その予想は外れだった。
「それも不可解な話だ。
「しかし、そんな不可解さもすぐに忘れた。きみのナースルックはそれくらい強烈だったよ――もとい、きみの思想や、キャリア設計図に、私は心を打たれた。
「ドクター志望の苦学生が、学費を工面する為に、ナース服で接客業に勤しんでいる。
「あの神原駿河さんが、自分の生活の為に、献身的に酒を注いで媚びを売っている。
「そんな風刺の効いたきみの姿は、私の目からはとても魅力的に見えた。
「同情的になったのかもしれない。もしかすると、強かにアルバイトに勤しんでいたきみに、少なからず自分を重ねていたのかもしれない……だとしたら、それは十数年前、互いがバスケットボールプレイヤーだった頃の弊害だけどな。同じコートでプレイしていた時代の記憶に引っ張られ、余計なシンパシーを感じたのかも。
「きみはきみ自身を指して『不幸じゃない』と言っていたけれどね。
「いつだったか、きみのプライベートを質問したことがあっただろう? その時に、通っている学校名も尋ねていたと思う。
「丁度、私はそこの編入試験を受けようかと思っていたんだよね。
「いつまでも小遣い稼ぎのバイトに興じている訳にもいかなかったから。ここで、私の当初の目的、資格取得に立ち返る。
「昔の知人が、人には言えないお店で秘密のアルバイトをしていて、尚且つその知人は私が編入を考えている大学に通っている。そしてどういう訳か、私が師事する詐欺師は、そいつに金を落とすことを期待している。
「ならば、仲良くならない手はないじゃないか。
「訳は分からなかったが、何かの巡り合わせじゃないかって、思いすらした。
「だから頑張ったよ。
「神原選手みたいな奴には分からない話かもしれないが、この歳になると、友達って意識して作ろうと思わないと作れないからね。
「人と友達になるのって、難しいよね。
「気の長い仕事ではあった。でも、時間だけはたっぷりとあったから。
「奴の払いをそのまま懐に入れられないのは歯痒かったけれど、このフリーター時代に仕事を失うのは避けたかったし、将来を見据えての実務期間も必要だった。
「果たして貝木の下での従事が実務経験にカウント出来るかは、正味曖昧なところではあるが……まあ、そこは詐欺師だ。対象が世間なのか私なのかは問わないが、とにかく、上手くよろしく騙して貰えることを期待するしかない。
「それに、私もそこまで悪い奴になるのは、気が引けたから。
「しっかしさあ、他ならぬきみの方が分かっているだろうけれど、我ながら、私の働きぶりは中々のものだったぜ?
「本当はね、毎日通おうかとも考えた。金さえ払えばきみに会えるんだし。クライアント、いや、もはやスポンサーかな? あいつに相談すれば必要資金のアップも見込めるだろうと踏んでいたのだけれど、それは流石に、きみに怪しまれるだろうと思って止めた。
「学生って肩書きはいざという時の盾にもなるが、今回の場合は足枷だった。分かるだろう?
「事実、今こうしてきみに暴かれてしまっている。
「話を戻そうか。
「だからね、あくまで自然に仲良くなろうと努めたんだ。
「毎回指名をした。勧められたお酒は積極的に飲んだし、飲ませた。新しいサービスも一通りは試した。
「きみはまるで私の我儘に振り回されているかのように振る舞っていたけれど、私の興味本位が自分の成績向上に貢献していることは分かっているのか、完全に拒否したことはなかったよね?
「世間が怪我をした人間に優しくなることは知っていたから、故障の経験を活かさせて貰った。松葉杖を引きずってアフターに誘ったり、それがまんまと上手くいったりね。
「うん。上手くいったんだよ。
「店の外で、プライベートで会う時間も増えたし、次第にナースじゃない時のきみの話を聞ける機会も増えていった。バイトのシフトの確認だけじゃなく、今や大学の履修登録の相談までされるようになったしね。
「……何だよ。別に、嫌々やっていた訳じゃない。
「多かれ少なかれ打算があったのは認めるけれど、きみとの火遊びは楽しかったよ。
「今までああも他人に執着したことなんてなかったから、毎日が新鮮だった。私の生活に張りを持たせてくれたという意味では、きみにも感謝しなければなるまい。
「まめまめしくキャバ嬢への連絡を怠らない私に、貝木は満足していた。きみも満更じゃあなさそうだった。私の懐も少しずつ温まっていったし、僅かながら知見も増えた。
「十二月には臨時ボーナスなのか、いつもの金額にちょっと色がついていた。これはそういうことかなって思って、私はクリスマスプレゼントを用意した。中々趣味が良かっただろう?

 と、沼地は場を混ぜっ返すように笑った。
 ばちん、と弾けた音がした。
 私の左手が、彼女の頬を張った音だった。
 相手の足元に茶封筒を叩き付けて、そのまま玄関から飛び出した。
 それ以来、私は沼地蠟花に会っていない。

 

1

うちのナースはおさわり禁止2

03

 沼地蠟花は一人暮らしをしていた。
 いや、戸籍謄本上は、今もしている。
 ならばどうして過去形で表現したかと言えば、ミクロ的に考えた場合に、つまりはここ数日の生活を振り返った場合に、現在進行形で表すのはどうかと思ったのだ。
 勿論、一人で食べて、一人で寝て、一人で暮らしていく為の最低限のルーチンワークが立ち行かない、という意味ではない。寧ろ一人で生きる方が何倍も気が楽だ。私は昔からそういう気質で、つまりはソロプレイヤーだ。
ソロプレイヤーだった筈だ。
 最近は、目覚ましを鳴らさずに起きた朝なんかに、布団の中でよくそんなことを考える。しかし、考えても無駄なことだということもは端から分かっていることなので、私は頭を持ち上げた。のそりと。
 そのままベッドから抜け出そうと、隣で山なりに盛り上がっていたタオルケットを跨ごうとして。足に柔らかいものが当たった。
「ぐ……」
 右足をぶつけてしまったものは神原駿河だった。丁度相手の太腿辺りをぐにゃりと踏んでしまった。
 私が寝起きしているワンルームは西向きなので、日が昇り切った明け方でもちょっと薄暗い。その所為もあって避け損ねてしまったのだ。
 それこそ、ソロプレイヤー時代には経験したこともなかったアクシデント。
 彼女は小さく呻き声を上げたが、私に非難の声は飛んでこなかった。
 だからなかったことにしよう。
 空きっ腹を抱えて、部屋の隅のキッチンスペースに立つ。僅かな希望を捨てずに冷蔵庫を開けたけれど、中には卵が一個しかなかった。
「ねえ、神原選手。卵が乗ってる卵かけご飯と、乗ってない卵かけご飯、どっちが良い?」
「その二択しかないのはあんまりだから買ってくるよ。ついでに少し走ってくる」
 と、いつの間に起きていたのか。
 彼女はきびきびと寝間着用のTシャツの下にスパッツを履いた。少し長めの丈のやつだ。
 私が何かを言うより先に、玄関で靴を履く。そのおろしたばかりのランニングシューズも、私の部屋に滞在中に買ったものだった。隣に置きっ放しのヒールを履いているところは、ついぞ見ていない。
「今日、バイトは?」
「入れてない」
「ん」
 頭の中でカレンダーを数えて、今日で七日目。朝のニュース番組ではUターンラッシュを報道していた。お盆休みの最終日、という世間一般の認識を、私も頭の隅にインプットする。
 夏休みの終わりが見え始めて、憂鬱な気持ちを膨らませる学生は多いのではないかと思うのだけど、彼女はその限りではないらしい。大学生の夏休みがとても長いというのは、私が最近新たに得た知見だ。
 自宅と学校の往復の休息タイムを得た神原は、ついでにナース服を着ることも休むことにしたようだった。

 きっかけは八月初旬まで遡る。なんて語り出すと異様な程仰々しく聞こえるが、きっかけはあくまできっかけに過ぎず、この日を境に彼女が抱えていた問題が露呈しただけだと私は踏んでいるが。
日曜日の二十七時過ぎ――つまりは月曜日の午前三時過ぎ。
 ……ねっむい。
 寝起きは最悪だった。というのも、私を叩き起こしたのが、突然鳴らされたアパートのインターホンだったからだ。でなければ、こんな冗談みたいな時間を指して早起きしたとは言わない。
 一人暮らしの私の部屋に、こんな時間に来訪するのはバイト上がりの神原選手くらいなので、ドアスコープ越しに相手の疲弊した顔を確認した後、チェーンのロックを外した。
 彼女はピンヒールを揃えて脱いだ。いつもそんなに行儀が良いのかと聞けば、雑に脱ぎ散らかしてヒールを痛めたことがあるらしく、私の前でのそれはただの経験則からのルーチンワークに過ぎなかったらしい。
「ああ、疲れた。起きててくれて助かったよ。あと、ついでにシャワー貸してくれ」
「…………」
 何だよ。いきなり現れて、その傍若無人な態度は。人の家に上がり込んだら、まずは『お邪魔します』とか言うもんじゃないの?
 なんて、面倒なことを思いはしたが言う筈もなく、相手の希望通り、そのままバスルームに押し込んだ。汗の匂いと香水のラストノートをさっさとまとめて落として欲しかったからだ。
 神原がシャワーを浴びる音を聞きながら待つのは、これで二度目くらいだっけ。しかし今回はあまり楽しい話じゃなさそうだ。なんてことを考えながら、部屋の隅に置いたままの、もう使っていない松葉杖に目をやった。これも彼女が気付いたら顔をしかめそうなものだ。
 風呂から上がって、裸の神原がバスタオルで頭を掻き始めるのを確認してから、私は訊いた。
「別に構わないんだけどさ、こんな時間に何の用? まさかうちでシャワーを浴びる為だけに来た訳じゃないんだろう」
「あー……まあ、そうなるよな。んー……別に隠すことじゃないから、良いか」
 なんて、逡巡の姿勢を見せながら不穏な前置きをした後、彼女は言った。
「家に帰ろうとしたら、店の客が出待ちしてた」
「通報案件じゃないか」
 ここまでついてきていたらどうするんだ。民事刑事問わず、ややこしいことに巻き込むのは止めてくれよ。
 私は再びドアスコープを覗いて人影がないかを確認したが、魚眼レンズを通して明け方の空がぼんやりと見えただけだった。
「大丈夫。まいてきたから。あと、知り合いのおまわりさんに通報しておいた。正義感の強い人だから、寧ろそっちの方が心配だな」
「はあ」
 と、神原はよく分からないことを言いながら、私のベッドに横になった。よっぽど疲れていたのか、ものの一分で寝息が聞こえてきた。

 程なくして、件の不審者は警察のお世話になった。と、いう話を神原から聞いた。
 知り合いのおまわりさんとやらは、よっぽどの仕事熱心だったらしい。はたまた、よっぽどの人格者だったかのどちらかだ。
「人格者とはちょっと違うような気もするのだが……まあ、私に限らず他の女の子も似たような経験をしていたようだから、結果的には良かったのかな」
 なんて彼女は言っていたけれど、それでも自宅に帰る気は起きないらしかった。
「ほら。夏休みだから」
 と、あまり身の無い理由を掲げながら、私の部屋に居座っていた。裸足であぐらを掻いていた。お昼ご飯のインスタントラーメンに卵を落として啜っていた。
「本当は味玉だとベターなんだがな」
「じゃあ自分で作ってみろよ」
「そんなそんな」
 麺を口に収めながら、神原はらしくなくふにゃりと笑ったが、それはあれだな。料理が出来ない奴の反応と見える。
「……一応、目標としている貯金額はあるんだ」
「ふうん」
 何の話で話題を逸らすのかと思えば、バイトの話か。
 ならば逸らされてあげよう、と。
 当たり障りのない相槌を打ちながら、私も自分の分の麺の塊を鍋から器に移した。ちょっと伸びかけのところを食べるのが気に入っていた。
「その目標を達成するまでは、何が何でもバイトを続けてやるって訳かい?」
 テーブル(正確には炬燵机だ。私は炬燵が好きで年中ずっと出しているのだが、神原には終始変な顔をされている)の角で卵を割りながら、私はあまり身の無い質問で場を繋げた。
「いや、そこまでの気概は無い」
「無いのかよ」
 スープの中に生卵が到達する。黄身が崩れて歪んでしまっていた。
「やめれば生活が変わるのは事実だけど」
 神原は淡々と言った。
「どうなんだろうな……正直、面倒なことを受け入れてまで続ける意義があるのかと言えば、別段そんなことも無い様な気がしてくるんだよ」
「面倒なことって、今回のケースみたいな?」
「も、含めてだな。前にも話したことがあるかもしれないけれど、元々、この仕事は向いてないんだとは思う」
 神原は気まずそうに頭を掻いた。
 まあ、確かに。
 よく喋る奴が、よく人の話を聞けるのかと言えば、別段そんな保証はないからな。
 神原駿河のコミュニケーション能力の高さは、絶妙な足し算と引き算の上に成り立っている。
 ま、それでそこそこ上手くやっていけてるんだから、これも一つの才能なんだろうね。立派な対人スキルの一種と言えよう。そこに本人の自意識がついて来れていなくとも。
「気にするなって。時間が解決してくれるさ」
「時間?」
「うん。仕事の上達も、時間の経過を待てば良い。嫌なことを忘れるのも、時間の経過を待てば良い。がむしゃらに働いているうちに自然と、きみも一人前のコスプレキャバ嬢になっている筈さ」
「そうか……って違う。違うよ。コスプレキャバ嬢は目指していない。私はスポーツドクターになるんだよ」
「あれ? そうだっけ」
「そうだよ。忘れるな」
「いつか独立して自分のお店を持って、自分好みの女の子を集めて、その全員にナース服を着せたい。とか言ってなかったっけ?」
「それも楽しそうだし、そして私が言いそうなことではあるが……」
「きみは何かと自己を過小評価しがちだけどね。もっと胸を張れば良いじゃないか。私はきみ以上のセクハラ看護師を見たことが無いよ」
「セクハラ看護師じゃない。セクシー看護師だ。セクハラ看護師だと大問題じゃないか。告発されて実名報道されそうだ」
「問題というならどっちも問題だとは思うけどな。社会問題だ。そうなると私に出来ることはさしずめ、学生時代の知り合いってことで、マスコミからのインタビューには答えておくくらいか」
「やめろ。お前にカメラを向けたがる奴なんていないから」
「『とてもそうは見えませんでした。真面目で人当たりが良くて、優秀なアスリートだったから……』」
「そういう生々しい裏事情を話すな」
「あはは」
 軽く嘲笑してみせる私。
 すると、そこで神原は気持ちを切り替えるように。
「しかし、実入りは良い分、若いうちしか出来ない仕事だしな。しばらくは、それを支えに頑張りたいと思う」
 なんて。
 まるで自分に言い聞かせるように言った。慰めるように言ったのかもしれない。
 しかし、賛同し兼ねた。し兼ねたというより、し損ねた。
「それはどうかな」
 と、うっかり口に出してしまった私に対し、まさか口を挟まれるとは思っていなかったのだろう。意外そうに眉を上げる。
 さて。
 用意した本音を開示したら、彼女がへそを曲げることは容易に想像がついたが、ここで押し黙るのも許されそうになかった。
 ので。
「……確かに時間は有限だけど、使い方は有限じゃないからさ。今しか出来ない仕事って決め付けて、それに身を投じる自分には価値があるんだと。そんな感じに思い込んでいるだけじゃない?」
 途端、彼女の目がつり上がった。
 やっぱり失言だったね。
 しかし、相手も私の性格を解してきたのか。それとも自身の性格を省みるようになったのか。はたまた私が言わずとも思うところがあったのか――だとしたら随分と無粋な真似をしてしまったことになる。
 どれが真相かは分からなかったが(全部かもしれないな)、とにかく、スルーすることに決めたらしい。
「おかわり」
 神原は仏頂面のまま立ち上がり、新しいラーメンの小袋を開けた。そして冷蔵庫から、今朝買ったばかりの卵を摘まみ上げる。
 実は意外と彼女は大食漢――ではないか。この場合は。
「贅沢な食べ方をするなあ」
「良いじゃないか。残しておいても、痛むだけだろう」
 と、白い殻を割って、今度は鍋に直接中身を落とした。夏場に湯気を立ち昇らせた所為で、また室温が上がった気がする。
 私達は二人、卵を無駄に消費して生きている。

「沼地のベッドって良い色だよな」
 神原が感心するようにそう言ったのは、その日の夜のことである。
「そう?」
「うん。私がずっと白いシーツを使っていたからか、なんだか新鮮な感じがするんだよな」
 と、神原は背を伸ばした。実にリラックスした様子で。
 何の気なしにぼやいた彼女からは昼間の熱が嘘みたいに引いていた。まるで私との付き合い方を覚えた結果、角が落ちたかのように。
 ただ、果たしてそれは良い傾向と言えるのだろうか。
 私のシャンプーで髪を洗い、私のバスタオルで体を拭いて、今は私のベッドの上であぐらを掻いている彼女が。
「……なあ、神原」
「ん?」
 彼女が顔を上げた瞬間。
 どん。
 後ろから背中を叩くような音がした。
 窓の外がおぼろげに光っている。カーテンを開けると、遠くの空の片隅で、閃光が綺麗に輪を描いていた。
「へえ、お前の部屋って花火が見えるのか」
「私も知らなかった」
「なんだ、勿体ない」
 どこか楽し気な様子で、窓の外に向き直る神原。
 その顔を見て、私の腹の底では疼く気持ちがあった。
 手首を掴む。不意を突かれた様に、目を見開かれた。掌の中があっという間に汗を掻く。
 もう少し花火が見たい、と言った神原を遮って額をくっつける。露骨に眉間に皺を寄せた彼女に向かって、私は何て返したんだったかな。また見れるだろう、とか。そんな適当なことを言ったに違いない。
 相手の瞳が二色の光を映す。遅れて、遠くで鳴った花火の開く音が、私の腹に響く。
 そして、彼女のお気に入りのシーツの上になだれ込んだ。

 翌朝のことだ。
「帰る」
 と、ため込んだ洗濯物と、新しく買い込んだ衣類、その他諸々を詰めた袋を抱えて、神原は私の玄関の戸をくぐろうとしていた。
 一体どんな風の吹き回しなのかと思わなくもなかったけれど、そこは来る者拒まず、去る者追わず。カウンセラー的には一回は追った方が良い効果が得られる時もあるのだけれど、その時は今じゃあない筈だ。
「送って行こうか」
「ん? じゃあこれ、手伝ってくれ」
 抱えていた荷物を半分手渡された。
 自分の名誉の為に言っておくけれど、この衣類の山は私が不精して洗濯機を回さなかった結果ではなく、神原駿河が私と同じタイミングで脱いだ衣類を洗おうとしなかったことが原因だ。全く、横着なんだか、それとも一周回った潔癖症なんだか。私には理解しかねるね。
 途中で休憩しようと、駅前のファミレスに入った。外食するのも随分と久しぶりな気がした。しかも、彼女と一緒にとなると。
「同伴みたいだよね」
「やめろよ」
 聞けば、夜にはバイトのシフトも入れているのだという。切り替えが早過ぎるだろう。どういう心境の変化なんだか。
「あー……バイト、行きたくないなあ」
 飲み放題のオレンジジュースに浸けたストローを噛み潰しながら、神原はぼやく。そんな様は、まるで試験期間を目前にして憂鬱さを覚える高校生のようだった。
 しかし、私達は高校生じゃない。
 だから、選択権がある。
 行きたくないって嘆くくらいならさあ。
「やめちゃえば良いのに」
「やめないよ」
「ふうん」
 彼女の答えは強情、というより強かと表現する方がそれっぽいような気がした。
「きみが何を考えているのか、私には全く分からないね」
「私が何かを考えて動いているように見えるなら、お前は病院に行った方が良いな」

 

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うちのナースはおさわり禁止2

02

 神原駿河の仕事着が変わった。
「衣替えだ!」
 意気揚々と披露してくれた新しい仕事着とは無論、看護師が着用するワンピースを模したそれのことを指している。それがどこかクラシカルな形のものに変わっていた。
 ……どうせならナース服から一新すればいいのに。
 今までのボディラインがよく見える(時点で現場で使用されているような業務用の白衣とは違うんだろうってことは嫌でも察しがつく)制服とは違う。
 エプロンドレスって言えば良いのかな?
 ロリータ? ゴスロリ? 厳密にはそれらともまた違うんだろうけれど、目に馴染んだ(好きで馴染んでいったんじゃない)前の服とは随分と様相が変わったから、曖昧なイメージが先行してしまう。
 旧制服のタイトスカートとは打って変わって、膝まであるふんわりとしたシルエットのスカート。裾ではフリル増量中といった感じの出で立ちだった。
「そんな恰好で接客業が務まるのかよ」
 あと、元スポーツ少女がそんなキャラクター性を放棄するような恰好をして良いのかよ。
「安心してくれ。私はスポーツ少女時代も、ゴスロリでバスケットコートを走り回っていた女だぞ!」
 ……うーん。
 そんな自己申告から何が安心出来るのか、私にはさっぱり分からないね。
 衣装替えによっぽど自信があったのか。それともナース嫌いの私の鼻を明かせるとでも勘違いしたのか。
 彼女は、今まで私に見せて来た中で一番に得意満面の笑みだった。ウインク(実は上手い。顔の筋肉を動かすコツを熟知しているのかもしれない)とかしちゃっていた。
 そして、そのコスチュームチェンジに合わせてなのか、神原は、ほんの数日前まで腰まであった長い髪をばっさりと切っていた。
 頭の形が綺麗に出る爽やかなショートカットは、かつてバスケットボールプレイヤーだった彼女を彷彿とさせ――ないか。ないない。思い起こすには頭の上のナースキャップが邪魔過ぎる。
「でも、どうしていきなりイメチェンなんか。ひょっとして、失恋でもしたの?」
「してないしてない。ほら、髪型が変わっている方が続編っぽいから」
「続編?」
 いや、この話は掘り下げるべきじゃないかな。
 あんまりメタなネタが過ぎると嫌われちゃうからね。
「うん……。正直、このスタイルになってから、成績はちょっと下がった」
 と、それまでの自信はどこへやら。彼女は悔やむように肩を落とした。おや、と不随意的に私の眉が持ち上がる。愚痴っぽい神原が珍しく感じられたからだ。
『成績』というのはこの場合、キャストとして指名された数のことか。それを聞くと、さっきまでのドヤ顔は、自分で自分を鼓舞させる為のハッタリだったのかもしれなかった。良かれと思ってやった営業努力が振るわない、というのは成程、それはちょっと心にキツそうだね。
「まあ、男受けするかどうかは微妙なところだろうな。慰めてやるから元気出しなよ」
 シャンパンに口を付けながら、私は彼女の肩を抱いた。そろそろアルコールが私の気を大きくさせる頃だった。
「心にもないこと言うんじゃない。顔が笑ってるんだよ。私が楽しんでる時のリアクションは希薄な癖に、私が落ち込んだ時には笑うってどういうことだ。人の不幸を面白がるな」
「あはは、バレた?」
「……はあ。やっぱり髪が長くておっぱいが大きいナースの方が好かれるんだろうなあ」
 なんて、まるで全人類の嗜好がナース服に帰結するような言い方で神原は総括をしたが、無論、そんなことはない筈だ。
 現に、その狭いフェティシズムの輪の中に入れない奴が、きみの目の前にいる。

「……酔った」
「え。珍しいな。珍しいというか、お前が酔っ払ったの初めて見たぞ」
 思ってたより強かったか? という神原の呟きを耳に入れながら、私は天を仰いだ。そのまま上半身を右にスライドさせると、着地点に太腿があった。
「マナーが悪い」
「ここだと女の子に一任してるんだろ。■■■さんのルールだと?」
「……一見さん以外は、断らないようにしている」
「じゃあ平気だね」
 それ以上は追及されなかった。
 おろしたばかりだという制服は、既に煙草の香りがしたし、その奥には香水の甘さがあった。
 上を見上げると、神原は厳しい顔で新しいシャンパンのボトルを凝視している――が、それがどこか遠くに感じられた。……胸が邪魔で見づらいだけかもしれないけれど。ちょっと避けて貰えないかな。
「あれ? もしかしてノーブラ?」
「な訳ないだろう。ノーノーブラだ」
 否定語が二重になった分、より強く否定された気がするし、そのまま胸部を触っていた腕を払われた。
 ついでに、神原は両腕で上体を抱えるようなリアクションを挟んだので、膝に垂らしてあったエプロンが私の頬を擦った。
「…………」
 駄目だ。なんとか茶化して誤魔化せないかと思ったが、瞼が重くなってきた。
「……薄々思ってはいたけれど、ここってキャバクラの割に、コスプレ色が強いよね」
「そうか? いちゃキャバ全体で見れば少数派かもしれないけれど、イメクラとかはこんなもんじゃないのかな。行ったことが無いから知らないけれど」
 知らないのかよ。
「いや、ほら。コスプレが好きならメイド喫茶でバイトするって手もあったんじゃないの? って思って」
「それは無理だ。私がご主人様と呼ぶのは生涯で阿良々木先輩だけと決めているから」
「? 阿良々木先輩って?」
「あと、別にコスチュームプレイに執着がある訳じゃないから」
 よく言うぜ。
 新しいスタイルの制服に心躍らせながら言うには、些か説得力に欠けると思った。今の私が酔っ払って判断力に欠いた状態じゃなかったとしても、そう感じたに違いない。
「……慰めてくれるんじゃなかったのか」
 薄目を開けると、神原が不服そうな目でこちらを見ていた。
ふと、彼女に私のことが好きかどうかを言葉で尋ねてみたくなったが、それはまたの機会にしておくことにした。

 

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うちのナースはおさわり禁止2

01

「神原選手って、医者なんだっけ?」
「違う。今は当ナース系いちゃキャバ場内指名ナンバー4のセクシー看護師だ。というか、私の名前は■■■だ。神原選手って誰ですか?」
「流石に自分を見失い過ぎじゃない?」
 あと場内指名(ってあれか。本命になるまでじゃあないけど、話してみると案外楽しいってタイプ?)の数で誇られても今ひとつピンと来ないし、毎回本指名料を支払っているこっちの気持ちを全く考慮していない。そんなだから、上から数えて四番目という中途半端な数字なんだよ。
 でもまあ、聞くまでもないことを訊いた過失は認めよう。ここでは隠しているけれど、彼女が医学部在学中の学生だってことを、私――沼地蠟花は既に知っていたからだ。
 ならば質問を変えようか。
「じゃあ、■■■さん。ダメ元で訊くんだけどさ。きみ、診察って出来る?」
「診察? ……ああ、分かった。そういうことか。ほんと、お前も好きだよなあ。『診察』ワンセット入りまーす」
 彼女は分かったような顔をして、カルテに見立てた伝票に走り書きをし、安っぽいナース服の前をくつろげた。桃色の生地の下から見せブラが顔を出す。軽薄そうな赤色だったが――いや、それは良い。話の本筋じゃないから。■■■さん、もとい、神原駿河さんは分かったような顔をしておきながら、なんにも分かっちゃいなかった。
「いや、全くそういうことじゃない。『診察』はナースパブ限定裏メニューを指した隠語じゃない。私の顔におっぱいを押し付けないでくれる?」
「ん? 違うのか?」
 人の話は最後まで聞いて欲しい。キャストのオーダーミスの分までサービス料を払えと言われたらどうするんだ。ぼったくりもいいところだぜ。神原選手のドリンクバック分から引いといてくれよ。
「私の記憶が正しければ、きみって医者の卵だろう? ちょっと診て欲しいんだけど、ってことだよ」
「ん? お前、どこか悪いのか? なら、こんなところでお酒なんか飲んでいたら、身体に毒じゃないのか?」
 意外そうに眉を上げる神原。それとは対照的に、私の眉間は狭くなった。
 ほらね。弱った身で相談に来ているのに、いきなり小言から入るから嫌いなんだよね、医療従事者って。
「自分だって心理カウンセラー志望の癖に」
「だからこそ、耳当たりの良い言葉を選べるようになりたいんだよ。で。なんか、目が痛くてさあ」
「目? 目かあ……うーん、眼科は専門性が高いから、よく知らないんだよなあ……」
 なんて、小賢しい言い訳をしつつ。神原は私の方に向き直った。膝頭と膝頭がくっつく。
「私は膝頭より膝小僧って言い方の方が好きだがな。ほら、美少年を彷彿とさせるから」
「じゃあ小児科医にでもなれば良いのに。子供の膝くらい、よりどりみどりの眺め放題だろう」
「いやでも、ガチな少年の膝って大抵擦り剝けているから。美少年のお膝のお稚児さんは大抵傷だらけだから。いやらしい気持ちに――じゃなかった、痛ましい気持ちになってしまう」
「お稚児さん?」
 首を傾げた私と再度対称に、「まあ、それは良いんだ」と、神原は頭を振った。
「……本来なら、医師免許を有していない者は、医業をなしてはいけないんだぞ。医師法で禁じられているんだ」
「固いこと言うなって。有名な医療漫画の天才外科医はモグリだったじゃないか」
「アッチョンブリケ」
 中々ノリが良かった。
 そのままのノリの良さで、神原は私の瞳孔を覗き込む。
 今までで一番、ナース服が様になったシーンかもしれない。品性に欠けるピンク色じゃなければ尚良かったのに。あと、ナースワンピの前が閉まっていれば。
「目のどの辺りが痛いんだ? ……こら、擦るな。傷が付いたら一生ものだぞ」
「んー……」
「痛いのはいつからだ? どんな風に痛む? まばたきして、ゴロゴロする感じか?」
 ……うるさいなあ。
 いつだったかは、私が神原を質問責め(主な質問内容は、『どうしてきみがナースコスプレ特化型のキャバクラでバイトをしているか』だった)にして、渋い顔をされたことがあったけれど、今になってポジションが逆転していることに、何か思わなくも――ないか。うん。ひたすらに面倒くさいだけだ。
「痛いのは、この間、熱を出して以来……ああ、それはもう平気、復調したんだけどさ。目の腫れだけ収まらなくて――うん、まばたきすると気になる」
 新しいおしぼりで手を入念に拭いてから(ちょっとだけそれっぽいな)、私の目元に手を伸ばしてくる神原。下の瞼を親指でゆるく押し下げられる。負っていた疾患との相乗効果で、絶妙な不快感。
「触られると、痛いんだけど」
「すまん。いや、すまんなことないよ。ちょっとは我慢しろ。おっぱい見てて良いから」
「何の慰めにもならない」
 私を何だと思ってるんだ。
 ていうか、どれだけ自分の胸に自信があるんだよ。
「実は今日から新しいブラなんだ。誰かに自慢したくて堪らなかった」
「ふうん」
 意外や意外。さっき私がスルーした方の話を、神原が本筋にしたがっていたとは。しかし残念だ。用意された広い紙幅を、期待通りに埋めることは出来そうにない。私の描写スキルは高くないからね。悪しからず。
 それでも一応、と。目前にあった服の合わせ目に集中してみようと試みる。が、あんまり上手くいかなかった。
 涙袋の異物感が瞼を重くさせていたってのもあったけど、普通に、神原の手に遮られて見えなかった。
 この店の従業員は、キャバ嬢らしくネイルをしている女性も多いのだけれど、彼女の手がそうではなかったことは良かったか。その辺りは、裏の顔(本来はナース服の方が裏の顔な筈なので、裏の裏の顔かもしれない)が医大生なだけある。手を使う実習も多いのだろう。今は患者に見立てた上客の手を握ることに忙しくしているが、いずれ本物の患者の患部を触ることに忙しくなるのかもしれない。よく分からないけれど。
「……よく分からないな。暗いし」
 一瞬、私の思考を読み取られたのかと思ったが、そんなことはなかった。ただ早々にさじを投げられただけだった。
 人の眼球をじっくりたっぷりと観察した挙げ句の台詞がそれだとしたら、まったくもって頂けない。
「直前に熱が出た、というのは気になるけどな……正味な話、ここで相談するより、すぐにでも病院に行った方が良いと思うぞ?」
「…………」
 それが易ければ、苦労はしないんだよねえ。
 私のフットワークは、一度左足の故障を経験していても(寧ろそれが転機となっていて)、決して重くはない。
しかし、行き先が病院の場合は、その限りではないんだよ。
「ん? どうしてそんな顔をする。もしかして、お前、病院が苦手なのか?」
「今更にも程があるね。冒頭の注意書きにも書いてあったじゃないか」
「何の話だ?」

 今回のオチ――いや、診断結果か。
 神原の『診察』を受けてから、翌々日。
 仏頂面でセクシー看護師をはべらす私がそこにいた。
「ものもらいだって。全治一週間」
「ふうん? じゃあ、発熱もただの不摂生か。良かったな、大したことなくて」
 と、重い腰を上げてまで通院結果を伝えに来たというのに、かようにつまらない反応をされては、私も肘をつきたくなるってものだった。
 本当は診て貰った日から大分良くなってはいたんだけど、眼帯をしたまま来店して見せたのは、ちょっとしたあてつけである。
「……あまり良くなかった目付きが更に悪くなったな」
「悪いのは私の目じゃなくて、きみの口の方なんじゃない?」
 ナースが患者に優しくないってどういうことだ。表面上は過剰な接客を模しているところが尚更、質が悪い。
「思えば、『目付きが悪い』って、割と酷いこと言ってるよなあ。目の付き方なんて、自分ではどうしようもないのに」
 どこか辛辣な見解を添えながら、神原は私の空いている方の目を覗き込んだ。今度は額と額がくっつきそうな距離まで近づく。
 と、そんな絶妙なタイミングで、店のスタッフが席にやってきた。
 途端、距離が出来た。
 ……いや、違うかな。適切な距離に戻されたんだ。それまで投げ出されていた神原の脚が、秒で行儀良く畳まれていて、そんな様に私は苦笑してしまう。いやはや、彼女も器用になってきたものだ。
 しかし、問題なかろう。
 近付い来てすぐ、彼は物珍しそうな視線で私を一瞥していたから(よくあることだ)。そして、今度は神原に向かって何かを耳打ちした。
「はい……はい、わかりました」
 きっと、■■■さんにご指名が入ったのだろう。指名が被るようになってきたということは、きみもそこそこ成績が振るうようになってきたんじゃない?
 しかし、ヘルプで呼ばれる子に興味は沸かなかったので、時間には余裕があったが私もお暇することにした。
「じゃあ行ってくる……じゃなくて、『ごめんなさあい、もうお時間なんですー。また指名してくださいね、お大事にっ』」
 語調に合わせながらなのか、左右の手指を使ってハートマークを作る自称セクシー看護師。
「……体裁の為だってことは言わずとも分かるけど、もうちょっと心は込められなかったのかよ」
 いや、それこそ目も当てられなくなりそうだな。と、私は帰り支度を始めた。

 

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