「ふっふっふっ……私には分かっておりましたとも。阿良々木先輩は、最後には私の元に戻ってくるとね」
 待ち合わせ場所で、そんな決め台詞? を決めた(色々な意味でキマっている)扇ちゃんは確かに僕の知る忍野扇だったのだけれど、なんだかいつもと様相が違っていた。違い過ぎていて、違いが分からない男として知られている僕こと阿良々木暦にも易しい、実に分かりやすい形態変化だったと言えよう。
「私の形状記憶に価値を見出しがちな阿良々木先輩の期待を裏切ってみました」
「きみはいつも嫌なところを裏切るね」
 具体的に述べれば、まず、きみはそんなかぶいた笑い方をするような子じゃなかっただろう。叔父さん由来の謎めかした笑いで場を混ぜっ返すような子だったろうに――という僕の指摘すらも「そんなのどっちも大して変わらないじゃないですか」と一笑に付されそうである。が、ここはあえて丁寧にひとつずつ違いを挙げていこうじゃあないか。
 ひとつでも見逃すと、後が怖いし。
 何が起こるか分からなくて、怖い。
 まず――扇ちゃんは、容姿が違った。顔の造りこそ僕の記憶の中の扇ちゃんそのままで、その必要な時に必要な分だけ動かす表情筋の癖も全くいつも通りではあったのだが、
「おや。真っ先に私の顔について述べるとは、阿良々木先輩も存外面食いですねえ。いやはや、私の顔が良くて良かったです。顔を良く産んでくださったお父さんに対し、感謝の念を抱かない日はありませんよ」
「僕もきみのような皮肉屋さんを産んだ親の顔は、一度じっくりと見ておきたいよ」
「手鏡お貸ししましょうか?」
「要らない」
 自分の顔をじっくり眺めるのはまたの機会にするとして、そう――表情こそ忍野扇のそれだったが、その顔を彩るヘアスタイルが変わっていた。これには僕も素直に驚いた。僕が本当に忍野扇に形状記憶を求めているのかどうかについては、しっかりと否定しておくべきだとは思うが、それを抜きにしても彼女が髪型を変えたのは意外ではあった。思わぬ死角から急所を打ち抜かれたような、ちょっと高低差の激しい驚きの気持ちがある。
「おやおや? それって、恋に落ちたって意味の比喩表現ですか? 私の新たなる可能性を垣間見て、心臓を射貫かれた的な」
「さも当たり前のように、心臓に『ハート』ってルビを振る後輩に胸を開くのは、中々度胸がいるけどな。まあ、ちょっとドキドキはしたよ」
 なんたって、扇ちゃんは僕の記憶のボブカットの後ろをばっさりと切り落としていて、なんというか、とてもスタイリッシュな雰囲気を纏わせていたのだ。細い首のシルエットがはっきりと分かるカッターシャツを着込み、まるで髪型に合わせてあつらえたかのようなパンツスーツ(カジュアルな印象を受けたから、ひょっとしたらスーツではないのかもしれない)も、これまたボーイッシュさを加速させている。まあしかし、表情の作り方こそ記憶通りの女の子なので、そのちぐはぐさで混乱する僕を楽しむ為のドレスコードなのかもしれなかった。僕が直江津高校に在学中の頃から、彼女は大人びた面と背伸びがちな面のリバーシブルを演出している節はあったけれど、でもここまで年嵩の印象を与えてくることはついぞなく、僕は不躾ながら結構な時間と視線を彼女に与えてしまった気がする。
「成程成程。確かに阿良々木先輩、女性の年齢を服装と腰付きで判断するような、あんまり褒められないやり方をする人でしたもんね」
「いや、あくまで判断材料ってだけで。あと腰付きには言及していない。周りが勝手に言ってるだけだから」
「でも、阿良々木先輩。大人びたとか大人っぽいとか年嵩とか、割と言いたいこと言っちゃってますけど、そもそも大人ってなんだと思います? 阿良々木先輩は――じゃないか。えっと――私って大人になれると思います?」
「へ?」

「大人っていつから大人なの? ――というのは、思春期のプロである阿良々木暦ならば幾度も挑み続けてきた問だとは思いますが、しかし容易に答えを見付けることが出来た人はいないでしょうね。何故なら、これの回答には普遍性がないからです。言ってしまえば、いつだって流動性を持つことが求められ続けている――そんな問題です」
 ずい、と扇ちゃんはそのショートカットの頭を僕に近付けてきた。鈍い僕はその時やっと気付いたのだが、いつも通りだと思っていた扇ちゃんの顔は、間近で見たら全然そんなことはなかった。極めて自然で、だからこそ馴染み過ぎていて気付かなかったのだけれど、彼女の唇には綺麗に紅が引かれていた。思春期のプロとして、反射的にどぎまぎしてしまう。
「簡単に化粧をしたからと言って、大人になったとは勿論言えませんよね。ただね、お化粧をしたいという気持ちが芽生えたというのは、自分という生き物を客観視出来ている証左とも言えるでしょうし――自意識の拡張。そういう意味では、この回答だって、全部が全部間違っているとは言えないのではないでしょうか」
 扇ちゃんは滔々と持論を続ける。して、その真意がどこにあるのかを測るのが、今の僕に期待されているのだとは思うのだが、彼女の語り口は既に結構なギアの上げ方が見られるので、これは苦しい戦いになりそうだった。
「十分な責任能力を有する人間を大人と呼ぶなら、阿良々木先輩なんかは一生大人になれないんじゃないですか?」
「苦し過ぎる。いきなり当たりが強過ぎない? いやいや、僕以上に責任を取りたがる奴も中々いないぜ?」
「責任はむやみやたらに取れば良いってもんじゃありません。それよりも、最後までちゃんと果たせるかどうかを重視すべきですよ。大学の単位と同じようにね」
「痛いところ突いてくるね……」
 丁度、三度目の履修登録が迫ってくる時期を見越してなのか、扇ちゃんはまるで親のように笑った――僕の実の親は僕の修学については匙を投げて久しいので、実際にこんな顔で笑われたことはないのだけれど、しかしどこかでそういう印象を受けた。
「まあね……僕の成人までのカウントダウンも、もう秒読み段階だし。そういうことを考えるタイミングなんじゃないかって、僕を責めたくなるきみの気持ちも分からなくはない――けどさあ、もっと他にやり方ってものが」
「え。阿良々木先輩。成人年齢が十八歳まで引き下げられたこと、まさかご存じないんですか? 一体いつの時代を生きているのやら」
「きみこそ一体いつの時代に配慮した物言いなんだよ!」
「ですから、とっくのとうに大人になられていた阿良々木先輩だからこそ、ここで訊いているんですよ、私は。私って大人になれると思います?」
 僕よりも大人のような所作をしながら(きっと故意に演出しているのだろう)、扇ちゃんはまた同じことを訊いてきた。彼女の視線の先には、今にも開花しそうな桜の蕾が膨らんでいる。

「なる。きみは大人になるよ。どんな定義であれ、少なくとも僕よりも立派な大人になることが出来る」
「根拠は?」
「僕がそう思っているから」
「……それはそれは」
 ありがとうございます、と扇ちゃんはこちらに向き直り、ぺこりと頭を下げた。それは今日の中で一番、記憶通りの女子高生の後輩としての所作に近かった。
「まー、そして言外に匂わせていた通りというか、阿良々木先輩のお察し通り、私はあえて大人にならないことも可能なのですがね」
「やっぱそうなんだ……」
「ええ。全ては阿良々木先輩の望むままに――とまでは流石にいきませんけれど、私という存在に関してあなたはかなりの影響力を持っています。なんて、今更言うまでもないですかね」
 そして、扇ちゃんはくるりと踵を返し、また桜の木の方を見た。本日の彼女があまりにもエキセントリックを装うので説明しそびれていたのだが、元々、今日は桜を見ようと、僕らは待ち合わせをしていたのだった――どっちが言い出したことだったかは今となってはうろ覚えだが、それも扇ちゃんに言わせれば「そんなのどっちも大して変わらないじゃないですか」になりそうではある。
「あ。それはないです。花見の場所取りの為、三時間前から待っていた私と、散歩がてら適当にのこのこやってきた阿良々木先輩とを同列に語られるのは業腹です」
「そんなに前から待ってたの!?」
「ちょっと盛りました。本当は私も三分前くらいです」
「じゃあ全然待ってないじゃん」
 場所取りも何も、僕らしかいない寂れた場所だってのに。桜の木も寂しかろうて。
「全然だなんて。では、阿良々木先輩は三分間息を止めろと言われたら、出来ますか?」
「……出来るのかもしれないけど、苦しそうだからあんまりやりたくない」
「そうですね。この例え話は少々不適切でしたか。じゃあ、三分間私とキスしてって言われたら、どうですか?」
「長いよって思う。あ。決して嫌って訳じゃあないんだけどさ」
「最後のフォロー、要りませんよ」
 扇ちゃんは苦笑した。やや血色の強いリップが横に広がる。これも言いそびれたまま今日は終わりそうであったが、その色は彼女のショートヘアとよくマッチしていた。子供染みた感想ではあるし、扇ちゃんもそんなものは望んでないのかもしれないけれど、しかし彼女のことをよく知る僕から見て、まるで別の女性のようだと思わせられたのだから、それもひとつの成人の基準として見なせるんじゃないか、なんて。結局、如何なる方法で考えるにせよ、人は一人では大人になれないというか――大人と認める人がいて大人になれるのだ。どんなに美しく咲く桜でも、それを眺める人が一人もいなかったとしたら、それはとても寂しいと僕は思う。
 ……今回はこれで許してくれないかな?
「ねえ、阿良々木先輩。桜の木って、どこか私と似ていると思いません? ……あ。根元に死体がとか、梶井基次郎の有名な散文と、今回の話は全くなんにも関係ありません。というか、あれと私を引き合わせるの、流石にちょっと酷くないですか? 男性の精液なんて触ったこともない私なのに。引いちゃいますよ。泣いちゃいますよ。えーんえーん。……え? あ、そうそう。桜の話ですよ。はいはい。結実ではなく、接ぎ木や接ぎ木で個体を増やしていく――全てのソメイヨシノは一本の原木を始原とするクローンだってお話も、根元の死体と同様あまりにも有名で、そちらはあなたも吸血鬼の繁殖事情になぞらえてましたよね? だから私も、始原であるあなたの例え話を聞いた上で思考してみたのです。あ。聞いたとは言っても、直接壁に耳を立てていた訳ではありませんのでご安心を。突然私の頭にぽんと浮かんで来ただけですので――不肖ながら、阿良々木先輩の裏側を担っていた弊害――ならぬ後遺症ですかね。あなたが吸血鬼の残滓なら、私は網膜の裏に残る残像みたいなものです。それも見てくれる人がいるから成立するし、像を結ぶ――ま、それはそれとして。阿良々木先輩から分かれた枝が私だとしたら、まあ別の個体として成長して、大人になることもあるかもしれませんね、っと」

0

「扇ちゃん……」
 待ったが掛かったのは、相手の制服のボタンに手を掛けたタイミングだった。
「あー……すみません。ちょっと身体を作るので待ってください」
「身体を作る?」
「なんでもありません。目を閉じて三秒待ってください。きっと良いことがありますから」
 良いことか。扇ちゃんがそう言うなら良いことなのだろう。ならば素直に目を瞑る阿良々木先輩だぜ。
 もしかするとこれは体の良い言い訳で、目を瞑っているうちに扇ちゃんが逃げてしまうんじゃないかという予感はないでもなかったが、ここは相手を信じるしかない。これは特別に意識しないと分からないことだが、視界を瞼で塞ぐと、閉塞感と孤独感がぐっと強くなった。
「いーち。にー。さん」
 扇ちゃんの声が平坦に数を数えた。合わせて小さく衣擦れの音がしたから、なんとなしに期待が高まってしまう。
「はい、もう良いですよ」
 と、相手からの許しを待って、ゆっくりと瞼を持ち上げると、先と同じ姿勢で、制服の胸元を突き出すように立つ扇ちゃんが視界の中央に映った。……三秒前と特に変わった様子は見られないのだけれど。
「……何をしたの?」
「知らなくて良いことです。阿良々木先輩に幻滅されないよう、私はこれでも努力しているのですよ」

2

#リプ来たキャラに自分の私服を着せる

02

「阿良々木先輩、靴紐を結んで頂けませんか?」
 平坦な口調で申し渡された忍野扇の頼み事は、どう考えても後輩女子が先輩男子にお願いして良い類のものじゃなかったけれど、どうして僕が断ることが出来なかったのかと言えば、それは彼女が学校指定のローファーではなくスニーカーを履いていたから――これが一番求められる答えに近いかもしれない。阿良々木暦という男は、知り合いの女子が自分の記憶の中と違う、どこか物珍しい恰好をしているだけで、テンションを上げてしまうような奴なのである。
「随分と勝手なイメージを持たれているようですが、阿良々木先輩。私の趣味はフィールドワークですよ。こう見えて、お外を元気に走り回るやんちゃっ子なのです。スニーカーくらい普通に履きますよ」
 大人しく両脚の爪先を揃えて立つ扇ちゃんは、上から主張と溜息を吐いた。僕が蝶結びを施している靴紐の色は漆黒で、それはイメージと違わないけれど、その細い足首はとてもじゃないがやんちゃっ子には見えない。
 ちなみに、目の前の扇ちゃんの服装はニットワンピだ(どう考えてもフィールドワークに行くような格好じゃない)。厚めの黒いタイツはいつも通りのそれだけど、ワンピースのAラインのシルエットは、制服とはまた違った印象を与えて来る。紺色の裾は絶妙な長さで、彼女の丸い膝頭を隠し切れていない。
 ん? ちょっと待てよ? この状態で真上を見上げたらどうなるんだろう?
「えい」
「いっ――痛ぇっ!?」
 蹴られた。爪先で。顔を。
 いやはや、見事な眼球ヒットだったぜ。僕だから許される暴挙と分かっているからか、全く躊躇のない蹴り上げっぷりだった。おかげで僕が最後に見えた光景は、結んだばかりの靴紐が綺麗に宙を舞った瞬間のみ。
「おっと、すみません。爪先が滑りました。決して、阿良々木先輩が軽犯罪を犯しそうになったところを止めたかった訳ではありませんよ?」
「いや、後輩の女子にかしずいてみせたんだから、ちょっとくらいご褒美が貰えても良いんじゃないかと思って」
「この場合、私が与えるべきなのはご褒美ではなくお仕置きであると判断させて頂きました」

 

3

昔話はドーナツ店で

「二十四日、空けておいてください」

 と、扇ちゃんが言ったのは、その待ち合わせ当日から二十日程前のことで、随分と気の早い話だな、と思ったことを覚えている。それでも僕、阿良々木暦は、その場で自分のスケジュール帳を開き、カレンダーに丸を付けるくらいには、彼女の気持ちを慮ってやりたいと思った。

「だって、日付が日付ですからね。早めに予約を取らないと埋まってしまいます。尤も、あなたに限っては予約を取ったところで、その予定は確約されていないのではないかと危惧する気持ちもありますが」
「随分と信用されてないな……」
「信用出来る訳がありません。前例がありますから。過去のことを鑑みて反省してください」
「……はい」
「それでは早速」

 なんて、十二月二十四日、当日。
 生憎の曇天の下、隣を歩く彼女から、

 「どうぞ」

 と、それを差し出された僕は、きっと虚を突かれた顔をしていたに違いない。
 クリスマスカラーの包装紙に包まれたそれは、彼女の黒い手袋の中でより鮮やかに見えたのだった。

「勿論、見ての通り、クリスマスプレゼントですよ。不肖な後輩から親愛なる先輩に向けた、日頃の感謝の気持ちをお伝えする為のプレゼントです」
「あ、ありがとう」
「いえいえ。お返しは来年で良いですよ。夜景の見えるレストランで美味しいディナーでもご馳走して下されば、私も文句は言いません」
「え、えっと……お返しにしては要求が高すぎない?」
「しっかり受け取っておいて何を仰るんですか。今日阿良々木先輩が手ぶらで待ち合わせ場所に来たことに関しては何の追及もしないで済ませているんですから、そのくらいは期待させて頂かないと……ああ、でも安心してください。高級ホテルのレストランの予約くらいは私がしておきますから」

 そんなことをつらつらと言いながらくすくすと笑う扇ちゃん。飄々としている様でいて、この子にものを諦めさせるのには骨が折れそうだ、と僕はため息を吐く。
 いや、お返しは何かしら考えたいにしても、もう少しゆるい基準で物事を考えて欲しい。等価交換とは。全くバランサーの姪らしくない――いや、あの可愛くないおっさんと可愛らしい女子高生を並べて語る方が失礼になるか。

「開けてみないんですか?」
「えっ、ここで開けて良いの?」
「ええ、どうぞどうぞ。私も相手のリアクションが気になりますからね」

 人に物を贈ること自体、初めてですし。なんて、さらりと重い呟きを添えて言っていたが、まあ、その気持ちは分からなくはない。暗に喜びのリアクションを強要されているな、と思いながらも、僕は赤と緑の包装紙を破く。
 中から出てきたのは、一冊の文庫本だった。
 意外――というか、なんというか。ミステリーマニアを名乗る扇ちゃんのチョイスとしては意外ではないかもしれないけれど、人に贈るプレゼントとしては些か珍しい選択ではなかろうか。
 ただし、僕が一番疑問に思ったことは、本を贈られたことそのものではない。

「これ、児童用文学じゃないのか?」
「ええ。でも阿良々木先輩にぴったりじゃないかと思いまして。子供向けの作品だからと言って、名作ではないとは限りませんし。子供向けミステリーが子供騙しのトリックだけで出来ていると思ったら大間違いです」
「まあ……そうだよな。子供の頃に読んだ本を、大人になって改めて読んでみると、また味わいが違うってことも珍しい感想ではないんだろうし」

 彼女の真摯な言い分に対して、無難な感想で返す僕。
 しかし、これは――

「おやおや? どうかしましたか、阿良々木先輩? 私のプレゼントはお気に召しませんでしたか?」
「いや、そういう訳じゃ、ないんだけどさ……」

 表紙、背表紙、裏表紙。何の変哲もない子供向けの文庫本をまじまじと見分して。初めて間近で見るであろうその装丁に、ここで懐かしさを覚える方が間違っているだろう。
 ……間違い、か。
 間違いはなるべく正したい。
 だから、なのか。

「……昔々、あるところに、男の子が居たんだけど――」
「おや? いきなり昔話ですか?」

 僕は隣の彼女に語ってみたくなったのだ。
 意外そうに扇ちゃんは眉を上げたが、それは形だけのものだろう。だって、一緒に口角も持ち上がっているから。さも嬉しそうに。寒空の下、楽しそうに吐く息が白い。
 僕がこれから語ろうとした話はさして面白い話ではないので、その期待に溢れる表情に応えられるとは思えなかったけれど、それでも構わないらしい。

「でしたら、立ち話もなんですし、お茶でもしながら伺いましょうか。小洒落たカフェでコーヒーでも嗜みながら」

 そう言って扇ちゃんが指差した場所は、例の如くというか、なんというか。僕達の済む田舎町には相応しいミスタードーナツの店舗なのだった。

「安心してください。ここのコーヒーはおかわり自由ですから。阿良々木先輩の語る話がどんなに長くても大丈夫です」
「いや、そこまで長い話じゃないから」

 少なくとも、きみがお皿の上のドーナツを食べ終えるまでには話し終えられる。
 しかし、彼女は行儀良く、三時のおやつは僕の話が終わってからお腹に収めることにしている様だった。だからなるべく手短に話そうと思った。

「昔々、あるところに、小学生の男の子が居たんだけど――クリスマスプレゼントに図書カードを貰ったんだ」
「ほお。小学生に向けたプレゼントとしては無難なチョイスですね。小学生のうちから活字に触れて欲しいという思惑が見えながらも、タイトルの選択権を子供に残している辺り、センスの良ささえ感じます」
「ああ。お祖父ちゃんから貰って――『大事に使いなさい』なんて言われたから、素直だった男の子は『大事に使おう』って思ったもんだよ――それで、男の子は喜んで、早速妹と大型書店に行った。上の妹は本なんて読まなかったから、下の妹と行ったんだけど――まあ、そこはあのちっこい妹のことだからさ、『これ買ってー!』って具合にお兄ちゃんのところに来たんだよな」
「ふむ。あのちっこい妹さんとやらを私が知っている体で阿良々木先輩は話しておりますが、まあ、そこは目を瞑りましょうか」
「うん、そうしてくれるとありがたいな――ただ、残念ながら、彼が手に握っていた図書カード、妹の欲しがった本と、僕が欲かった本。どっちも買うには残金が足りなかったんだ」
「おやおや、プレゼントにしてはシビアな金額設定だったんですかねえ?」
「そこはほら、小学生の頃の話だし。小学生にとっては紙のお金ってそれだけで大金だったというか……今回の話はそのくらい、昔々の話なんだよ――そして男の子は悩んだ。妹の願いを叶えてやるか、それとも自分の欲しい本を買うか。『大事に使う』ってなんだろうなって、子供心に悩んだ」
「ははあ、随分と優しいお兄ちゃんぶりですねえ。妹さんの要求なんて、切って捨てたとて誰も咎めないでしょうに」
「当時は優しいお兄ちゃんだったんだよ――で、扇ちゃん。その優しいお兄ちゃんは、どうしたと思う?」
「えー? 読者巻き込み型の推理小説は珍しくありませんけれど、そんな問いは推理するまでもありません。お兄ちゃんは自分の欲に従って、泣いて駄々をこねる妹を尻目に自分の欲しい本を買ったんでしょう?」
「違う。だから、当時は優しいお兄ちゃんだったんだって……今と違って」
「はっはー、ジョークですよ。ブラックジョークならぬダークジョークです。そう勿体ぶって話すということは、勿論、お兄ちゃんは可愛い妹の願いを叶えてあげたんでしょう?」
「……正解」
「ならば、その可愛い妹さんはさぞ喜んだことでしょうね。男の子は妹の喜ぶ顔が見れて、欲しい本は読めなくとも、少なからず『良いお兄ちゃん』としての自尊心は満たされたのでしょうし。心温まるハッピーエンドな話じゃないですか」
「そこで終われば、その通り、ハッピーエンドだったんだけど……そのちっこい妹、友達のその本を貸して、そのまま行方不明にしちゃったんだよな」
「あらら」
「友達に貸して、その友達が友達に貸して、みたいな感じだったかな? 当時から付き合いが多い妹のことだったから、その件に関しては僕は何も思わなかったけれど――『お兄ちゃんが買ってくれた本をどうして大切にしないのか』みたいな理由で、両親が妹を叱っていたことだけ、ちょっと……」
「ちょっと、悲しかった、ですか?」
「……どうなんだろうなあ。結局きみが言った通り、妹の喜ぶ顔よりも、本を買ってあげる『良いお兄ちゃん』の自分を見て、男の子は自分に満足していただけに過ぎなかったのかもしれないし。まあ、それで。僕は僕で欲しかった本のことを忘れてしまって……忘れてしまうくらいだったら、読まなくても一緒だったのかな、なんて冷たいことを思いつつ、なんとなく本屋さんでその本の背表紙を見つける度に、物寂しい気持ちになっていたりもした――と、いうのが話の顛末なんだけど」

 僕はまた、扇ちゃんから貰ったプレゼントを改めて眺める。青い色の背表紙は、やはり懐かしさを誘う色だった。

「この本、その男の子が――少年時代の阿良々木くんが、買いそびれていた本なんだよな」
「おっと、それは素敵な偶然ですね。幼い頃とはいえ、阿良々木先輩と本の趣味が被るとは。私は存外、プレゼント選びの才能があるのかもしれませんねえ」

 と、彼女は頬杖を付きながら満足気に笑ったが、どうだろう?
 僕は訊く。

「……確信犯だろ?」
「どうでしょう? 私は何も知りません」
「ああ。でも、僕は知っていたよ」

 扇ちゃんは答える。
 こうやって、小さな後悔の累積を崩しながら、僕達は生きているんだろう。
 店内のガラス張りの壁から空を見上げると、やはり曇った空のままだった。妹と手を繋いで大型書店に行った日も、今にも雪が降りだしそうな気候だっただろうか。あの時『大事に使いたかった』正しさ同様、今では思い出せないけれど。
 ノスタルジーに浸る一歩手前で、向かいの席の扇ちゃんがくすりと笑った。

「では、読んだら感想聞かせてくださいね? 子供の頃に望んだ物語が、果たして期待通りのものであったか」

 そして、彼女はやっと、僕の奢りのドーナツに手を伸ばしたのだった。

「というか、阿良々木先輩」

 僕もコーヒーをもう一杯、と腰を持ち上げようとしたところで、聞き手の彼女としては珍しく、追加のツッコミが飛んできた。ので、僕は居住まいを正すだけで終わる。

「あなたのその昔話のオチの代わりに、不肖私が語らせて頂きますけれど」

 あ、なんか嫌な予感がする。
 可愛い後輩から蔑む様な視線が注がれているから。

「あなたの『欲しかったけど買えなかった本』で、尚且つ『女子高生に買える本』というのが、この一冊しかなかったんですよ。一言だけ言わせて下さい」
「はい」
「エッチな本、欲しがり過ぎです」
「……はい」

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