好きなだけ

 すん、と耳元で音が鳴った。
 首筋にくっつけられた相手の鼻先が、空気を取り入れた音だった。触覚に欠ける私が辛うじて拾ったもやもやした感覚の中に、何か別のものが交じる。そわそわとして、落ち着かない。この気持ちは、多分、恥ずかしいだ。

「……近い」

 相手の身体を押し出すようにして、胸元に手を差し入れる。すると、

「す、すみません!」

 なんて、慌てた調子の後、目尻が名残惜しそうに下がった。そのまま相手が後ろに退いたので、密着していた上体が離れる。

「あはは……ついつい夢中になっちゃうんですよね。りんさんの耳元でこうしてると、なんだか落ち着くんです」
「……よくわからん」

 鼻から空気を取り入れる所作は、匂いを感じ取る為のもの。一番上の姉がよくやっていたものと同じものだ。だから、状態を把握するために行っているのだと、理屈では理解出来るのだが――実際のところ私には今一つ実感が湧かないし、多分これからもわからないと思う。
 しかし、わからないことだったけれど、知りたいことではあった。最近覚え始めた『好き』という気持ちが、そんな衝動を後押しする。だから、

「それがお前のしたいことなのか?」

 とだけ聞いた。

「うーん? したいこと、なんて大層なものじゃないんですが……僕の中で気になることや、知りたいことがあった時に、自然とああいう形になっているんですよね。気が付いたら、身体が先に動いているというか」

 そんな風に答えて、情けない顔でへにゃりと笑った。
 こいつが並べた言葉の並びは言い訳のようだったが、よくよく意味を噛み砕いてみれば、何の免罪符にもなっていないことに気付く。
 いつの間にか隣に立っていて。キラキラした瞳は、私の身体の奥にしまい込んだ葉を見詰めていて。肩に腕が回って。顔が近づいてきて、それで――と、ここで私は居ても立っても居られない気持ちになるから、思い出すのを中断する。人肌が離れて久しい筈の耳元が、今になって熱くなってきた。
 この全てが『好き』という気持ちに起因しているものだとしたら、私の姉や妹はなんて大きなものを抱えて生きていたのだろう、と思う。

「僕、りんさんの役に立ちたいって気持ちと同じくらい、りんさんのことをもっとよく知りたいって思うんです」
「それは、お前はケムリクサが好きだから」

 だから、ケムリクサを持つ私達を好意的に見ているのだと思っていた、けれど。

「あはは……そう思われても仕方がないですよね……」

 そんな風に含みのある言い方をされると、他の可能性も感じさせられた。

「……私も、やってみて良いか?」
「えっ、えっと……はい、どうぞ」

 戸惑いながら差し出された肩口に額を乗せる。破裂しそうな程に脈打つ胸を抑えながら、息を吸ってみる。しかし、どうにも上手くいかず、好奇心の出来損ないだけが私の中に残る。
 ……やっぱり、よくわからん。
 と、同じ言葉で突き放しかけて、口に出す前に飲み込んだ。私の掌が相手の服の裾をぎゅっと握りしめていたことに気付いたから。
 ああ、そうか。こういうことか。
 感覚を隔てたまま行き着いた答えは何故かとても大事なものに思え、私はもう一度だけ鼻を鳴らしたみた。

1

はじまりの文字

「字を教えてくれないか」

 ほんのちょっぴり恥ずかしそうな面持ちで、りんさんは僕に声を掛けてきた。
 出会ってからすぐの、警戒されていたが故の厳しい一面は、次第に鳴りを潜めてきてはいるものの、僕は未だにりんさんと話すのは少し緊張してしまう。例えるなら、そうですね――胸の辺りがどくん、とする時がある。そんな気持ちを抑えながら、僕は応じます。

「ええと、何から教えれば良いんですかね?」
「私もよくはわからないが……とりあえず、お前がよく眺めているダイダイを、私も読むことが出来たら。とは考えている」

 うーん、なるほど。
 だけど、それはりょくさんが知ったら怒りそうだなあ……とは思いつつ、りんさんの好きなことを探すお手伝いが出来るなら、と勿論僕は引き受けた。

「でも、どうしていきなり、そんなこと思ったんですか?」
「それは……か、かけるようになったら、字で教えてやる」

 とのことなので、僕がりんさんの真意を知るには、もう少し時間が必要らしい。

 あかさたな、はまやらわ。
 いろはにほへと。
 昔々、この星の人はこうやって文字を覚えていたそうですよ。と、僕は『ふね』の中で見つけた、文字が並んでいるペラペラしたものを眺める。ダイダイさんとよく似たこれは、『かみ』と呼ばれていたそうだ。これも、文字を読み続けて知ったこと。もしかしたらりんさんも、僕がこうしてせかいについて調べているところを見て、その楽しさや奥深さを知ってくれたのかもしれない。
 だとしたら、その気持ち、わかります。

「……何がおかしい?」
「え?」
「顔が笑ってた」
「あ、別に、大したことじゃないんですが……ただ、りんさんが僕が好きなものに興味を持ってくれるのが、なんだか嬉しくて」
「そ、……そうか」
『ピ!』
「そうだね。シロも、りんさんとお話し出来るようになったら、嬉しいよね!」

 そんな背景もあって、否が応でもやる気が膨みます。

「えっと……ではとりあえず、これを真似してかいてみましょうか」

 相手も緊張しているのか、やや固い表情で、小さく頷くりんさん。ミドリさんによく似た枝を使って、手がゆっくりと地面を引っ掻いていく。
 ……そうそう、お上手です。
 りんさんも字を覚えたらこの沢山の『かみ』の束も、二人で読めるようになるかも。一人で読むのも楽しいけれど、二人で読めたらもっと楽しいんじゃないかな。そうなったら、めっさ素敵だなあ、なんて考えたり。

「……ここ、ちょっと難しいな」
「えっと、これは手首の力をちょっと抜いた方がかきやすいですよ」

 こんな感じですね。と、支えるようにして、横から掌を添える。
 すると、ほんの一瞬のことでしたが、りんさんの顔が急に赤くなって――そして少し柔らかくなりました。それがなんだか可愛らしくて、僕の方まで心の内側をくすぐられたような気持ちになっていると。

「りんねぇね、最近わかばにべったりなんだな」

 と、りなさんが背中から被さってきた。言葉の通りなら、りんさんにべったりなのはりなさんの方かと思うのですが……。

「なっ……そ、うかもしれない、けれど……」

 あらら。
 りなさんに体重を掛けられて、手を滑らせるりんさん。からり、と軽い音を立てて、枝が地面に転がった。
 取り落とした枝を拾って差し出そうとすると。

「も、もういい。ちょっと一人で練習する」

 そのままそそくさとどこかへ行ってしまった。まるで取り残されたような寂しさもあって、僕はつくねんと、りんさんが地面に残した跡を眺める。
 ……えーっと、これ、なんてかこうとしていたのかな?

「きっと、わかばは教え方が下手だってかこうとしてたんだな」
「ええっ!? そう、ですか? ちょっと、いきなり文字をかくのは難しかったでしょうか……?」
「難しいんだな! わかばが何言ってるのか、りなちゃんにはよくわからない時があるな。話したり読んだりするだけでも難しいのに、いきなりかくなんて大変なんだな!」

 りなさん、一人になってからも随分と厳しいご意見。
 確かに。僕は一応、文字を読んだりかいたりが出来るけれど……いざという時、大事なことに限って、文字に出来なかったりするもんなあ。頭の中で思った通りの形そのままを、頭の外に持って来るのは、めっさ難しい。

「りなちゃん、あんまりりんの邪魔しちゃ駄目だにゃあ」

 どこから聞いていたのでしょう? いつも通りのふんわりとした声で、りつさんがりなさんを諭した。

「邪魔な? りな、邪魔しちゃったかな?」
「いえいえ、僕は別に。みんなで覚えた方が楽しいですし」
「りんねぇねも変なのなー。好きなものなのに、好きなものとずっと一緒にいるのが苦手なのかな?」
「きっと、そういう『好き』もあるんだにゃ。私はもう、大好きなミドリちゃんと一度お別れしたけれど……だけど、ミドリちゃんを好きな気持ちはずーっと残ってて、変わった訳ではないからにゃ。それと同じように、りんにはりんのペースがあると思うにゃ」
「そうなのか? りなはずーっとお腹いっぱいでいた方がしあわせだけどな」

 りんさんとりなさん、それからりつさん。とてもよく似た仲良しご姉妹ですが、やっぱりちょっとずつ違うようです。ともあれ、『りんさんのペースに合わせて』というのは、良いアドバイスのような気がします。
 りんさんが僕に頼みごとをすること自体珍しいことだったから、ついついはりきっちゃったけど、もう少し肩の力を抜いてやっても良いのかな。なんて考えながら空を仰ぐと。
 ずっと遠くの方――それこそりつさんの耳も届かなそうな高台から、こちらに視線が向けられているのが見えた。

「お前なら、きっと気付くと思っていたから」

 信頼の言葉を頂くのは悪くない気持ちなのだけれど、でも流石に、ここまで高い場所まで登るのは、ちょっと……。
 息を切らした僕がおかしかったのか、りんさんが小さく笑う。そんな顔を見せられてしまうと、湖のほとりから山を越えてきた後だというのに、僕の心の体力も否応なしに回復してしまう。この気持ちを、いつか伝えられたら――それこそ文字におこすことが出来たら素敵なのに、と。そんな夢見がちなことを考えていたら。

「どうだ?」

 相手がはにかんだ視線の先。草をかき分けた、土の匂いが強くする地面に、覚えたての文字が並んでいた。触れてみると、頑張り屋さんなりんさんの、努力の跡を伝えてくる。そこでようやく、僕はりんさんの文字を教わりたかった理由に気が付いた。

「……ふふっ」

 自然と笑みが込み上げてきます。出会った時からずっと思っていましたが、この人は本当に、強い人です。
 わかば。
 僕の名前がそこにはありました。

0

スローモーション

「寝る前に辺りを一回りしておこう」

 とのことで、僕とりんさんは暗く濁った色の空の下を歩いていた。
 幸い、その日は赤霧も少なくて、葉をつけたミドリさんの幹が、遠くで静かに光っている夜で。だから、ちょっと気が抜けていたというか。僕が思ったことをふと、そのまま口に出してしまったのがきっかけだった。

「りんさん、なんだか良い匂いがしますね」
「は? 匂い?」

 前を歩いていたりんさんが、振り向き様に後退った。ここはいきなり変なことを言って驚かせてしまった僕が悪いのだろうけど、何もそんなに警戒しなくても……と、ちょっとだけ悲しい気持ちになったことは内緒だ。

「ケムリクサの匂い、なんですかね? こう……側を通った時、たまにふわっと――」

 と、そこまで言って、口を噤む。りんさんの両目が、僕をきつく睨んだからだ。りんさんは姉妹の中で一番目が良いそうなので、そうやってまじまじ見られるとちょっと緊張してしまう。

「……またケムリクサの話か」

 呆れたようにそう言って、目を細めた。僕も、僕自身のことはよく分からないことが多いのだけど、どうやら好奇心を抑えられない性格っぽいということはなんとなく分かってきた。りんさんは真面目な人なので――それは妹のりなさんや、お姉さんのりつさんをいつも気に掛けているからなんだろうけれど――こうして冷ややかな目で見られることも、多々ある。
 でも、最近は比較的、僕のたわいのない話にも付き合ってくれるようになった。ような気がする。多分。

「私はあまり……その、匂いとか。感触、とか。そういうのは分からない。そういうのは、姉が得意だった」
「お姉さん、ですか?」
「そう」

 と、廃墟の壁に背中をつけたりんさんは、なんだか寂しそうな顔で、口元を覆うように掌を構えた。指の隙間から、口に咥えたミドリさんの色が覗いている。僕はその綺麗な色が好きなので、思わず見とれていると。
 身じろぎひとつせずに、ふっ――と、息を鋭く吐いた音と同時に、緑色の閃光が僕の隣を弾けた。

「ひっ!」

 ごろん、と瓦礫か何かがが落ちた音。振り返って足下を見れば、赤虫の残骸が転がっていた。

「す、すごい……! ちょっと払っただけ、なのに」
「ただの小型だ。大したことない」

 りんさんの吐き出したミドリさんの名残が空気と混ざりあって、ふんわりと馴染んでいく。それが完全に消えてしまうのはどうしても勿体無い気がしてしまって、僕は大きく息を吸い込んだ。

「あ。でも、なんだか違う? 違う匂い……なのかな」
「何が」
「ミドリさんの葉の匂いと、りんさんの葉の匂い。上手くは言えないんですけど、ちょっとだけ違う感じがするんですよね。煙たいんですけど、なんかすーっとしてて。あと、りんさんの葉の方がちょっとだけ甘い、のかな? なんでだろう、気になるなあ!」
「……ふん」

 りんさんは素っ気ない調子で、またミドリさんを自分の唇の間に挟んだ。
 うーん? 赤虫の気配は、もうないと思うんですが……?
 りんさんのほっぺたは、たまになんですが綺麗な色に染まる時があって、それが口に咥えたミドリさんの色と合わさって、また素敵だなあ、なんて思ったり。

「そろそろ戻るぞ」
「あっ、待ってください!」

 と、りんさんが踵を返した背中に、ケムリクサが輝いているのが見えた。
 記憶の葉、でしたっけ。何度見ても綺麗なのですが、夜になると特に目を奪われます。すると、なんだか好奇心みたいなものがぞくぞくと膨らんできて……。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 絶対怒られるだろうけど、めっさ、めっさ気になる……!

「あっ、あの! もし、良かったら、でいいんですけども……りんさんに触らせて貰えませんか?」
「は!?」
「ミドリさんの葉の触り心地と、りんさんの葉の触り心地、比べてみたいんです! ミドリさんなんかは特にそうなんですけど、触るとつやがあって気持ち良くて、でもでも、匂いは意外とツンとしてるところもあるっていうか! だからまた新しい発見があったら、ケムリクサの使い方とかも広がったりなんかして……あ」

 またうっかり早口になってしまった。好きなものを前にすると、つい自分の世界に入り込んじゃうというか。あまり良い癖だとは言えないよな……うん、悪い癖です。はい。
 気が付けば、りんさんの視線が今までにないくらいにつめたーくなっていて。ミドリさんを育てているりつさんだったら、分かってくれる時があるんだけど。あの人は僕の早口も聞き取れるらしいので。いやいや、どっちにしろりんさんに睨まれることには変わらないか。もしかすると、「やっぱりこの場で処理する」って言われちゃってもおかしくない……。

「おい」
「ひっ……す、すみません! ただの! ただの好奇心なので!」

 こうして頭を下げるのも、もう何度目でしょうね……。うう、嫌だ。嫌だけど、僕の命って始めからりんさんに預けっぱなしなところがあるので、仕方がないんでしょうけれど。

「いくぞ」

 と、命を投げ出す覚悟を決めるのは尚早だったのか。伏せていた顔を上げると、りんさんはまた毅然とした態度で歩き出していた。りつさんとりなさんが待っている移動が出来る箱を止めた場所に――ではないようで。

「え……っと、どこにですか?」
「お前が言ったんだろう。別に……その、さ、触り心地とやらを確かめたいだけなら……」
「えっ! 本当ですか!?」
「ちょっ、ちょっとだけだからな!」

 こいつの言う好奇心とやらは、私にとってはあまりよく分からないものだ。
 ただし、変なことを言い出した時のこいつは、決まって楽しそうに目を輝かせているから、私の視界まで眩しく曇ってしまうので、困る。
 屋根がある場所を選んで、中に座った。赤虫から身を隠すという目的もあったが、こいつの前で、ただ黙って静かに座っているだけというのは、なんだか落ち着かないと思ったからだ。

「あの、本当に」
「なんだ」
「さ、わって良いんです……か?」
「……あ、ああ」

 すー、はー。
 と、大袈裟に息を吸って吐いてから、まもなくおっかなびっくり手が伸びてきて、私の胸元に着地した。拍子に、私の唇の端からも息が漏れてしまった。

「……ん、っ……」
「す、すみません! 痛かったですか?」
「い、いや……大したこと、ない」

 決して強がりではない。私には、その『痛い』も完全には分からないから。
 緊張しているのか、手が少し震えている。
 でも、視覚程はっきりと認知することは叶わなかったが、おぼろげに感じるものはあった。
 相手の指が私の胸に沈む度に、とてもぼんやりとした感覚だが、なんとなく……気持ちが良いような気がする。
 これがりくの言っていた『痛い』ってやつなのかな。なんでも、『痛い』にも種類があって、感じると最っ低な気分になるやつと、その反対の、もっとくれ! ってなるやつがある……そんなことをあいつは言っていた気がする。もしそうだとしたら、これは前者の『痛い』だろう。よく分からないが、そうに決まっている。それとも、これは『痛い』じゃなくて『ぞわぞわする』って言ってたやつかな。りくはそれらをひっくるめて全部好きだと言っていた。
 ……好き、は多分、良いことだ。
 なのに、私はなんだかいけないことをしているような気持ちになる。
 記憶の葉の近くが、ぐずぐずと疼く。
 顔を上げると、もじゃもじゃ頭がすぐ近くにあった。ふたつの瞳が私の胸と、私の中のケムリクサを熱心に見つめている。そのことに気付いた瞬間、触れられている胸の内側がどくっとした。……どうしよう。今のが、この触り心地とやらを感じるやつにも分かるものだったら。

「すごい……めっさやわらかい……」
「や、やわらかい、のか?」
「はい。めっさやわらかくて、めっさ気持ちいいです」
「自分では、あまり、よくわからん……っ!」

 なんだか妙だ。さっきから反射的に身体がびくっと跳ねてしまう。
 こいつの掌が身体の表面を撫でると、その度に苦しくて息が詰まる。すると、身体の表面だけでなく、奥の方が熱くなるような気がして、大きく息を吐いて熱を逃したくなる。

「ひ……」

 布の上を往復する手指がひっかかりを覚える。その度、私の頭から爪先までを、びりっと何かが走る。何故かは分からないが、なんだかとっても、恥ずかしいことのような気がする。初めて感じる、胸の先がつっぱるような感触。気持ち良いのに苦しいだなんて、今までになかったから、どうしたら良いかが分からない。
 思わず涙が出そうになって、駄目だった。まばたきをひとつするだけで、今にも溢れてしまうんじゃないかと思う。そうなると、唯一自由に扱えた視界の広さも失われていくようで、怖くなる。

「……ふ、ぅ……」
「大丈夫ですか、りんさん」
「あ、ああ……続けてくれて、いい……」

 自分の声が、思っていたよりもずっと涙声になっていて驚いた。
 すぐ目の前で、息をのむ音が聞こえた。
 返事はなかった。代わりに、もう一方の手が私の頭を抱え込むように回り込み、耳の後ろを優しく撫で始める。
 怖かった筈なのに、何故か私の口から出たのは、全てを委ねてしまいたいと感じた気持ちそのままだった。そんなことを思ったのはいつぶりだろう。もしかしたら、生まれて初めてかもしれない。それは決して褒められるものじゃないから。
 胸元と耳。ふたつの場所を同時に弄られると、触り心地をぼんやりとしか感じられない私でも、快感が強くなった。

「りん、さん」
「なっ、ん……ぁっ!」

 口から勝手に変な声が出た。触られていない筈の身体の奥が、またぐずぐずとくすぶり始めた所為だ。
 おかしい。
 私の身体が毒にゆっくりと沈んでいって、私の思うように動かなくなっていく。

「あ、あれ……? お、かしいな……」

 一瞬、私が考えていることを覗かれたのかと思ったが、違った。しかし、これ以上続けていたら本当に、考えていることまでないまぜになってしまうのではないか。そんなことを考えかけた途端、羞恥心が込み上げてきた。相手の顔をまともに見られそうにない。

「な、なんだ?」
「えっと……こういうことを言うとおかしいって思われるかもしれないんですけど、いまのりんさん、なんだかすっごく可愛いなって思っちゃって」
「っ!?」
「あ、あの! す、すみません! 違うんです! 変な意味じゃ、なく、て……」
「……あた、ま」
「へ?」
「あたまを、なでて……ほしい」

 変なことを言った。私がしおらしくいるのがそんなに意外だったのか、数秒の沈黙が降った後。
 ……はい。
 と、胸を触っていた手が離れ、頭へと移された。喪失感と充足感が同時にやってきて、また私を困惑させた。大きな掌が、髪を絡めながら優しく滑っていく。どうしたら、これをもっと感じ取ることが出来るんだろう。
 身体の奥を触って貰いたい、と考えている自分に気が付いた。また、記憶の葉の近くが、爪か何かで引っ掻かれたように疼く。
 泣きそうだ。

「りんさん、めっさ良い匂いだけど、触り心地もめっさ良いんだなって……僕、好きです」
「……お前が好きなのはケムリクサだろう」
「ち、違……いませんけど! りんさんのことも、僕は」
「私のこと?」
「い、いえ。なんでもない、です……」

1

口癖

「りつさんって、『にゃ』ってよく言いますよね」
「にゃ?」

 大きな耳がぴくりと動き、それまでずっと前を向いていたりつ姉さんがゆっくりと振り向いた。
 それを見た私がまず一番に思ったことは

「余計なことを聞くな」

 だった。
 壁越えの策の要であるミドリ。その制御を担っている姉さんの負担になることはなるべく避けたい。というのが本音で、それはそのまま私の口をついて出た。

「いいにゃいいにゃ、りん。気分転換も大事だにゃ。わかばくん、わたしの喋り方、そんなに気になるかにゃ?」
「いや、気になるっていうか、不思議だなー? なんて思ったものですから……」
「わかばは変なことが気になるんだな」「な」
「あはは……でもでも、りなさん達も言葉の最後に『な』って付けるじゃないですか。それも、口癖なんじゃないんですか?」
「口癖な?」「元々は口癖じゃなかったんだな」「でも、今はもう口癖になっちゃたんだな」
「へええ! なんで? なんで? めっさ気になるー!」
「わかば、ケムリクサ以外にも興味があったんだな」
「へ? 僕ってそんなに、ケムリクサ以外に興味がないように見えますか?」
「見えるな」「見えるんだな」

 見える、と私も心の中だけでりなに同意した。

「そ、そうですか……」
「ふふ、みんなが気にならないことに気付くなんて。わかばくんはまるでりょくちゃんみたいだにゃ」

 そう言った姉さんの声は久し振りに柔らかい感じがして、少しだけ心が解れた。私も同じことを思い出していたからだ。
 同列に語るのはあまり気乗りしないが――妹のりょくは、時たま不思議なことを言う奴だった。それを完全には理解しきれなかった私達を指して、『好奇心』に欠けているとあいつは言っていた気がする。
 ならば、こいつはその『好奇心』とやらを持っているのだろうか。
 言われてみれば、りょくも、そしてりょうやりくも、こいつが言うように私達とは違った喋り方をしていた。
 確か、それは。

「……私達は皆、昔は同じ見た目をしていたから」

 妹や姉のことを思い出していたら、自然と言葉が漏れた――が、これはまずかった。自分の迂闊な発言を後悔しても、既に遅く。

「そうなんですか?」

 と、答えた相手の顔が、思いの外近い場所にあったので、後退る。その癖の付いた頭はさっきまで、りなやりつ姉さんの方を向いていた筈なのに。いつの間にか、こっちを覗き込むようにしていた。
 決してびっくりした訳ではないのに、胸元がドクドクと強く跳ねた。

「な、なんだ! ヒトの顔をまじまじ見るな」
「す、すみません……」

 視線が外される。すると、身体の異常は少し和らいだので、私は密かに安堵した。

「でも確かに、りんさんもりなさんもりつさんも、姉妹で顔がそっくりですもんね」

 そんなところを見ていたのか。
 こいつは何にでもすぐに納得する。だけど、別に納得されるようなことじゃない。

「同じ髪型で同じ服装だったら、本当に区別が出来ないかもなあ。すごいなあ」

 こいつは何にでもすぐに感心する。だけど、別に感心されるようなことじゃない。

「互いに識別しやすいように、髪を結わえるようになった。身に付けるものも変えるようにして、喋り方も変えていった」

 だから、姉さんやりなの喋り方は、作られたものだと言えるかもしれない。
 元からおっとりとした気質だから違和感なく受け入れていたけれど。こうして指摘されてから考えてみれば、逆に、姉さんの性格は喋り方に影響されて変化していった可能性もあるのだろうか。

「あれ? でも、りなさん達はみんな同じような感じですよね。何か、理由があるんですか?」
「これがりなちゃんのスタイルなんだな」「りなちゃんズにベストなスタイルなんだな!」「それにそれに」「りなっちと」「りなじと」「りなよと」「りなむは」「全然違うんだな!」「識別には困らないんだな」
「えっ、そうなんですか? ちょっと見ただけだと、僕にはわからないのですが……うーん?」
「わかばは見る目がないな」「な」
「す、すみません……」

 ぴょんぴょん跳ね回るりな達に向かって、ぺこぺこ頭を下げた。元々間抜けそうな顔をしていると思っていたが、どうやら気も弱いらしい。

「あ、いたいっ!?」

 ついでに反射神経も良くないのか。
 ミドリが瓦礫を避けたタイミングで、車体が大きく揺れた。壁に頭がぶつかった音がした。

「ごめんにゃあ、大丈夫ー?」
「あいてててて……はい、なんとか」

 額を押さえて蹲る姿を見て、りながまた高い声を上げて笑った。

「ん? でも、ということは――じゃあ、その時にりんさんも喋り方、変えたんですか?」

 ……よっぽど強く頭を打ったのか。また変なことを思い付いたようだ。
 正直、こいつの考えていることはよくわからないことが多い。

「私は――どうだったかな」

 記憶を掘り起こそうとしてみるが、叶わず。ちらりと車体の前方を見やると。

「うーん? りんちゃんはあんまり変わってないと思うにゃあ」

 ふんわりとした声で代わりに返事があった。ならば変わっていないのだろう。私はりつ姉さんやりなと違って、取り立てて好きなものやこだわりがあった訳ではない。変わるべき指針がなければ、変化は望むべくもない。
 もっと自由に、好きなように生きろと言われた過去もありはしたが、好きなものがない私には難しいことのように思えた。好きなものはないが、大事なものはあった。その大事なもの――姉や妹達を守ろうとした結果が今の私で、その現状に不満を覚えたことも、ない。
 ――まあ、なんにせよ。

「昔の話だ」

 と、私は話を畳もうとする。
 上手くは言えないが、自分の内側を探られるのは、なんだか恥ずかしいことのような気がしたからだ。

「へえー……! でも、なんか良いですね」
「良いって、何がだ?」
「だって、お互いが違う方が、それぞれの良さが分かるじゃないですか!」
「なっ……!」

 反射的に振り向いてしまい、相手を視界に入れてしまったのが悪かった。嬉し気に目を輝かせている様が、私の網膜を刺激する。
 なんだ、こいつは。
 視界が眩しくなる。瞳から入った情報が思考を突いて、頬を熱くさせる。心が散らかっていくようで、得意じゃない。
 私が妹の好きなものを受け入れられたように、こいつの考え方も、いつか理解出来る日が来るのだろうか。と、少しだけ考えてみたが、やはり今の私には想像もつかないことだった。

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