天国に割と近い部屋

01

 阿良々木暦は生きることが好きだけれど、希死念慮を抱くことは決して珍しいことではなくて、それは十八歳になる直前の春休み然り、中学一年生の夏休み明け然り、その他諸々、その都度具体的なシチュエーションは覚えていなくとも、何度となく息苦しさを感じてきたのは真実なのだった。
 死なない人間は居ないけれど、生まれてから死ぬまで一度も死にたくならない人間も居ない。居ない筈である。潔く認めるには少々悲しさが付き纏うけれど、居ないのである。短いようで長い人生、苦しいことや恥ずかしいことを前にして、「ああ、今の失敗無かったことにならねえかなあ」なんてみみっちいことを思うのも、それまで生きてきた自分を否定するという側面で切り取れば、ささやかな自殺願望の一種と見なせる――というのは流石にラジカルな極論だが、生きとし生ける者は多かれ少なかれ自分を殺して生きていると、僕は思う。人間誰しもそういうところはあるだろう。吸血鬼だってそうなのだから。なので、そういうところも愛していかねばならないのだと、学んできたのが僕の青春だったと言えよう。
 ついでに述べれば、死にたくても死に切れない吸血鬼時代や、実際に死んだ大学受験当日の出来事だとかを鑑みて、まあ生きている方が地獄だな、と思うことしきりな訳だが――しかし結局、なんだかんだ生きているのが僕である。どんなに自分を最低な人間だと罵ろうと、最低な人間にも最低限の人権が保障されているのが現代社会。だから、此度己の周りの人間関係がちょっとばかり変化したことによって生じた軋轢に、メンタルを擦り減らされた僕が、高校時代から懇意にしている後輩の神原駿河を捕まえて、
「いっそのこともう死にてえよ……」
 と、嘆いたところで、それは軽口の域を出ないのである。
 遡ること数日前。当時付き合っていた彼女に振られた勢いで誘った焼き肉屋からの帰り道、というシチュエーションも、その場の言い訳になってくれるだろう。この時に感じていた精神的苦痛は嘘偽りのない本物の苦痛で、誰に代わって貰うことも出来ないけれど、それでも僕は忘れる力と立ち上がる力を備えた男の子なのだ。なので、ただ立ち上がるまでの時間が欲しかった。関係の変化を望んだ末、断絶を選んだ元彼女に言わせれば、僕の数少ない美点である立ち直りの早さも行き過ぎれば汚点でしかない、と指摘されたのも悲しい事実だが。だけど、だけどだ。今日のそれもとりあえず口に出して気持ちを軽くしたい、とにかく背負っているものを半分にしたいが為に言った「死にたい」だった。その荷を背負わせる相手が自分を慕ってくれている年下の後輩である、というのが超格好悪いというのは理解しているが、ひとまずは目を瞑って欲しい。僕が運転するクルマの後部座席に座っている、現在に至るまでどんな醜態を見せても尚、僕を慕い続けてくれた年下の後輩なら――神原駿河さんなら、きっとこう言ってくれるだろう。
「良いか、阿良々木先輩。死にたいという気持ちは逃げだ。自殺願望というのは、言い換えれば甘えだ。どんなに辛かろうと悲しかろうと、生きることから逃げるのは悪いことだ。そして、私の尊敬する阿良々木先輩は、そんな逃げ道を選ぶことを良しとするような人ではない筈だ。私の期待は山よりも高く海よりも深いけれど、阿良々木先輩はいつだって私の期待に応えてくれたじゃないか。それでも、今回ばかりはどうしても、阿良々木先輩が自分の脚で立ち上がることが出来ないというのなら、僭越ながら若輩の身であるこの私に、どうかあなたの尻を叩かせて欲しい。あなたが望むなら、私は喜んであなたの尻を叩かせて頂く。いや、決して先輩の健康的な尻を好奇心の赴くままに叩いてみたいだとか、そういう邪な気持ちは――全くないと言えば嘘になるが……いやいや、この期に及んでそんな些細なことは気にしなくても良い。叩く側と叩かれる側とでどちらか選ばなくてはならないとしたら、私は迷うことなく自分の尻を差し出すだろうし」
 ……こんな感じか?
 自分の頭の中で組み立てた後輩の像が思いの外うるさ過ぎて、不要に心を折ってしまいそうになったが……ともあれ、言葉の選び方に多少の差異はあれど、矮小な僕に対してさえ、厳しくも優しい大きな心を以って接してくれる彼女は、今宵も僕を不遜に叱咤激励してくれるに違いない。というか、なんでも良い。どんなにくだらない話題でも、面白おかしい話題で塗り替えてくれれば、それで――と、思っていたのだが。
「そうか……うん。それもひとつの道かもしれないな」
「……えっ」
 実際の神原は僕の泣き言を前にして、まるで得心いったかのように、静かに頷いただけだった。
 意外にも。
 思いもよらず。
 予想だにせず。
 少なくとも、彼女は悪戯に死を肯定するようなタイプではなかった筈だ。
 …………。
 阿良々木暦は今の今まで知らなかったのだが、実は、神原駿河は正道を外れることに存外躊躇がない奴だったのかもしれない。この後輩と奇妙な縁が始まって早二年、知らない一面って案外まだあるもんなんだなあ、と穏やかに分析する気にはとてもじゃないがなれなかった。きっと、僕は期待していたのだ。期待を寄せられていたのは僕ではなく、神原の方だった。期待していて、そしていざその期待を裏切られたことを、少なからずショックを感じている。尻を叩かれたいと望んでいたのも、他ならぬ自分だったというのか……。出来ればずっと気付かずにいたかったぜ。
「僕はもう駄目だ神原……」
 頼むから、どうかそんなこと言わないでくれよ。僕の記憶の中ではお前、いつだって真っ直ぐに走っていたじゃないか。と、縋るような思いを抱えながらクルマを走らせる。しかし、かように落ち込んでみせるのが自分勝手だということも、分かってはいるのだ。
 堪え切れなった溜め息がひとつ、車内に深く響いた。すると、急に後ろから腕が二本するりと伸びてくる。確認するまでもなく、神原の腕だった。そのまま座席ごと僕の上半身が抱き締められたので、反射的に心臓の打ち方がテンポアップした。危うくハンドルを切り損ねるところだったが、理性で押し込めて平静を装う。僕もいい加減、二十歳を迎えた大人なので、このくらいのスキンシップに一喜一憂するようなデリケートハートではいられない。
「そんなことを言わないでくれ。私は阿良々木先輩のことを心から慕っている。だから、あなたが悲しんでいると私まで悲しい気持ちになってしまう」
 そしてここにきて、神原後輩は僕が欲しかった言葉をくれた。
 ……これ、僕じゃなかったら危なくないか? こんなん無実だろうが。このまま法廷で裁判にかけられたとしても、僕、無罪勝ち取れるんじゃないの?
 しかし、彼女の湿った肌には焼けた牛脂とアルコールの匂いが残っていて、ますます訳が分からなくなりそうである。つーかシートベルトしろよ。にこにこ笑顔で僕に抱き着いてないで。あと、僕はドライバーだったので誘った張本人の癖に飲めなかったのだが、神原はギリギリ未成年だったのにアルコールを舐めていた(自分の名誉の為に言わせて頂くと、先輩として一応止めはした)ので、ここでおまわりさんに捕まるとそれこそ社会的に死んでしまう。
 そんな風に、前頭葉が勝手に現実逃避を始めた結果、神原の家へ続く筈の曲がり角を、僕はうっかり曲がり損ねた。

 
02

 未成年の後輩と一緒にウィークリーマンションに身を寄せるのって、もしかして犯罪になる?
 しかし、阿良々木暦は走り出したら止まれない、もとい、転んだら坂の下の下まで転がり落ちるような男なので、その辺りは諦めて欲しい。もう道を突き進むしかない。どの道もう契約しちゃったし。その後のことは契約期間が過ぎた一週間後に考えよう。しかし、せめて罪悪感は薄められねえかなあ、と頭の中で思い付く限りの言い訳を並べながら、僕は新居へ向かう電車に揺られていた。遠方に新しい居を構え、その際二人の足として使っていた自家用車を置きに一旦実家に戻った後、再度契約した賃貸マンションに向かう道中。先に向かわせた神原は一足先に入室している頃だろう。
 ふと、車窓から見える風景の端が、青い色をしていることに気付く。
 窓の外には海があった。
 初めて見たよ、海。
 二十歳を過ぎてそんなことあるのかと、人によっては驚かれるかもしれないが、僕が生まれ育った地元の街は海がない土地だったのだ。しかし、綺麗な海面を確認出来たのはほんの短い間だけで、傾いた夕日と逆方向に位置していたそこは、既に黒い絵の具を溶かしたかのように暗闇を広げ始めていた。さっきまでは確かに青い色をしていたのに、日が沈んでしまうと、その場所はまるで底をなくしたように見えた。海も夜には暗闇になるんだな。知らなかった。
 思えば遠くに来たものだ。

 駅からの道のりの途中にあったコンビニで食料を調達した後、一度もくぐったことのない玄関をくぐる。知らない部屋には見知った神原が待っていて、傷心気味の僕を元気に出迎えてくれた。
「おかえり、阿良々木先輩」
「お、おう……ただいま」
 どもってしまった。眩しい笑顔に気圧された。僕の逡巡をものともせず、神原はそのまま、コンビニの買い物袋を持っていなかった方の僕の腕を巻き取るようにして、身体を絡ませてくる。完全にされるがままだな、僕。それからキッチンに引っ張られていき、買ってきた食品パックを電子レンジに突っ込んだ。……この部屋は台所のなりをしている割に、やけに使用感がないと思ったけれど――そうか、調理器具が殆どないのだ。
「……あのさ、神原」
「ん?」
 レンジの中でぐるぐる回る野菜炒めを眺めながら、未だ腕に張り付いたままだった神原に、僕は訊いた。
「お前はさ、本当に、僕の為なら死ねるって思えんの?」
 つーか、それで良いの?
 怖いとか思わないの?
 降りたいなら降りたいって言って良いんだし、というか言ってくださいお願いします。なんでお前、僕みたいな奴を心の底から信奉してるんだよ。後輩の人生を無思慮に消費しようとしている僕なんか、信じて良い筈がないじゃないか。僕はたまにお前が怖い。
 なのに。
「うん、死ねるぞ」
 神原駿河は、僕の言葉に力強く頷くだけである。
「阿良々木先輩の為になると言うのなら、私に迷いはない。しかし、阿良々木先輩。そう何度も確認されると恥ずかしいぞ。なんだか照れてしまう」
 かような台詞を、いつもの雑談の最中に垣間見せるきらきらした笑顔で言うものだから堪ったものではない。繰り返しになるが、僕は神原に後ろ向きなことを言って欲しい訳ではない。僕への憧憬が――そもそもそれ自体、神原だけが見ている幻に過ぎないのだが――僕の中の彼女を曇らせてしまったのだとしたら、それ以上に悲しいことはないのだから。
「……っ」
「ど、どうしたんだ阿良々木先輩、大丈夫か? とりあえず私を抱いておくか?」
「……こんなテンションで抱けねえよ」
 僕の罪は重くなる一方である。一体いつからこんなことになってしまったのだろう。そんな風にぐずっていたら、気付けば腕の外側ではなく内側に神原がいた。
「抱かないと言った筈だが」
「ならば熱いベーゼを交そう」
「フランス語を交えてねだっても駄目」
 昔、相手の為に死ねるなら、そいつは自分にとっての友達なのだと身体を張って教えてくれた奴がいたけれど、じゃあずっと生きていて欲しいと思った相手のことは、なんて呼べば良いんだろうな。

 
03

 海を見に行ってみたい、と声を挙げたのは神原の方からだった。僕の方は、自分の街から逃げ出したその日に見たあの海の色が記憶に残っていたので、あまり気乗りはしなかったのだが、しかし、後輩たっての願いとあっては仕方がない。それに、僕の我儘に付き合わせ続けてゆうに三週間は経っているので、ずっと部屋に閉じ込めておくのも、そろそろ可哀想だ。
「阿良々木先輩が俗世に染まらない高尚なお方だということは十二分に理解しているが、そんなに厭世家ぶらなくても。私の水着姿が楽しみだと素直にテンション上げれば良いではないか」
「二月の海に水着で入る気か、お前。温水プールじゃねえんだぞ」
 衣食住を共にし始めて随分経つのに、この後輩はいつまでもポジティヴなボケ方をしてくれるから嬉し涙が出そうだぜ。しかし、そもそも隠棲地に水着なんて持って来てはいなかったので、手ぶらで海岸へ向かう僕と神原だった。焼肉店の帰り道に僕を惹き付けた神原の「らしくなさ」は、新しい生活と向き合っている中で、次第になりを潜めていったように思える――のも、やっぱり僕の願望でしかないのかもしれないが。
「あ。手ぶらと言っても、阿良々木先輩が期待しているような手ブラじゃないぞ? 下着はちゃんと着用している。他人の女になった神原駿河は一味違うのだ。そのくらいの分別は付く」
「誰もそんな期待はしていない。手ブラで冬の海を泳いでる奴がいたら、それこそ通報案件だろうが。かえって目が離せねえよ」
 他人の女、に関してはスルー。ツッコミにくいので。
「ふふ、まさか阿良々木先輩の視線を独り占め出来る日が来ようとは。私もえらく出世したものだな」
「言ってろ」
 かようにコメントし辛いツッコミ返しを食らいつつ、沿岸の道を歩いた。砂浜は住処にしていたマンションからそう遠くない場所にあった。そして、この近隣では真冬に浜辺で遊びたいという欲求を抱く輩は少数派らしく、僕達の他に人影はなかった。魚を獲って生計を立てていそうな地元の漁師の人も、季節を問わず一年中海を愛していそうなサーファーもいない。どっちも生まれてこの方、実際に見たことはないけど。
「すごいな、海。久々に見たぞ」
「うん。僕は初めて近くで見た」
 広い。大きい。そして波の音って、結構うるさい。空と海を分かつ水平線はどこまでも並行だった。僕と神原の二人きりという点では部屋の中と同じなのに、場所を変えただけで閉塞感が全くない。まだ太陽が高い位置にあった所為か、水の色は殆ど青だった。良かった、暗闇じゃなくて。
 そして神原は本当に海に入る気でいるらしく、浜辺で靴下を脱いでいた。穿いていたズボンの裾を捲り上げて、裸足の踝を水に浸ける様を、僕は見守る。中々に勢い良く飛び込んでいったので、水飛沫が綺麗に立った。いい加減しつこいが手ぶらで来たので、タオルとか持ってきてないんだけど。どうやって足を乾かすつもりだ。お前のそういう後先考えないところ(は僕も大概だが)、今はちょっと良いなって思えるぜ。
「冷たい! 冷たいぞ阿良々木先輩!」
「だろうな」
「冷たいを通り越して痛い。足の指が千切れそうだ」
 とのことだったが、言葉とは裏腹に、実に楽しそうな様子で、神原はざぶざぶと海に入っていく。遠慮も躊躇する素振りも見せない。このまま放っておいたら、腰から上まで浸かりにいきそう。不意に、頭の片隅に「入水」の二文字が浮かぶ――これ、下手したら、もう帰って来ないんじゃねえの? と、いきなりそんな焦燥感に駆られて、僕は走り出した。初めて触れる海。一歩入っただけでその冷たさに全身が総毛立つ。水飛沫が派手に舞って水面が泡立ち、スニーカーはあっという間に海水を吸って重くなる。濡れた靴下が足指に纏わりついてきて気持ち悪かったが、構わず走った。距離は数メートルもない筈なのに、なんだか神原がとてつもなく遠くに感じた。やっとのことで追い付いて、相手の手首を掴んで引き留める。神原が振り向く。そこには笑顔があったので、ひとまず首の皮一枚は繋げられたような気になれた。息を切らしながら相手の肩を抱く。
「はあ、お前、なんで……あんまり驚かすんじゃねえよ」
「ん? ああ、ちょっと夢中になり過ぎてしまったか……ふふ、阿良々木先輩は、どこまでも私に付いてきてくれるのだな」
「な、なんだよ、それ」
 そういうのが得意なのはお前の方だろうが。
「海は偉大だな、阿良々木先輩。生物の起源を感じる。生命のスープだ」
「あれ? なんだっけそれ。なんか聞いたことある」
「元はコアセルベート説だが、恐らく、阿良々木先輩がご存知なのは新世紀エヴァンゲリオンに出てくる台詞の方だな」
「あー……映画館も、また行きてえなあ」
「行けば良いではないか。いつでも付き合うぞ」
「うん」
 なんて、いつか来るかもしれない映画の公開日について僕達は話した。それ以外にも、これまで多くの話をしてきた。たくさん、色々。生命の源が海であったなら、人生もまた海である。人の一生を空模様で例える人もいるのだから、海に例えたって良いじゃあないか。幸せと不幸せには波があって、希死念慮も生の実感も、寄せては返すを幾度も繰り返している。誰かと一緒に生きている限り、阿良々木暦はどうしたって相手の時間を削りながら生きていて、それに目が向いた時は少し息苦しくなるけれど――実はとても幸福で贅沢なことだと、僕は思う。なのに、しょっちゅう忘れてしまう。どうにも僕は忘れっぽくていけない。だけど、そんな僕を否定してくれるような相手は、ここには居ないのだ。
 ここには神原駿河しか居ない。
 僕がそれを望んだから。
 奥歯を噛み締めながら深呼吸をすると、潮風の所為か、口の中がちょっとしょっぱくなった。
「なあ、神原」
「ん? なんだ?」
「……いや、なんでもない。そろそろ帰るか」
「おう」
 帰る。そうだ、帰ろう。帰るんだ。相手と向き合う覚悟が出来たから。僕らはまた始めなくてはならない。
「ついでに、コアセルベート説を提唱したのはオパーリンという学者なのだが、聡明な阿良々木先輩なら、この人名から何か感じるものがあるとは思わないか?」
「思わない」
 シリアスにギャグを混ぜてくるな。珍しく真面目な感じにまとまりそうだったのに。

 
04

 それから程なくして、どこかの地方紙の片隅に僕達の死亡記事が載った――かもしれない。今生はそういうオチにしておこうか。

 

1

天国に割と近い部屋

01

 阿良々木先輩と心中することになった。
 一応、合意の上なので無理心中ではなく情死に分類出来ると思う。
 あんなにも生きることが大好きだった筈の私の先輩が、一体どうして死を選ぶようなことになったのか。その委細はなりゆきで一緒に死ぬことになった私にもよく分からないのだが、しかし分からずともそういうことになってしまったのだから仕方がない。
 それでも、実行に至るきっかけめいたものはあったのではないかといえば、あれは確か二人でお酒を飲みに行った日のことだっただろうか――否、阿良々木先輩は夜道で愛車を転がしていたから違うかもしれない。あれがアルコールの力を借りた妄言でないのなら、少なからず彼を知り、そして慕ってきた後輩として、ますます訳が分からなくなってしまうのだが。
「僕はもう駄目だ神原……」
 とりあえず、こんな感じの台詞を少なくとも五回は聞いた。運転席でハンドルを握る阿良々木先輩は、見るからに落ち込んでいる様子だった。十人いれば十一人が塞ぎ込んでいると判断するであろう顔色だ。もう新車とは呼べないらしい車内のメーターパネルは法定速度よりやや遅い数値を指し示していて、それはそのまま本人の足取りの重さが表れているようにも思えた。
「そんなことを言わないでくれ。私は阿良々木先輩のことを心から慕っている。だから、あなたが悲しんでいると私まで悲しい気持ちになってしまう」
 後部座席に座っていた私は、前方のシートごと阿良々木先輩を抱き締める。運転免許を所持していない私には、しっかりとアルコールが効いていた。酔って愉快な気持ちになっていたことは否定しないが、彼に捧げた言葉は決して嘘ではないのだ。
「お前は知らなかったかもしれないけどさ、僕はお前に好かれるような立派な人間じゃないんだよ」
「そうか。阿良々木先輩がそう言うのなら、そうなのかもしれない。だけど、阿良々木先輩は頑張っていると思う」
「そうだと良いんだけどなあ」
「うん。どうか胸を揉んで欲しい」
「胸を張って、の間違いだろ」
 心臓の辺りに掌を回す。そのままぎゅうっと握り込むと、相手の身体が強張ったのが分かった。
「うん。でもそうまで言うのなら……他ならぬ阿良々木先輩が望むなら、例えそれが死出の旅路であっても、私はお供させて頂く所存だ」
「神原……!」
 目尻を潤ませながら私の名を呼ぶ先輩は、酷く感動した様子だった。心の中で思っていることをほんの少し言葉にしただけで相手の心をこんなにも動かしてしまえるとなると、なんだか面映ゆい気持ちが沸き上がってくるけれど、一方で阿良々木先輩に喜んで貰えて素直に嬉しい、という素直な思いもある。
 しかし、一体どんなトラブルに見舞われれば、この人の自己肯定力がこんなにも削がれてしまうのか。私の十九年余り続いている人生の中でも高難度の謎のひとつに挙げられるが、まあ十中八九別れた彼女の名が絡んでくるのだろうし、ひいてはそれに近しい友人の存在も絡んでくるのだと思うのだけれど――それをこちらから突くのも酷というものか。阿良々木先輩が私を後部座席に乗せているのは、私が忠実なエロ奴隷だからというのが主な理由だろうが、私が相手だとそういう事情を詳らかにしないで済むから、というバックグラウンドもなくはないだろう。生まれた年がひとつ違うだけで、親しい先輩達との間に薄い壁を感じていた高校生活だったけれど、ここにきて利点を見出せるというのも少し皮肉な話だ。
「ただ、ひとつだけ懸念があるな」
「懸念?」
「処女のまま死にたくない」
「プレッシャーが強い」
「いや、良いんだ。そう気にしてくれなくとも良い。この期に及んでうるさいことを言いたくはないのでな」
「既に十分うるさいよ、お前」
「ん?」
 思い詰めたような、はたまた少し呆れているような声に顔を上げると、すぐ目の前に阿良々木先輩の顔があった。運転席から身を乗り出すようにして、私と目を合わせようとしている。相手の頭越しに確認した信号の色は赤だった。意図が読めなかったので、そのまま黙って静かにしていると、彼は緊張とか逡巡とか葛藤とか期待とか、そういうあれこれを全部まとめて煮詰めたような表情を浮かべたまま、唇をくっつけてきた。柔らかくてふにふにとした感触がくすぐったい。
 どんなに辛くても、どんなに悩んでも、最終的にこういうことが出来る人はなんとか生きていけるんじゃないかなあ、と思わなくもないのだが、提言出来ないのは私が狡い人間だからなのだろう。
 赤だった信号が青になって、黄になって、それから再び赤になってから、阿良々木先輩は正面に向き直った。アクセルが踏み込まれてクルマが発進する。
「でも僕、死んだところで地獄堕ちが確定なんだよな」
「そう悲観的になられるとかえって嫌味っぽいぞ、阿良々木先輩。今日までにあなたが助けてきた人間の数を、私が知らないとでも?」
「尊敬の眼差しで見つめてくれているところ悪いんだけどさ、神原くん。確かに、僕が人を助けた機会は人よりちょっと多かったのかもしれないけれど……僕、吸血鬼まで助けちゃってるし」
「ああー……」
「だからまあ、地獄に行くこと自体に今更文句を言う気はないんだけどさ。あの世はあの世で知り合いが多くなっちゃったから、いざ死ぬのもちょっと面倒っつーか……」
「知り合い?」
「色々あるんだよ」
「ふうん」
 阿良々木先輩は溜め息をひとつ吐いて、それ以上は教えてくれなかった。だからよく分からなかったが、私のような若輩とは経験してきたものや背負っているものが違うということだろう。
 まあ確かに。仔細を説明するとかえって嘘っぽいので、阿良々木先輩に打ち明けたことはないけれど、私も死んだ筈の母の声を聞くことは頻繁にあるし。幽霊を見たこともあるし。そういえば阿良々木先輩にも幽霊の友達がいると聞いている。なので、彼岸で知人を作る機会があったとしても今更驚かない。私も、所謂「あっち側」で死に別れた母親と遭遇し、その際阿良々木先輩といるところを冷かされでもしたら、どういう顔をしたら良いのか困ってしまいそうだ。
 しかし、「怖いから」とか「苦しみたくないから」ではなく「知人に会うのが気まずいから」という理由で地獄行きを渋るというのも、阿良々木先輩らしいといえばらしい。らしくて、そして可愛らしい。
「大丈夫だぞ、阿良々木先輩。たとえ忍ちゃんを助けていなくても、戦場ヶ原先輩や羽川先輩、そして私に手を差し伸べていなくとも、阿良々木先輩が阿良々木先輩である限り、最終的な結果は変わらなかったと思うぞ。世界的に見ても、自殺を選んだ時点で地獄に行くことになる宗教は多いから」
「あれ? お前ってそういうの、信仰してたっけ?」
「無論、私は神様より阿良々木先輩を信じているけどな」

 とりあえず場所を変えよう。どこかで頃合いを見て、そしてどうするか決めよう。そんな感じの軽いノリで、心中計画は曖昧にまとまった。
 あまりはっきりと言ってしまうのもどうかとは思うのだが、要は阿良々木先輩なりの現実逃避なのだろう。お金と時間を掛けた現実逃避。モラトリアムと言い換えても良いかもしれない。ならば、私が口を挟むのは無粋だろうし、形はどうあれ、彼がこの試みに巻き込む相手として私を選んでくれたことには純粋に興味があった。先輩方の背中を追い続けて久しい私だが、たまには一緒に深淵を覗いてみるのも悪くなかろう。と、知らない街の不動産会社で、彼が短期賃貸マンションの契約を結ぶ姿を眺めながら漠然と思った。
 敷金礼金保証人不要の文字列に一抹の不安を覚えつつ、まあ週単位で契約する物件ならそう酷いことにはなるまい、と希望的観測を多分に持って、受け取ったばかりの鍵を鍵穴に差し込んで回す。借りたばかりの部屋は壁紙の色が目新しかった。空気がこもっていたのですぐに窓を開ける。備え付けの家具には所々に使用感が残っていたけれど、ずっと人の気配が近くになかった所為か生活感に欠けていた。生活する為に用意された部屋。なのに家主が存在しない。なんだか言い表しがたい奇妙な感覚があったが、少なくとも私が昨日まで暮らしていた部屋よりは部屋らしい。床が見えるし、片付いている。
 阿良々木先輩から打ち明けられて以来初めて一人になったのはこのタイミングで、ふと、私も先輩と同じような溜め息がせり上がってきた。
 駐車場まで借りると高くなるから、という少し情けない理由で、阿良々木先輩は実家にクルマを置きに行っていた。その後電車を使ってとんぼ返りするらしい。知人が誰も居ない土地に行きたいという願いを汲んで遠方の地に部屋を借りたのに、なんだか目的を見失っているような気もするが――まあ、阿良々木先輩が疑問に思っていないのなら良しとしよう。
 それからは特にすることもなかったので、部屋のフローリングに尻を付けてぼんやりしていた。いきなり身ひとつで連れてこられたので整理するような荷物もない。先輩と一緒にいるうちは気にならなかったが、一人になってしまうと途端に退屈だった。読みかけの小説でも持ってくれば良かったかなと考えて、まあ同じ本を買い直すことなんてしょっちゅうだからまた明日にでも購入すれば良いだろうと思い至り、そういえばこの辺りに本屋さんはあるのかな、と続けて考える。かように、通読しているシリーズものの小説がエンディングを迎えるより先に、自分の人生のエンディングを迎える可能性がある、という現状の問題が今一つ想像出来ていない。現実感と緊張感がちょっと欠けているかもしれない。
 時刻が午後の六時を回った頃にスマートフォンが鳴って、阿良々木先輩から「駅付いた」と「ちょっとコンビニ寄ってく」のメッセージが入る。同時に自分の胃袋がくう、と鳴って、空腹を訴えてくる。阿良々木先輩もお腹を空かせているのかもしれない。私に料理の一切を期待してはいけないぞ、ということは既に彼にも伝えてあるので、きっと何か食べるものを買ってきてくれるだろう。食べることは即ち生きることだと、本の中の登場人物はよくうたっている。正直極論だとは思うし、これまでに自殺した人達が、死を選ぶ直前の夜、須く何も食べなかったのかといえば、それはそれで疑わしいと思うのだが、しかし、本能の近くにある欲に従って行動している先輩からは、少なからずリビドーを感じる。だから、私はこの心中計画を楽観視しているきらいがあった。ここで先輩が食料ではなく、ガムテープと練炭を買って来られたら、流石に考えを改めなければならないが。
 しばらくすると、阿良々木先輩が玄関のチャイムを鳴らした。この部屋のチャイムはこういう音がするんだな、と初めての発見に浮足立ちながら内側からドアを開ける。どんな経緯であれ、住処が変わるというのは非日常的で、少しわくわくしてしまう。
「おかえり、阿良々木先輩」
「お、おう……ただいま」
 如何にも口に馴染んでなさそうなたどたどしい挨拶だった。

 阿良々木先輩が買って来てくれた、温めるだけで食べられる肉野菜炒めに七味を振る。炊飯器は部屋に備え付けられていなかったので、白米も電子レンジで温めて食べるものが用意された。私はこれだけで、なんだかもう料理をしたような気持ちになれてしまうのだが、彼は自ら進んで台所に立つタイプではないのに、この感性には些か否定的だ。だけど、安易に妹や彼女や幼馴染と比べられても困ってしまうというのが私の本音である。人には出来ることと出来ないことがあるし。
「私に出来るのは精々、あなたに付いていくことくらいだ。阿良々木先輩にだったらどこまでだって付いていける」
 と、米を噛みながら伝えると、彼は複雑そうな顔になった。
 しかし、自炊に不慣れな二人だけになってしまって、阿良々木先輩はこれから(短いかもしれない生い)先をどうやって乗り切る心づもりなのだろう? 私の料理スキルの向上を待っていたら、それこそ自然死するより時間が掛かってしまうのではなかろうか――と、そんな冗談はさておいて。
「で。手っ取り早くて確実な方法となると、やはり入水だと思うのだが」
 単刀直入に切り出すと、阿良々木先輩はぎょっとしたような顔になって、箸で摘まんでいた玉葱をぽろり、と取り落とした。すかさずレトルトご飯の蓋でキャッチする。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、神原。少なくとも、食べている最中にそういう相談は止めようぜ」
「うん? そうか?」
「食欲失せるだろ」
「まあ……一番苦しい死に方だと聞くからな。溺死。だからこそ私は惹かれるのだが」
「死に方にまでストイックさを求めるな」
「私はどこに出しても恥ずかしくないマゾだ」
「はあ……それがお前のすげえところなんだって」
「すごいところ?」
「僕の生涯には恥しかなかったぜ」
 軽口の延長線上で、阿良々木先輩は眉間に皺を寄せた。彼が私を褒めるようなことを口にするのは、なんだか珍しいような気がした。相手の箸から落ちて受け止めた玉葱を噛み締めながら、その意図を少し想像してみる。砂を噛むような感触をじっくりと確かめていたら、先輩の言いたいことも分かるのではないかと期待したけれど、やっぱり上手く分からない。元来、私はものを深く考えることが得意な質ではないのだ。
 床を食卓にしてご飯を食べた後は、部屋と一緒にレンタルした寝具に二人で丸まって眠った。手続きの関係上、水道の開栓は明日からだというので、上手くいけば早朝には熱いシャワーを浴びることが出来るかもしれない。全く馴染みがない毛布の匂いに包まれ、何かを期待しながら瞼を閉じる――これは余談なのだけれど、ベッドはひとつ、布団もひとつで、これはいよいよ処女を貰って頂けるのではないか? と、密かに覚悟を決めていたのに、先輩は早々に健やかな寝息を立て始めた。解せない。
 ……まあ、良い。また明日にでも改めて、抱いて貰えるようねだろう。
 閉じた瞼を持ち上げて、相手の寝顔が狸じゃないことを確認し、今度こそ目を瞑る。阿良々木先輩の体温が未だかつてない程近い場所にあって、それが遠くない将来、世界から消えてしまうものだとは到底思えなかった。

 
02

 それからあっという間に一週間が過ぎて、何事もなくウェークリーマンションの賃貸契約は満了し、阿良々木先輩はもう一週間分契約期間を延ばした。

 
03

 そして三週間目に突入して、流石の私でも何かがおかしいことに気付く。だけど、その違和感の正体がなんなのかを説明することは叶わず、私はすっかり自分の匂いに馴染んだ布団の中で亀のポーズになっていた。阿良々木先輩は自身が幼少期から積み立てていたお小遣いから、つまりは俗に言う「お年玉貯金」というやつから家賃を捻出していたらしく、それがまもなく底をつきそうだということで、二、三日前から求人誌を眺めている。生きることを疎ましく思いながら、明日のお金の心配をしている。
「我ながら随分と親不孝な使い方をしちゃったぜ……」
 と、物憂げに呟く彼の横顔が格好良かったかどうかを問われると、答えに困るのが正直なところだったので、訊かれなくて助かった。
 ちなみに、このご時世にどうしてインターネットで求人情報を探さないのかといえば、スマホの電源を入れたら最後、妹二人(時々親)からの着信の嵐が吹きすさび、ネットサーフどころじゃなくなるから、だそうだ。失踪して三週間が経った今でも新鮮な鬼電を入れてくれる妹さんがいるとは、阿良々木先輩は流石である。いや、この場合凄いのは火憐ちゃんと月火ちゃんかな?
 毛布から頭を出し、相手の様子を伺う。以前と比べて、阿良々木先輩の顔色は幾分か良くなったような気がする。目の下にクマも作ってない。それこそ三週間前、クルマのシートの上で初めてべろちゅーした時よりは元気そうだ。少なくとも今すぐ死んでしまうような様子には見えない。
 ならば、この茶番はいつまで続くのだろうか。
 死ぬ(かもしれない)までの短い間にも、私は新しいことをいくつか覚えた。この年になるまで、同世代の異性と暮らしたことがなかったので、先輩との日々は発見の連続だった。キッチンの蛇口をひねれば水が出るのに、阿良々木先輩はわざわざコンビニでミネラルウォーターを買うということ。コーヒーよりも紅茶を嗜むということ。だけど紅茶よりもっと好きなのはコーラだということ。だけど両親の教育の賜物(本人は弊害と言っていた)か、大人になっても思う存分好きなだけ炭酸飲料を飲むのは気が引けてしまうということ。どんなに好きでもどうにもならないことがあること。自分の好きと付き合っていくのは難しいということ。阿良々木先輩は生きることが好きで、言い換えれば自分が生きている世界に存在する大半のものが好きで、好きでいたくて――だけど好きでいたいだけではどうしようもなかったということ。この生活が始まってすぐの頃、私は阿良々木先輩が好きな色だと言っていた水色の下着を買い足したけど、実はあまり気にされていないこと。行為が本当に気持ちが良いものだと知ったのは二週間目のことだったけど、阿良々木先輩はベッドでするのが好きで、しかし私は風呂場でするのが息苦しくて中々気に入っていること。一度だけそういう雰囲気になったので、戯れに首を絞め合ってみたら、阿良々木先輩が泣いてしまいそうになったということ。本人は格好悪いと恥じていたけれど、私は全然気にならないということ。阿良々木先輩は阿良々木先輩で、私はどう頑張っても阿良々木先輩にはなれないけれど、しかし阿良々木先輩も私と同じ人間なのだと知れたのは嬉しいということ。だけど、猿の手を失って久しい筈の私にも、人間を殺す力はあるのだということ。
 そんなことを沢山覚えた。
 覚える度に、この人が死んでしまうのはやっぱり勿体ないなあ――なんて。かつて「阿良々木先輩なんか居なくなってしまえ」と願ったことがあるのは他でもない自分なのに、そんな都合の良いことを考えて。成程、戦場ヶ原先輩は、私のことを都合の良い後輩だと評していたけれど、かような様を見抜かれていたのかもしれない。
 阿良々木先輩の伸ばしっぱなしの長い前髪を見つめていたら、相手もこちらを向いた。御眼鏡に適うアルバイトは見つからなかったらしい。求人ペーパーと付属の履歴書が脇に放られて、それからこちらに手が伸びてきた。その手付きが恐ろしく遠慮がちな様子だったので、私は腹を見せるつもりで目を瞑ってやると、やっと緊張が解けたように頭髪を触られる。阿良々木先輩は女の子の髪が乱れている様はあまり好きではないらしく、布団の中で絡まった私の髪をよく手櫛ですいた。その度に、私はまるで猫か何かにでもなったような気持ちになる。しかし、阿良々木先輩は猫が苦手だという。
 とどのつまり、三週間目に得たのは穏やかな時間だった。多分、この頃合いで、私が元スポーツ少女らしく「ちょっと外に身体を動かしにでも行こう」とでも誘えば、阿良々木先輩の抱えている生き辛さや苦しさの大半は、とりあえず押し流してしまえると思う。先延ばしにすることは解決方法のひとつだと、過去から私は学んでいた。だけど、それを今、提案する気になるかと言えば。
 …………。
「そもそも阿良々木先輩って死ねるのか?」
「さあな。実際二回くらい死んだことあるけど、結局生きてるしな。多分、そこでタイミングを見失っちまったんじゃねえかな」

 

1

「なんだか心持ちが良くないのだ」
 と、のっけから不穏な空気を纏わせながら、神原が僕の頭頂部に顎を乗っけてきた。いや、僕はお前の顎置きじゃないし、僕の献身的な奉仕活動(清掃)をそうも簡単に邪魔出来るお前の気持ちが分からないし、それに一応、僕ってこれでもお前の先輩なんだけどな――と、つまらない恨み言の類が雨上がりの筍の如くぽこぽこと脳裏に浮かび、そしてすぐに霧散していき、結局最後には何ひとつ残らなかった。というのも、僕の首の後ろにいやに積極的に押し付けられている何やら柔らかな感触が、僕の思考を丁寧に相殺していくからである――いやいや、神原くんとの戯れもそれなりに熟れてきたつもりだったが、こうも斜め上の攻め方をしてくるとは、中々どうして侮れない。成程、阿良々木先輩が少なからず慢心していたことは認めよう。しかし、後輩のさり気ないようでいて実はあからさまな主張に対し、そう易々と屈する訳にもいかないのが先輩というものだ。僕にだってプライドがある。あるのかないのか分からない――そんなもん、寧ろ神原の部屋のゴミと一緒に潔く捨てちまった方が生きやすいんじゃないかと、よく議論の対象に挙げられるようなプライドが。オブラートの如く薄くて柔らかいプライドが。
「さて、聡明な阿良々木先輩なら、ここで私が何を言いたいか、分かってくれるのではないかと思うのだが――」
「しない」
「え?」
「しないからな」
「ま、まだ何も言っていないのだが……まさか本当に阿良々木先輩が私の心を読んでくるとは思わなかった。実は空気が読めるお人だったのだな、私の阿良々木先輩は。私はそういう方面が不得手なので、是非とも読み方を教えて欲しいものだ」
 言って、神原の顎の位置が頭部から肩に降りていく。その動作が異様にゆっくりとしたものだった所為か、図らずも己の心拍数が上昇してしまった。頭が隣り合ってすぐ、そのまま頬を猫のように擦り寄せられ、肌と肌との接触面積が増える。久方振りに自分のものではない体温に触れて、背筋にぞくりとした何かが走った。まるで身体の奥の一番柔らかい場所を優しく撫でられているかのようだ。不味い、これは不味い気がする。こんなことで白旗を挙げたくはないのだが、もう逃げ場がなくなってしまったような気持ちになる。いやさ、そもそもさ、お前が本当に空気が読めない奴なら、そんな手練れな誘い方を選ぶ筈がねえだろうが。今度こそ文句を言ってやるからな、と睨み付けてやるつもりで相手に視線をやると、丁度神原は僕に向けてウインクをひとつして見せたところだった。殆どゼロ距離に近い、超至近距離で。……如何にも冗談めいた所作だったから、本人の中で深い意味はなかったのかもしれないが、しかし、僕がなけなしの矜持で死守していた最後の一枚のオブラートが破れたのはそのタイミングだった。畜生、可愛いじゃねえか。

0

 阿良々木先輩が今から家に来るというので、これは今日こそ抱いて貰えるのでは、という期待を込めながら通話終了ボタンを押した。場を盛り上げる為の手数を惜しむような私ではないので、得意ではない下着と服をしっかりと着用して彼を出迎えたのは、うららかな春の日差しが快い五月の第二日曜日のことだったのだが、神原家の玄関をくぐった彼の表情はどうしてか冴えない。後輩を抱くのにそんな心持ちではいけない。一体何があったのかと訊けば、
「妹と喧嘩をして家を追い出された」
 のだと言う。はて、どこかで聞いたような話だ。
「それは、あれだよ。去年の母の日に――……あ」
 言いかけて、それきり阿良々木先輩は気まずそうな顔を湛えたまま黙ってしまったので、結局理由は聞けずじまいになった。まあ良い。妹と喧嘩をして凹んでいるのだと、ここは単純に捉えておくことにしよう。日頃は空気を読むのが苦手な私だが、十八歳の神原駿河であればそのくらいの気は遣える。
「あんなに可愛い妹と喧嘩をするなんて、贅沢なお方だな、阿良々木先輩は。それで、どちらの妹さんと喧嘩したんだ?」
「両方。しかも珍しく三つ巴。喧嘩してんだから可愛くねえよ。つーか、お前には言ってたんだっけ? 僕、一年前も同じ轍を踏んでるからな」
 自分の小ささが嫌になるぜ、と阿良々木先輩はため息を吐いた。どうやら治まらない腹の虫は火憐ちゃんや月火ちゃんへ向けられる代わりに、自己嫌悪へ転換されているらしい。
「ふむ。それで気晴らしに私を抱きに来たという訳か。ならば身体を貸すのは吝かではないぞ」
「生憎だが、神原くん。親不孝と罵られた日に後輩と抱き合える程の強い心臓を、僕は持ち合わせてはいない。いくら僕でもそこまで最低な兄にはなれねえよ」
「伊達に中くらいの妹の称号を貰っている訳ではないぞ? 阿良々木先輩も来年から成人なのだから、互いが未成年のうちに済ませておいた方が面倒が少ないのではないか?」
「面倒なのは今現在のお前への対処方法だよ」
 部屋は散らかっていたけど、スケジュールになかった家庭訪問時に私の部屋を片付けようという気は起きないらしい。珍しくやる気のない阿良々木先輩は、床に散乱したBL小説単行本の隙間を縫うような形で大の字になる、という器用な芸当を私に見せてくれた。
「うーん……私には喧嘩をするような可愛い妹がいないので、あまり良いアドバイスは出来そうにないな」
「いや、アドバイスを貰いたくてお前の家に来た訳じゃねえから、それは良いんだけどさ……恥ずかしい話、ただ逃げてきただけだし」

 話は変わるが、私は一人っ子なのできょうだい喧嘩をした試しがない。というか、家族を相手に喧嘩をした記憶があまりない。
 とりあえず、おじいちゃんやおばあちゃんとはない。一緒に暮らしていれば叱られることはあるし、一度ならず二度三度反りが合わずに気持ちがささくれたことくらいはあるけれど、私には阿良々木先輩の如くへそを曲げて家出に至った経験はないので、喧嘩と呼べる程のものでもないだろう。
 親子喧嘩くらいはしたことがあったのかな? と、記憶を漁ってみたのだが、少なくともお父さんとは派手な喧嘩をした覚えがなかったし、母は今も昔も怖いが故に私が一方的に畏まってしまうので、やっぱり記憶になかった。
 なので本音を言えば、私は阿良々木先輩の悩みを正しく悩みとして受け止められていないのかもしれない。そう考えると少々心苦しい気持ちはあったが、しかしそんな私でも話くらいは聞ける筈だと、一度堰を切ってからずっととめどなく溢れる愚痴(そう大層なものでもない。後になって振り返ると、単に妹が可愛くて可愛くて仕方がないって話だったのではないか、とも思わなくもない)のお相手をしていたのだが。
「お前だけだよ、神原……僕の話を真剣に聞いてくれるのはさあ」
 なんて、彼は今にも私に縋りついてきそうな勢いで弱音を吐いた。いつもは厭世家ぶっている阿良々木先輩からはすっかり棘が抜けてしまっていたので、下のきょうだいと付き合っていくのはとても大変なものなのだな、と家族のことなんて何も知らない身で思う。
「僕だって、何も考えずに生きている訳じゃあないんだぜ?」
「そうだな」
「ただ分かってはいるんだよ。妹二人に責められて、後輩に慰めて貰いに来ているこの状況が超恰好悪いってことは」
「そうだな」
「少しは否定してくれない?」
 対応を間違えたのか、阿良々木先輩は床に寝転がったまま不満そうに眉根を寄せた。酔っ払いの如くくだを巻く彼は、いつになく自分に正直な様子だった。先輩の知らなかった一面を垣間見たような気になったし、少し可愛らしいと思う。
「しかし、阿良々木先輩も中々どうして良いお兄ちゃんではないか」
「なんでだよ」
「またとぼけちゃって。阿良々木先輩はわざと家を出ることで、今回対立していた火憐ちゃんと月火ちゃんが共通の敵に対し、共同戦線を張れるようにしたのだろう? いくら愚直な私でも、そのくらいのことは分かるぞ」
「……改めて指摘されると恥ずかしいから止めろ」
「そうなのか? あなたの羞恥心は少し難しいな」
 阿良々木先輩が甘え出してから終始そんな感じだったので、多分、神原駿河は愚痴を聞くのがあまり向いていないのだが、私も年下の身であるのでご寛恕願いたいところだ。
 しゃがんでいた私の足首の近くに転がっていた頭を撫でると、阿良々木先輩は何かに感じ入ったかのように肩を震わせて、小さく呻き声を漏らした。それをしばらく続けていると瞼が開いた。そして、それまでろくに見ていなかった私の顔に視線を合わせてから、
「僕さあ、お前のことは仲の良い後輩として見ているから抱けないけど、妹としてなら抱けるかもしれない」
 と、言った。
 ……ん? なんだか話の軸が歪んできた気がするぞ?
 ただし、開いた目の奥を覗く限り、阿良々木先輩はとても真剣だった。真剣だからこそ困るのだが。
「私は一人っ子なのでそういう事情はよく分からないのだが……と、前置きした上で問わせて頂くぞ、暦お兄ちゃん。それは兄と妹間のふれあいとして適切なものなのか?」
「? 阿良々木家基準では割と普通だけど」
 心底当たり前だとでも言いたげな顔で先輩はのたまったが、残念ながらここは阿良々木家ではなく神原家なので、そのローカルルールが適用されるかどうかは微妙なラインである。あと、私は阿良々木先輩とあまり上手に喧嘩が出来ないので、私達はきょうだいにはなれなそうだな、とも思ったが――まあ、気持ち良く抱いて貰えるならなんでも良いか。

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#リプ来たキャラに自分の私服を着せる

05

「おお、気が付いたか。阿良々木先輩」
「んー……?」
 目が覚めると、僕は神原の背中に乗っていた。
 高校時代の後輩女子におんぶされている成人男性(職業:おまわりさん)の姿がそこにあった。ていうか、僕だった。
 安定した乗り心地は、流石元アスリートの貫禄とでも言ったところか。心地良いリズムで上下する背中は中々どうして僕を安心させたけれど、はて。一体全体、僕は何をどうしてこんなシチュエーションを招いてしまったのだろう。
「おや、忘れてしまったのか? 久しぶりに会ったから食事にでも行こう、と私を誘った阿良々木先輩は、酒が入って早々、私を人気の無い裏路地に連れ込んで――」
「いないことは分かった。お前の発言で」
「連れ込んではいないが、潰れてはいたな。飲み過ぎは体に毒だぞ」
「……面目ない」
 お酒は弱い方ではない。普通だと思う。
 しかし、久々に帰った地元で、旧知の顔を見ながら飲む酒は予想以上に美味しくて、どこかテンション上がっちゃっていたことは否定出来ない。
 先んじて社会人になったというのに、後輩に見せなくても良い筈の失態を見せてしまい、どうしても頬が熱くなる。
 それとは対照的に、爪先がすーすーするなと思ったら、どうしてか僕は裸足だった。
 ……僕の靴は?
「そうだ、阿良々木先輩。言い忘れていたが、ちょっと靴を借りたぞ。私の靴だと歩き辛かったから」
 僕の尻を支える掌。その指先でくぐもった音がした。どうやらヒールの踵同士がぶつかる音だったようだ。
 先程一緒に入った居酒屋の座敷席で、神原が黒地のパンプスを脱いでいたことを思い出す。いつの間に大人になってしまったんだ……なんて、僕が密かにショックを受けていたことは秘密だ。かと言って、彼女はまだ学生だから、相応にカジュアルな生地のそれだったけれど。それでも四年前、神原の部屋を掃除していた時代には目にしなかったタイプの履物だった。
 勝手に僕の靴を拝借するのは、行儀が良いとは決して言えないが、介抱して貰っておいて文句を並べるのも野暮だろう。それに――飲み過ぎてしまった理由をもう一つ挙げるとするならば、それは寂しさを紛らわす為だったのかもしれないし。
 僕の靴を穿き、僕を背中におぶって、夜道を歩く神原。
 なんだか前にもこんなことがあったような、なかったような。しかし、あの時背中に乗っていたのは、僕の方じゃなくて――
「懐かしいなあ……覚えているか? お前のことをおんぶして一晩中歩いた時とか、あったよな」
「勿論覚えているぞ。夏休み明けのことだろう? 確か、阿良々木先輩は一晩掛けて、私の肉体を堪能したんだったな」
「どうやら神原くんは覚えていないようで阿良々木先輩は残念だよ。思い出を都合良く改ざんするな」
「おや? 阿良々木先輩は、あの日の私がノーブラだったことを忘れてしまったのか?」
「それは積極的に忘れてしまいたいな」
 堪能するのは記憶の中だけで十分だ。流石に、二十二歳の神原駿河はちゃんと下着を着けているだろうし。きっと。恐らくは。僕が掌を置かせて貰っているそのYシャツ(襟元にキラキラしたものが付いているけれど、こういうの、ビジューって言うんだっけ?)越しの事情は、ここでは敢えて探ろうとしないけれど……僕はお前のこと、信じてるからな?
 僕の靴が合わないのか、彼女が歩く度にぺたぺたと地面を擦る音がする。おろして間もない革靴の底が減ってしまわないか心配になったが、口には出さなかった。
「しかし、まさか神原がヒールを穿くようになるとはなあ……」
「ん? 何をセンチメンタルな声を出しているのだ。昔を思い出して元鞘にでも戻りたくなったのか?」
「そういう付き合ってた奴っぽいこと言うの止めて。お前と元から収まる鞘なんてなかったから」
「私の背中でため息を吐かないでくれないか? ほら、幸せが逃げてしまうだろう」
「今僕が付き合ってる奴っぽいことを言うのも止めて」
「具体的に言うと、呼気がちょっと酒臭いから、ちょっと息を止めていてくれる気はないか?」
「今やひたぎさんだってそんな辛辣なこと言わねーぞ!」

 

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「こんなところに居たのか、阿良々木先輩」
 と、神原駿河は仕事着(バニーガール衣装)で、喫煙室の透明なドアを押し開けてきた。反射的に、僕は吸いさしの煙草を後輩の身体から遠ざける。フィルターはまだ長かった。
「休憩していると聞いて、随分探したんだぞ」
 そんな僕の配慮はつゆ知らず、神原は不服そうに頬を膨らませた。かように懐いてくれるのはありがたいが、実のところ、僕はこいつをまく為に喫煙室に避難していた側面もあるので、なんとも言い難い。
「これ、終わったら行くから」
 だから、ぶっきらぼうに投げた言葉には、素直に「応」と返事を貰うのが僕の理想だったのだが、
「そうか。ならば私も一緒に待とう」
 神原が選んだのは真逆の意思だった。……まあ、そうなる予感はしてたけどな。
 となると、僕に出来ることと言えば早めにニコチンの摂取を終えてしまうことくらいなので、少し深めに息を吸った。細く煙を吐き出す僕を見て、神原は言う。
「なあ、阿良々木先輩。私にも一本くれないだろうか」
 掛け値なしに愛想の良い笑い方だった。
 これもまた予想していた流れで、だから僕は日頃こそこそと喫煙所に通う羽目になっているのだが――とにかく、どんなに愛らしくおねだりされようと、返事はまたいつも通りのものを返すべきだと、僕はまた煙と一緒にため息を吐く。
「駄目だ」
「どうして?」
「身体に悪いから」
「ならば阿良々木先輩も禁煙するべきだ」
「僕は良いんだよ」
「阿良々木先輩が吸っているものなら、私も吸ってみたい」
 兎を模した耳飾りが、僕の心を試すように揺れる。

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