泡沫に泳ぐ魚

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06

 進展がないまま一週間が経過した。
「まもなく直江津高校でもプール開きですが、駿河先輩は水着のご用意はお済みですか?」
 わざわざ昼休みに三年生の教室を訪ねて来る程、彼は私を慮ってくれているのか、はたまた面白がられているのだろうか。きっと後者なのだろうなあ、と私は今日も忍野扇くんの顔を見ながら思う。
「……きみの嫌味は冗談にしては面白くないな」
 しかし、連日に渡る『溶解騒ぎ』で少なからず疲弊していた私は、後輩の笑えない冗談に対し、何ともつまらない皮肉を押し出すだけで精一杯だった。
 阿良々木先輩だったら、ここでもっと気の利いた返しをするのかもしれないな、と携帯電話に溜まった未返信のメールの数々に思いを馳せる。そろそろ誤魔化しながらエロ話をするのも苦しくなってきた頃で、先輩にも後輩にも薄情に振る舞ってしまう自分を、少しだけ情けなく思った。
 ともあれ、プール開きか。
 教室の窓から見える空の色は、連日の曇天の気配を感じさせない爽やかな青だった。まもなく天気予報で梅雨明けが発表されるだろうし、そうなると、体育の時間に水着を持って来いと指示が出るのも時間の問題だ。
「楽しみですねえ。駿河先輩は一体どんな官能的な水着を着るのか、今から期待が高まりますね」
「その期待はいくら高めても無駄だぞ? いくら私でも、学校の授業はスクール水着を着るよ」
「おやおや、それはファンとしてがっかりですね。僕は駿河先輩のきわどい水着姿を見る為に直江津高校に入学したと言っても過言ではないのに」
「過言だろ」
 何かと私を仰ぐことが多い扇くんだが、残念ながら神原スールの残党向けに、そんなファンサービスは提供していない。というか、スクール水着以上にエロい水着も中々ないとは思うのだが(学生のうちしか着れないし)……いや、この話題を掘り下げるのは止しておこう。
「まあ……きわどい水着はないにしても、今年もプールに入ること自体、無理だろうな」
 言うまでもなく、私は身体が溶ける現象が収まらない限り、水泳の授業は欠席するしかないだろう。
 はてさて、今年はなんて言い訳をしようか。二年連続で、となると、相応の理由を考えねばなるまい。
 こう事情が複雑になってくると現金なもので、早々に『左腕が治りました!』と公表するべきじゃなかったかと、ちょっとした後悔の気持ちも覚える。取り戻した日にはあんなに喜んでた癖に、我ながら皮肉なものだ。
 なんて算段を立てていると、やはり日傘は『友達』というだけで随分と甘やかして貰っているんだなあ、と遅まきながら感謝の気持ちも覚えるのだった。
「うーん、それは残念ですね」
 さして残念そうにも見えない笑顔のまま、私の水着姿を惜しがってくれる扇くん。
 この子は本当に、良い性格してるよなあ……。
「冗談はさておき」
 冗談だったのか。
「プールという着眼点は、我ながら悪くはないかと思ったんですけどねえ」
 と、扇くんは私の机に肘をつきながら、見解を述べる。
「ほら、今回のキーワードは『水』ですし。解決の糸口が見当たらない今、身近な水回りを調査することは決して無駄ではないと思うのですが」
「んー、まあ……そうなのかな?」
 些か強引な案の様に感じるが――確かに彼の言う通り、打開策が見当たらず、現状、停滞気味であることは事実である。
 だから肯定的な返事をしてはみたものの……正直、本能的に水辺に近寄りたくない、という気持ちもなくはないのだが……。
「まあまあ、ちょっと調べてみましょうよ。実際に体を動かしてみた方が、新しい発見があるかもしれません。駿河先輩だって、考えるより動く方が得意でしょう?」
 放課後に屋上の入り口で会いましょう。
 と、扇くんは言い残し、さっさと教室から出て行ってしまうのだった。私が待ち合わせ場所に来ることは始めから決まっている、とでも言うような口ぶりで。
 だから、私の意思などあってないようなものなのだ。

 直江津高校のプールは、実は屋上にある。
 私は、水泳の授業は一年生の時に受けたきりなので、体育会系女子ながら今ひとつ馴染みの薄い場所なのだが。
 しかし、プール開きより一足早い訪問にもかかわらず、おあつらえ向きに水が張られた五十メートルプールを前にすると、どこか清々しい気持ちになるのだった。
 煌めく水面。どこか懐かしい塩素の香り。
「言うまでもないですが、駿河先輩、くれぐれも落ちないでくださいね」
「分かっているよ」
「今落ちたら洒落になりませんからね。制服が濡れて下着が透けてしまった、なんてラッキースケベでは収まりません。駿河先輩の肉体ごと透けてしまっては、僕にとっても残念な結果になりますし」
 そんな、色んな意味で物騒なことを言われても。
 とにかく、目の前の液体に対し細心の注意を払いながら(私は隣に立つ扇くんに対しても警戒しながら)、私達はプールサイドに立つ。
「いざ調べに来たのは良いんだが……うーん、うちの風呂とは違って、直接的に何かがここで起こった訳でもないからなあ」
「そうですねえ……でも、駿河先輩は左手のことがありましたし、プールの授業は一年生の時しか受けていないんでしょう? どうしても裸でプールに入りたかった、という駿河先輩の執念が怪異現象として具現化した可能性は捨てきれないと思いますが」
「捨て切れ、そんな可能性。私はそんな執念を抱き続けられる程、ハイテンションな奴ではない」
「元はあなたの発言なんですけどね。ドラマCDのあれです」
 と、やけにマニアックな話(何故扇くんが知っているんだ?)を挟みながら。
「しかし、この説を捨てるのはやや早計ですよ? 怪異にはそれにふさわしい理由がある――人間の想いや執念だって、十分な理由になり得ますから」
 なんて、悪ふざけの延長で、急に専門家の端くれのようなことを言い出す扇くん。その辺りは流石、忍野さんの甥っ子と言ったところだろうか。
 その見方は正しいのかもしれない。
 私が猿の手を動かしたのも、単に母が残した木乃伊のパーツが手元にあったことだけが理由ではない。
 私は自分で願って、あの悪魔に阿ったのだ。結果、私は自分の想いを、ひいては受け入れることが出来なかった自分の暗黒面を、悪魔として顕在化させてしまった訳だが。
 人の想い。
 執念。
 そう、沼地のことだって――
 三年前に自殺したあいつが、人の不幸を集める怪異としてこの世に留まっていることだって、突き詰めれば彼女自身の執念が体現化しているようなものなのだろう。
 沼地自身は『怪異は適当でいい加減なものだ』と主張しているが、彼女の存在自身が怪異の存在理由を裏付けしてしまうとは、どこか皮肉な話である。
 ……ふむ。
 実らなかった気持ち、か。
「でも……まあ、流石の私も、水着で登下校したかったとか、裸でプールに入りたかったとか、そんな冗談をいつまでも引き摺りはしないよ」
 と、後輩には一応、否定の意を見せておく。
「改めて言葉にされると冗談じゃすみませんけどね、そのロマンは。しかし、惜しかったですねえ。僕がもう少し早く生まれていれば、あなたの裸体を――いえ、水着姿を拝めていたかもしれないのに。実に無念です」
「きみって、偶にさらっとエロいこと言うよな? 女子の裸体がそんなに簡単に見れると思うな」
「空耳でしょう? 安売りしていたのは他ならぬあなただと言うのに」
 そんな風に、扇くんは私の小言をへらりとかわして。
「しかし、安心してください。今からでも遅くはありません。幸いにもプールサイドには僕と駿河先輩の二人しかおりませんし、絶好の機会です。さあ、駿河先輩、どうぞ裸でご入水ください!」
「だからそうやって、流れるように人を陥れようとするな! しかもきみは、私の置かれている状況を分かった上でわざと言っているよな!?下手をすれば私を殺そうとしているよな!?今この場で全裸入水したら、物理的にも社会的にも死ぬよ!」
 まったく。
 相変わらず人をおちょくるのが好きだな、きみは。
 あまりの物言いに、いっそのこと私ではなく扇くんを水の中へ突き落としたくもなったのだが、声を張り上げただけでなんだか無性に疲れてしまった。
 はあ、とため息を吐く。「幸せが逃げちゃいますよー」と耳聡く声を掛けてくる扇くんは無視。
 この先、彼からまともな意見を期待するのは諦めた方が良さそうだ。元々、自分が抱えている問題なのだ。人任せにせず、自分で考えるべきだろう。
 陽の光が反射する界面を改めて眺める。
 こうしてまじまじ見ていると分かるけれど、水面の模様って、一度として同じ形のものは見られないんだよな。そう思うと、水鏡なんて随分と不確定性の強いものなんじゃないか、なんて気持ちも湧きおこらなくもない。
 うちの風呂の水にまつわるいわくなんて、怪異譚というよりは、半ば迷信染みたおとぎ話に近いのかもしれないが……しかし、最近は湯船に浸かる機会そのものがとんとなくなってしまったから、水面に誰が映るのか見ていないな。
 なんて、底が見える程澄んだ水の層を、じっくりと見分していると。
「……ん?」
 うちの風呂の水面ではなく。
 目の前の、学校のプールの水面に映っていたのは。
 私と、扇くんと、それから。
 あの日、自宅の湯船で見たものと同じ影だった。
「駿河先輩?」
「……え?」
 迂闊だったと思う。
 反射神経は決して悪くなかった筈なのに。末端神経が鈍っているというか。まるで自分の身体が自分のものでないみたいに――自分と自分じゃないものとの境目が、次第に分からなくなっていく。
 それこそ水に溶けていくような――
 そんな夢心地の意識のまま、不用心にも、私は水底に沈もうとしていく影を追おうとして。
「っ……!?」
 瞬間的だった。
 いきなり水面から伸びて来た尾に腕を絡め取られたかと思うと、強い力で引っ張られた。
 流れに逆らえず、あっという間に重心が傾く。プールサイドの縁を掴んでいた自分の足の指は簡単に外れてしまった。
 あ、どうしよう。
 流石に頭からはまずい気がする。
 と、後悔しても遅く。まさしく『覆水盆に返らず』と言ったところか――この場合、こぼれた水は私自身になるかな?
 なんて、ふざけたことを考えながらも、落下を防ぐことは叶わなくて。
 ざっぱーん、と。
 人間一人が落ちた時相応の大きな水音が、私の耳の奥でくぐもった響きを立てた。
 輝く泡で一杯の視界を、瞳に入った水が歪ませる。
 ――あ。
 水に触れた瞬間、私の意識は流された。

 
07

「薬になれなきゃ毒になれ。でなきゃあんたはただの水だ」
「……近頃の私は、本当に水になってしまいそうで、恐ろしいです」
 聞き慣れた母の言葉が、そこにはあった。
 親の一番の決め台詞に可愛げもなく答える私。娘に宛てた母の教えも、窮地に立たされた今は嫌味にしか聞こえなかったからだ。
 相も変わらず余裕の笑みを湛えている母親に対し、少しくらい反抗の気持ちを抱いたとて、許されるのではなかろうか。しかし、愚かな娘の反発的な態度は、偉大な母には何のダメージも与えていないようだった。
 臥煙遠江。
 私の母親であり――私に『猿の手』を遺した張本人。
 故人である彼女が私の前に現れること自体、非常識的な出来事の筈なのだが……如何せん、対話を重ねる頻度が高過ぎて、今ひとつ怪異現象として認識出来ていないような気がする。
 慣れっこだ。
 しかし、今回ばかりは気にしておいた方が良いだろう、と私は親に探りを入れてみることにした。
「……こうしてお母さんと再会しているということは、私はいよいよ死んでしまったのでしょうか?」
 水に落ちて。
 跡形もなく溶けてしまったのだろうか。
「いやいや、大丈夫だ。今回はね――くくく。そう心配そうな顔をしなくとも、私はそんなに簡単に死ぬようにお前を産んだ覚えはないよ」
 とのことなので。
 ここがあの世で、完全溶解してしまった私が、先立った母の顔を彼岸で拝んでいる、という可能性は消去して良いらしい。
「はは、相変わらず苦労しているようだね、可愛い娘の駿河ちゃんは。だから言っただろう。あんたの人生は、きっと人より面倒臭いってね」
「他人事みたいに言わないでください。これでも結構ピンチなんですよ……というか、あなたが水中に引き込んだ訳ではないんですよね?」
「なんでもかんでも、お母さんの所為にされちゃあ困るってもんだよ。あたしは偶々、あんたが意識を失ったから出てきただけさ。だからいつも通り、あんたが夢を見ているって体で話させて貰うよ」
「はあ……」
 母の言葉を鵜呑みにするならば、どうやら私は意識を失っているらしい――と、自分で認識するのもおかしな話だが。
 己の意識を失ったと自覚している自分は、果たして意識がないと言えるのか。パラドックスだ。
 意識と無意識。
 自分の無意識下の衝動を意識の下に顕在化させたのが、この人の遺した『猿の手』だった訳だが――
 ……まあ、私が母の夢を見ることはよくあることだ。なんて、腑に落ちない気持ちは拭いきれなかったが、私は無理矢理に自分を納得させておくことにした。
 母も詳しい事情を――この人が私の前に化けて出る条件やメカニズムを――説明する気は更々ないようで、
「ところで、駿河ちゃんはママとの思い出を、どのくらい覚えているのかな?」
 なんて、らしくなく穏やかな話題選びをする。
「正直な話をすれば、あんまり自信はありませんね。記憶力が良い方ではないらしいので……それがどうかしたんです?」
「いやなに、こうしてひょんなところで親子の時間が持てたんだ。娘の窮地を助けるヒントくらい、あげておこうかと思ってね」

「なあ、駿河。あたしは昔――それこそあんたがまだ幼かった頃、娘に絵本の読み聞かせとかしていたんだけど、その様子じゃあ殆ど覚えていないんだろうね」
「その通り覚えていませんが……え、そんなこと、あったんですか?」
「冷たいねえ。それこそ、あんたが水でも飲むように本を読む乱読家に育った理由は、ひょっとするとその辺りに原因があるかもしれないってのに」
 と、恩知らずな娘を嘲笑うかの様に臥煙遠江は嘆息したが、しかし、この人がそんな母親らしいことをしていたとは軽い驚きである。
「あなたが読み聞かせる話がどんなものだったのか、覚えていないどころか想像もつかないのですが……」
「色々読んだよ? おとぎ話から日本昔話まで、寓話の類は大抵読み聞かせた。『白雪姫』とか、『ハーメルンの笛吹き』とか、『三匹のくま』とか、『さるかに合戦』とか」
「チョイスが微妙と言いますか、登場人物が可哀想な目に遭う話ばかりですね……」
「世間に知られている童話の大半は、子供向けに多少マイルドになっているだけで、原作はそんなものだろう。聞こえ良く語った話だからこそ、多くの人に知られることになったと言えるかもしれない。ただし、果たして現代に伝わった話が、原作者が本当に語りたかった話なのかどうかは、また意見が割れそうな話ではあるけどねえ」
 そんな皮肉的なことを言いながら、くっくと笑う母はやはり、書店の絵本コーナーで娘に読み聞かせる一冊を選ぶような人には到底思えない。それは私がこの人の娘だからこその感想だろうか。
 私も大概だが、この人も本を斜めに読む気があるのではないかと思うし。
「娘に向けて読み聞かせる時くらいは、私も文面を真っ直ぐに読んださ。駿河ちゃんのお気に入りは『人魚姫』だったぜ」
 人魚姫?
 って、あれか? アンデルセン童話だっけ?
「人魚は人魚でも『赤い蝋燭と人魚』の方だった、なんて意地悪なオチはありませんよね?」
「小川未明先生の童話も有名だけど、あんたが気に入っていたのは日本のアンデルセンの方じゃない『人魚姫』だったよ。よく読み返したものさ。ハンス・クリスチャン・アンデルセンが書いた原作は中々に宗教色の強い話なんだけどね。駿河は知っているかな? 人魚のお姫様は、最後は空気の精になるんだよね」
「いえ、流石に原作を読んだことは……あれ? 人魚姫って、最後は泡になってしまうんじゃないんですか?」
「いや、その後、神様の国に登っていくんだよ。だから、可哀想な人魚姫の為に、子供達は日々善行を積まなくちゃならない――ってのが、原作で読者に向けて描かれているメッセージ。説教臭いだろ」
「…………」
 読んでいないから大きなことは言えないけれど、名作を一言で切って捨てるようなまとめ方をしてしまう辺り、この人の大らかさは目を見張るものがある……見習いたいとは思わないが。
「まあ、そうやって、物語の読み聞かせを重ねることで、あたしは娘の想像力を豊かに育て上げてしまったんだろうね」
 そんな風に、適当に話を切り上げて、母は満足気に笑った。
 しかし、幼い頃の自分のことならともかく、今の自分の性格や気質――果ては好きで読んでいる本の種類まで親の影響とされては堪ったもんじゃない。
 私がBL小説を嗜んでるのは、あくまでも私自身の嗜好によるものあって、決して母親に感化されたからではないのだ。
「いやいや、そんなおこがましいことを言うつもりはないし、あんたの偏った本の趣味まであたしに責任を求められても困るって。あんたはあんたで勝手に育ったんだろう――ただ、親子の影響はなくとも、血縁の影響はあったかもしれない。こと今回の件に関しては」
「……?」
「まあ、だからごめんね、と謝ったところで、どうこうなった話でもなかったんだろうよ」
 と、母はよくわからないことを言いながら、一人で納得したような顔をするのだった。
「あの……もう少し、分かりやすいヒントを貰えませんか?」
 これでも追い詰められているのだ。愚かな娘を哀れんで、出来ることなら回答まで教えて頂きたいくらいに。
 あなたの子はあなたに似てシンプルなのだ。
 もっと言えば、私は母より考えることに向いていないとさえ思うし。
 しかし、この人にそこまでの優しさを期待したところで返って来るものはないだろう。それに、完全に親頼みにするのもどこか釈然としない――なんて子供染みた意地もあって、自分なりに考察はしてみる。
「その『人魚姫』が解決策に繋がるんですか? それとも、その思い出話から『母の優しさを思い出せ』というお説教でしょうか?」
 確かに、海に落ちて泡になってしまう辺りは、水に触れると溶けてしまう私の状況と、似通ったものがあるが……いや、人魚姫の場合は泡になってしまうのは、悲恋が原因になるのか? 私の恋愛事情なんて、それこそ閉じた物語だと思うのだが……。
「お母さんに言わせれば、お前は私より考え過ぎのきらいがあると思うがね――原作を読めば分かるけれど、人魚姫は王子様と結ばれることはなかったけれど、だからといって、幸せになれなかった訳じゃあないだろう」
 そうなのだろうか。
 失恋や失意を超えた先に、何か得られるものがあるのだろうか。
 果たして、空気の精になったという人魚姫は、幸せになれたのだろうか。
「『愛されることには失敗したけど、愛することなら、うまくゆくかもしれない』――これもまた別の『人魚姫』の一節だけど――どちらかというと、あんたはそういうタイプなんじゃねーの?」
 母は言う。
「人魚のお姫様然り、他の寓話の主人公然り、あんたの憧れの先輩然り、自分の望みは自分で叶えることだ」
 いつもの教えを思い出せ、と。
 薬になれなきゃ、毒になれ――
「ただの水になりたくなければね」

 
08

 どうやら生きているらしい、と漸く自覚出来たのは、頭上にあった彼の顔を認めてからだった。
「……扇くん」
「あ、気が付きましたか。いやはや、このまま起きなかったらどうしようかと思いましたよ。丁度、お姫様へ目覚めのキスでも捧げようかと思っていたところでした」
「思い留まってくれていて良かったよ」
 今しがた聞いたばかりの話によると、私は眠り姫ではなく、人魚姫らしいし。
 首を持ち上げて辺りを見回すと、見知った自分の部屋の中だった。散らかっているのはいつも通りだとして。丁寧に敷かれた布団の上に、自分は横たえられていたようだ。
「まあまあ、悪ふざけはこの辺にしまして」
 と、空中で物を移動させるジェスチャーをわざとらしく挟みながらも、扇くんは今までになく真剣な口調を作りながら続けた。
「今回の件なんですけども――駿河先輩、何が起こったのか覚えていますよね?」
「うん。プールに落ちたところまでは」
「ええ、そうです。あなたはプールに落ちて――身体のみならず、駿河先輩の意識が溶け出してしまったのではないか、と思われます」
「意識?」
 それこそ意のなさそうな面持ちで言葉を反芻しただろう私に、扇くんが眉間の皺を深くする。私の惚けた反応は感心されないものだっただろうが、目覚めたばかりの頭で考えるにしては理解の範疇を越えていたので、仕方があるまい。
「記憶まで溶け出していたら面倒だと危惧していたのですが……どうやらその心配はなさそうですね」
 さらりと恐ろし気な仮説を立てていた扇くんだが、気を失っていた間に夢を見ていたことも覚えているから、それはないと願いたい。
 そういえば、どうして彼は私が目を覚ますまで付き添ってくれていたんだろう?
「いえいえ、流石の僕でも、あの状態の駿河先輩を放置出来る程、心無い奴ではありませんよ。というか、もう少し労ってくださいよー? あれから駿河先輩を布団に寝かすまで、僕もそれなりに働いたんですから」
「それは苦労をかけたな、申し訳ない」
「いえいえ、僕のドライビングテクが役立って良かったです」
「え、きみって車とか運転するのか?」
「あなたを助手席に乗せて海辺を走りたい気持ちもありますが、それはまたの機会にしておきましょう」
 何故か私とドライブに行くことを、さり気なく確約させる扇くん。真実とも虚言とも分からない彼のボケは華麗にスルーしておくことにして。
 私は自分の左の手指を動かしてみる。
 ぐー、ぱー。
 ……うん、大丈夫。
 四肢もちゃんとある。どの程度まで溶けていたのかは定かではないが、一応、私の身体は原型を留めているようだった。
「私はどれくらい眠っていたんだ?」
「約一日ですよ。回復に要する時間が長くなっていることも事実です」
 一日。
 扇くんと屋上に赴いたのが放課後――およそ午後五時台だと考えて、現在時刻が……午後の八時か? だとすれば、私はなんと二十四時間以上眠っていたことになる。
 何分室内だし、意識を失っていた割りに、妙に現実感のある夢をみてしまったから、時間の感覚がはっきりしないけれど。
「え、じゃあ、もしかして、きみは丸一日私に付き添っていたのか?」
 だとしたらそれは、先輩に助力する後輩の域を超えている働きぶりなのだが……。
「あ、それは安心してください。阿良々木先輩と交代で付き添っていたので」
「えっ」
 それはそれで問題だ。
 別に考える余地がある問題だ。
 あの人のお人好しぶりには今更驚かないのだが。それでも、私の知らないところで私を助けられてしまっては、後輩として立つ瀬がない。
 またも恩人に恩を作ってしまった。
「というか、あなたを救出するに当たって、阿良々木先輩に協力を要請するのは避けられなかったんですよ。非力な男子高校生一人では、完全溶解ギリギリのあなたを水から引き上げて、事を荒立てずに自宅まで送り届けるのはハードなミッションでしたからね――そこは阿良々木先輩ですから、新車を出すことに渋りはしませんでしたよ」
 懇切丁寧に説明してくれる扇くん。
 超が付くほど失礼系な後輩にしては、らしくなく、やけに献身的な態度ではないか。
 隣に立っていた筈の先輩が、いきなりプールに落下した現場を目の当たりにして、もしや、彼は彼で責任を感じている……のかな?
 だとすれば、その反省の仕方は見当違いで、きみが気に病む必要はないと、声を掛けてやるべきなのだろうが――そんな殊勝なことを考える後輩では勿論なかった。
「とりあえず、駿河先輩が無事に復活なされて何よりでした――では、僕はこれで」
 と、扇くんはあっさりと立ち上がる。
「え、もう帰るのか?」
「ええ。僕は僕で色々と忙しいんですよ。それに、これ以上沼地さんに睨まれるのも本意じゃありませんしね」
 ……沼地に睨まれる?
「それでは失礼しますね」
 なんて、妙に去り際が良い後輩を前に、目覚めたばかりの私は、どうしてか心細さを覚えてしまって、
「ちょ、ちょっと待って、扇くん」
 と、うっかり彼を引き止めてしまった。
「はい? なんでしょう駿河先輩」
 手のひらを反すが如く、くるり、と身体の向きを変える彼。
「いや、その……」
 とはいえ、二の句を準備していた訳ではなかったので――場を繋ぐ為、苦し紛れではあったが、私は彼に、母との対話で得られた知見を話してみることにした。
 幼い頃の絵本の読み聞かせ。
 親が子に与える影響。
 そして――私が好きだったという『人魚姫』。
「……やっぱり、何か理由があると思うんだ」
 怪異にはそれにふさわしい理由がある。
 そして、母の言葉をそのまま受け取るならば。
 私はなるべくして、水に溶ける身体になってしまった筈なのだ。
「ほお。では、駿河先輩の見解を聞いてみましょうか。改めてお母様との思い出を振り返ってみて――あなたの身体が水に溶けるようになったことには、どんな理由があるとお考えですか?」
「え」
 まだ成熟した考えがあった訳ではなかったのだが――しかし、引き止めてまで話を振っておいて、そんな肩透かしなまとめ方をするのも味気ないだろう。
 と、後輩に対する下手な見栄から、なんとか即興で、場を取り繕うと試みる。
「え、えっと……私にとっての幸せを見つけたら、呪いが解ける……とか?」
「……はあ」
 微妙な反応を見せる扇くんだが、仕方なかろう。
 言いながら、私も微妙な案だったと後悔したし。
 呪いは解けていないが、身体が溶けているし。
 上手いこと言えていないのだから、ちゃんと否定してくれれば良いのに、私のやることなすこと全てにイエスマンの扇くんときたら。
「んー、じゃあ、駿河先輩がそう思うのなら、そうなんじゃないですか?」
 …………。
 訊いた私が悪かったよ。

 
09

 それからまた数日後。近況報告。
 シャワーを浴びることが難しくなってきた。
 朝起きて顔を洗う。そんなルーチンをこなすことさえ必要以上に体力を消耗させられる――それで漸く気付いたのだが、私は身体を濡らす度、それだけで体力が削られているらしい。
 言わば、生命力まで溶け出している状態か。溶解が進んでいるとでもいうのだろうか。
 否応なしに、雨が降った日は否応なしに外出が出来なくなった。今朝のニュースで報道された例年より遅い梅雨明けを、素直に恨めしく思ったものだ。
 それから、阿良々木先輩を避けるようになった。
 先日、汗を掻いたグラスを持った時、指を溶かしてしまった現場を見られてしまったのだ。不要な心配をかけまいと、症状が悪化していることを黙っていたら、叱られてしまった。
 私の嘘は詰めが甘いらしい。
 以来、先輩には会っていない。
 あとは、なんだろう。
 母がくれたヒントから何か得るものがないかと、絵本を読み返してみたことくらいか。
 えっと、なんだっけ? 『白雪姫』と、『ハーメルンの笛吹き』と、『三匹のくま』と、『さるかに合戦』と――流石に、著者名や出版社名まで聞き出した訳ではなかったから、幼い私が読んだ本とは別の本を選んでいた可能性もあったが、そんな細かい違いは気にしなくとも良かろう。そんなやみくもに、しらみつぶしに事に当たれと教えたがる母でもないだろうし。
 結果、成果は出なかったのだから、同じことだ。
 ちょっと懐かしい気持ちになったくらいだった。
 それから――『人魚姫』か。
 そうだ。これは原作を読んでみた。
 地元の大型書店では生憎在庫がなくて、わざわざ取り寄せて貰ったのだった。
 短い話だから、目を通すのにさして時間は掛からなかったのだが――残念ながら、それらしい解決策を得るには至らず。
 母の教えを生かせない点においては、愚かな娘と言われても反論は出来ないのだが……こうも空振りが続くとなると、あの人はあの人でどうしてストレートな手掛かりをくれなかったのだ、と恨み言を言いたくもなる。
 しかし、プールに落下して以来、母の夢を見ることもないので、この文句は心中に留めておくのみになっていた。
「――『人魚姫』ねえ」
 不意に零れた呟きに頭を上げると、沼地が例の文庫本を開いていた。
 時間つぶしになのか、手慰みになのか、彼女も読んでみることにしたらしい。
 ……まあ、本の読み方は人それぞれだから、沼地が原作を一読することで、私には見えなかった何かに気付いてくれる、という可能性もなくはないだろう。
 そんな甘い期待をしてみる。藁にも縋る思いだ。
 溺れる者は藁をも掴む。
「……仮に、この人魚のお姫様をきみだと仮定するとさ」
 ページを静かに捲っていた手を止め、重々しく口を開く沼地。
「ならば神原選手にとっての王子様は、戦場ヶ原さんということになるのかな?」
「ぶっ」
 いきなり突飛な解釈を披露され、私は思わず吹き出してしまった。
 確かに自分では得られなかった見解ではあるが……私はそんな夢見がちな読み方を沼地に期待していたのではない。見当違いも良いところだ。
 なのに。
「だったら手っ取り早く、戦場ヶ原さんにキスでもして貰えば、元に戻れるんじゃない?」
「そ、そんなこと頼める訳ないだろう!?」
 怒鳴る私。
 悪ふざけだと分かっているのに――悪趣味な冗談を受け流せず、動揺をそのまま声にしてしまった。
 言って、流されると思っていたのか。沼地は、意外そうに眉を上げたが、それも妥当な反応だっただろう。思いの外強く出た否定の言葉に、私自身も驚いたのだから。
 なので、次に私が続けた言葉は、自分で自分を宥める為のものだったかもしれない。
「……そもそも、戦場ヶ原先輩は、私にキスするような人じゃないよ」
 私は戦場ヶ原先輩が好きだったが、戦場ヶ原先輩の好きな人は私ではない。
 あの人はきっと、自分の好きな人にしか唇を許さない。
 ……しかし、どうだろう。
 私が戦場ヶ原先輩を好きになった理由の一つに、あの人の心の奥底に秘めた情の深さというものがある。それは私達二人がヴァルハラコンビと呼ばれていた時代から、そう呼ぶ人が阿良々木先輩しかいなくなった今でも、私はずっと変わらず感じている。
 そして、今回ばかりは私も窮地に追い込まれていて。
 だから――どうか私を救う為、一度で良いからキスして欲しい、と懇願すれば――もしかすると、情けをかけてくれるのではないだろうか。
 ほんの一瞬でも、私のことを深く想ってくれるのではないだろうか。
 ……でも、だからこそ。
 断られるのが、怖い。
 いずれの仮定も、自分に都合の良い可能性を考えているだけに過ぎないと、分かっているのだ。私を救う為に――と、もっともらしく理由を付けてお願いした末に、断られたとしたら、きっと私は堪えられない。
 私の好きな先輩がそんな非情な人だとはちっとも思わないけれど、その僅かな可能性を想像するだけで、私は躊躇してしまう。
 一度知ってしまった痛みは怖い。
 否応なしに恐れてしまう。
 いつからこんなに臆病になってしまったのか、と自嘲的な気持ちを抱く半面、もうあの人から拒絶されたくないと願う気持ちも、確かな自分の本音なのだった。
 だから言い聞かせる。物分かりの良い振りをする。
 そんな可能性はないと。皆無だと。
 キスして貰えば解決するという話だって、全く根拠のない前提であり、所詮は希望的観測でしかないのだから。
「……そうやって言い訳しているけれど、つまりは逃げているだけだろう」
 逃げる為の言い訳だ、と沼地。
 流してしまえば良い筈なのに、彼女の緩慢な声の響きが、今日はやけに自分の胸に刺さった。
「真面目な話をすると――私とは未遂だったけどさ、ほら、きみときみの好きな先輩となら、可能性はあるかもしれないじゃないか。それこそおとぎ話みたいに」
「まさか」
 存外、沼地は沼地で、思いの外真剣に私の状況を案じてくれているのかもしれない。悪ふざけのような提案だったが、そこに悪意はなかったのかもしれない。
 気持ちを素直に受け取れない自分を恥じ入る一方で、相手に――沼地に対してどこか投げやりになってしまうことも今は隠せなかった。
「……嫌なんだよ。友達に嘘を吐き続けることも。先輩に心配をかけてしまうことも。後輩に流されるまま自己嫌悪することも」
 口から零れた本音は、想像以上に弱々しかった。不安で滲んだ自分の声は、そのまま消え入ってしまえば良いのに、とさえ思う程、情けない。しかし、何か感じるものがあったのか、沼地は。
「……そっか」
 と、分かりの良い返事をした。
「言っておくが、逃げることが悪いことだとは、私は思っていないよ」
 添えられた言葉は彼女の持論であり、本心であり、その裏で私に対する助け船にもなっていたんだろうけれど、それがかえって辛くて――
「じゃあ、代わりに私とちゅーしようか」
「は?」
 思わず相手の方を見る。
 沼地は己の唇に自分の指を押し付けて、不敵に笑っていた。聞き間違いであってくれ、と願わずにはいられないその発言は、どうやら本当に彼女の口から発されたものらしい。
「私のことを戦場ヶ原さんだと思って良いよ」
「なっ……!」
「私はきみにとって、友達でも、先輩でも、後輩でもないんだろうし」
「っ!」
 ふざけるな、と私が一発振りかぶるより、沼地が動く方が先だった。たじろぐ私のことなんてお構いなしに、距離を詰めて来る。
 反射的に身を引く――いや、考えるべきは、沼地が皮肉を言うこと自体は珍しくないが、そんな悪趣味な冗談を言うような奴じゃない、ということだ。
 近づいてくる視線から逃れるように、私は手を突っぱねて。
「お、おい、冗談も大概に――」
「冗談?」
 ぴたり、と彼女の歩みが止まる。
 それでも沼地の顔は既に私の目と鼻の先にあった。
「神原はさ、私が冗談でこんなことをしていると、本当に思っているのかな?」
 ……ああ、駄目だ。
 額に額を付けるような勢いで、私の瞳を覗き込んで来る沼地。
 ずっと、苦しくて目を逸らすことしか出来ないでいる。

『きみが大好きな先輩の名前を出せば、いい加減に目を向けてくれるんじゃないかと思っただけだよ。こうでもしないと、きみは私のことを見てくれないんだろう?』
 耳の奥に残る言葉を反芻する。
 逃げてきたというのに、沼地の台詞はしっかりと私の胸に残っていた。
 屋上に立つ。今度は一人きりで。
 何も考えずに走って来た筈なのに、衝動的に動いた私の足は、学校のプールサイドへと向かっていた。
 乱れた息と思考を落ち着けようと、はあ、と息を吐く。それでも冷静な頭になれそうにない。水面に映る私の顔は、自分の弱さを嘲笑っているかのように見えた。
 沼地の話を聞いて。その時、頭に思い浮かべた『もう一つの可能性』を、私は無視出来ない。
『人魚姫』。
 人間の王子に恋をした人魚姫は、自分の声と引き換えに足を手に入れて陸に上がった。だが、王子は人魚姫の想いに気付くことなく、別のお姫様と結ばれてしまう。悲しむ人魚姫の前に彼女の姉達が現れ、王子を殺せば人間に戻ることが出来る、と短刀を渡す。しかし、人魚姫は愛する人を殺すことが出来ず、海の泡になってしまう。
 この話をなぞらえて考えてみると。
 自分で例えるのもおこがましいし、非常に恐れ多い仮定だが――仮に私が人魚姫だとして、王子様が戦場ヶ原先輩だったとしよう。
 その場合、お姫様が人魚に戻る為のキーとなるのは。
 ……阿良々木先輩、じゃないのか?
 全ては仮説だ。
 それに、物語に沿って順当に役割を当てはめるとすれば、私が手を掛けようとするべき相手は、戦場ヶ原先輩の方だろう。
 しかし、私はかつて願ったことがあるのだ。
『阿良々木先輩なんていなくなってしまえ』と、あの人を心底憎んだことがあるのだ。
 未だに、あの想いが私の中でくすぶっているとは思えないが、決して無視することは出来ない前例だ。
 あの『猿の手』が私の手元からなくなった今、あの許されざる願いは完全に実現不可能となった筈。
 しかし、私はまだ悩んでいるとでも言うのだろうか。
 携帯電話のディスプレイに、阿良々木先輩からの受信メールを映し出す。この人は、どんな気持ちでこのメールを送ったんだろうと考えると、今は罪悪感しか浮かんでこない。
 ――どんな悩みも、いつかは時間が解決してくれる。
 ――しかし、時間が解決してくれない問題もある。
 彼女の持論は私を励ましもしたし、苛みもした。
「ねえ、神原選手」
 不意に名前を呼ばれて振り返ると、屋上と階段を結ぶ入り口に、沼地が立っていた。
 追いかけて来たのだろうか。
 学校まで逃げてくれば、直江津高校生じゃない沼地も追っては来ないと踏んでいたのだが、どうやら私の認識は甘かったらしい。
 彼女の姿を視界に捉えることが出来たのは一瞬で。逃げ出した後ろめたさから、すぐに私は顔を背けてしまった。やり場のない視線と行き場のない想いが、目前の水面に注がれる。
「……どうしてきみは、私と目を合わせてくれないのかな?」
 けれども沼地は、今度は逃してくれなかった。
 身が竦む。蛇に睨まれた蛙の如く脚が竦んで動けない。
 それはきっと、私は心の奥底で、彼女の指摘が正しいものであると認めているからだ。
 目線を合わさずとも、彼女の視線が私の顔に向けられていることが、気配だけで分かる。それでも私は目を逸らし続けた。
「そ、そんなこと――」
「今に限った話じゃない。『あの日』から――私達が悪魔を賭けて1on1をした日からだよね?」
「あ……」
 私の言葉を遮るようにして、沼地は前に出た。
 一歩ずつ、距離を詰めてくる。
 ゆっくりと。まるで『あの日』を思い返すように。
 足取りはやはり緩やかな彼女のそれで、再び逃げ出すことだって容易な筈――なのに、気圧されるまま、その場で後退する私。
 プールを背にしたまま一歩退いた場所には、踏み締める為の地面がなかった。
 足の裏が宙に浮く。その感覚を覚える間もなく、触れる水面。
 冷たい水の底に。
 ――あ。
 落下する。
 沼地に追い詰められて落下する――否、違う。
 私を追い詰めたのは、他ならぬ私自身なのだ。

 
10

 あの日、私は負けた。
 忘れもしない四月二十日。
 死出の旅路に就くには相応しい快晴の日だった。
 私達は勝負した。
 神原駿河は、詐欺師から譲り受けた悪魔の頭部を賭けて。沼地蠟花は、自分の趣味である不幸と悪魔の蒐集活動を賭けて。私達は一発勝負の1on1をしたのだ。
 彼女と正面から向き合って――――しかし。
 私の自慢のダンクシュートは、沼地の手によって止められた。
 ボールはリングをくぐらなかったのだ。
 もしもあの時、勝負に勝ったのが沼地ではなく私だったら、私達はまた違う結末を迎えていたのではないだろうか。
 実力不足を嘆いていても仕方がない。バスケの試合なんて『まぎれ』と『まぐれ』の連続だ。単に、私に運がなかっただけかもしれないし、はたまたその日、沼地の運が良かっただけかもしれない。
 勝敗について悔やむつもりは毛頭ない。
 ただ、あの日以来、私の心を悪戯に掻きむしるような現実は、あり過ぎる程そこにあって。
 私が沼地との距離を計りかねていることも。『もう二度と会うことはない』と言っていた沼地が、何故か私の部屋に居付いてしまったことも。身体を溶かした私に、沼地が異様に優しく気を遣ってくることも。まるで互いに負い目でも感じながら付き合っているかのような、この関係のことも。
 全てはあの1on1の勝敗がついてから始まったことなのだ。

 
11

「……ぶはあっ!」
 目覚めると同時に水を吐いた。
 呼吸器官に入っていたのか、喉と鼻の奥がツンと痛む。遅れて鼻腔を刺激する濃い塩素の匂い。
「ん……」
 瞼を持ち上げて、一番初めに視界に映ったのは沼地の顔だった。
 私以上に肩で息をしている沼地蠟花が、そこにいた。
 全身ずぶ濡れのジャージ姿で、私に覆い被さっていた。
 プールサイドで重なり合う私達。初夏の日に照らされて熱を持ったタイルが、私の背中を静かに焼こうとしている。
 沼地の下で――まるで相手に取り押さえられたかのような形で、やっと私は彼女と目が合った。
 水に濡れてくすんだ色になった茶髪。毛先から垂れた滴が、私の上へと落ちていく。きっと、その僅かな水の粒でさえ私の身は溶かされてしまう。
 しかし、それでも構わないと思ったのは、一体どうしてだろう。

 どうやら沼地に助けられたらしい。
 落下してからすぐ、彼女が私を水から引き上げてくれたのだろう。意識を完全に失わなかったのは、沼地の対応が早かったからだろうか。もし数秒でも遅れていたら、引き上げるべき身体が残っていなかった――なんて悲惨な結末もあり得ただろう。
「……きみ、もしかして馬鹿なんじゃないの?」
 漸く呼吸を落ち着けた沼地が第一声に選んだのは、そんな辛辣な言葉だった。妥当なところだろう。
 言い争っていた相手が目の前で足を踏み外し、プールに落ちたのだ。さぞかし滑稽な姿だったに違いない。
「なんだ、今更気付いたのか」
 馬鹿じゃなければ、悪魔のお前と1on1だなんて、あんな確実性のない大勝負になんて出られないだろう。
 しかし、憎まれ口を叩かれながらも、私はこいつに救われてばかりだ――と、そこでふと、思い至る。
 ……ああ、そうか。
 私はこういう時に、なんて言えば良いのか知っている。
 彼女に何を言いたかったのか、やっと思い出したのだった。
「なあ、沼地」
 私は言う。
 ずっと言えなかったことを。
 言葉にしなければ、伝わる筈がないじゃないか。どうしてそんな当たり前のことに、今まで気付かなかったのだろう。
 自分から相手と視線を合わせる。彼女の目を正面から見たのは、『あの日』――コートの中で向かいあった日以来だった。
 情動のままに言葉を紡いでしまうことを、恥じる必要なんてないんだ。
 心に満ちて溢れた気持ちを、そのまま声にするだけで良い。
「――私を、助けてくれて、ありがとう」
 そうだ、私は沼地に感謝したかった。
 お礼が言いたかったんだ。
 だけど、私が真っ当に感謝出来る程、沼地のやり方は素直なものじゃなかった。
 捻くれて、やさぐれて、精一杯悪ぶっていた沼地を前にして――感謝したかった私の想いは、かつて彼女に封殺された――否、そんなことは言い訳に過ぎない。どんな形であれ、彼女が私の悩みを取り除いてくれたことは事実なのだから。
 私は彼女を抱き締めた。
 私の左右で突っ張っていた腕の支えを失い、重力のまま降りて来る沼地。
 驚いたように目を見開く彼女に構うことなく、私は続ける。
 重く水を吸ったジャージの生地が、私の掌の中で重く軋む。強い力で握ったまま、それを離したくないと思った。
 だから、この気持ちははっきりさせておくべきだろう。

「私の左腕を奪ってくれて、ありがとう」

 一度口に出してしまえば、とても簡単なことだった。
 どうして早く認めてしまわなかったのかと、不思議に思うくらいに。
「……なんだよ、それ。良い話で締めたつもりかい?」
 文字通り身体を張った告白に、呆れた様な声を上げる沼地だったが、その顔は穏やかに笑っていた。
 私の好きな、可愛い女の子の笑顔だった。
 人に優しい人になりたかった。人を助けられる人になりたかった。人に優しくされたから。人に助けられたから。
 お前は否定するだろうが、私は、無私の行いで人を助けられるお前が、憧れだったんだ。自分を投げ打ってまで相手のことを思い遣れる、沼地蠟花のことが。
 自分でもやけにすっきりした顔をしていたと思う。この表現を選ぶことすら気恥ずかしいが――まさに心が洗われたかのような。
 相手への感情に名前を付けることで、私は私を取り戻した。
 そんな感覚さえあった。
「そういえば、神原選手」
「なんだよ」
「身体、溶けてないんじゃない?」
「え?」
 濡れたままの両手で、今度は自分の身体を抱き締めてみる。
 水に触れても溶けない。
 溶けて流されることのない心身。
 手も足も、髪も爪も、全てが私のものだった。

 
12

 後日談というか、今回のオチ。
 いや、オチに関しては、今回の私の『溶解問題』は原因がよく分からないまま発現し、そしてよく分からないままに解決してしまったので、これ以上語るべきことはない、というのが話の顛末なのだが、しかし残念ながら非常につまらないオチが待っていた。
 風邪を引いたのである。
 プールに落ちて、そのまま全身ずぶ濡れの濡れ鼠でいたのがまずかったらしく、その日の夜から私は熱を出した。
 青空の下、呑気に告白なんかしている場合ではなかった。早急に身体を拭いて温めるべきだった。あの時を境に、湯船にも問題なく入れるようになったのだから。
「まあ、それまで幾度も身体を濡らしてそのままだったのに風邪を引かなかったというのも、怪異現象の一つだったんじゃないの?」
 なんて、沼地は適当な見解を述べた。
 寝込む私の隣で携帯電話をいじりながら、こちらを見向きもしない。
 というか、お前だってずぶ濡れだっただろう。
 なんで一人だけピンピンしてるんだ。
「……私に構ってないで、いつものように不幸の蒐集にでも行けよ。近くでうだうだしていると風邪がうつるぞ」
「あれ? 神原選手に言ってなかったっけ? 『悪魔様』は今、休業してるんだよね」
「えっ? そうなのか?」
「うん」
 まるで何でもないことのように頷く沼地だが、意外や意外。だって、お前のそれは死んでからも尚執着していた悪趣味で――私が止めさせるのに腐心して、失敗した挙句、こうもあっさり休業となると、なんだか肩透かしを食らったような気分にもなる。
「まあ、元から自分のペースでやっていたってのもあるけれど、それらしい理由を強いて挙げるなら――存在意義を他に見つけたからかな」
「存在意義?」
「……あ」
「ん?」
 ふと、虚をつかれたような声を漏らし、沼地は顔を上げた。手元のスマートフォンから移った視線の先を、私も遅れて追いかけると。
 開いたままの襖の奥、廊下に立っていたのは。
「阿良々木先輩?」

「今度は風邪をひいたって? 大丈夫か?」
「ああ。大過ない。一日寝ていれば治るだろう」
「そっか」
 と、私の体温を、額を触って確認してから、阿良々木先輩は納得したように手を離した。
 どうして私の体調を把握しているのかと訊けば、おばあちゃんがメールで教えてくれた(阿良々木先輩とうちのおばあちゃんは私の知らないところでメールを送り合う程仲が良い)のだと言う。大方、最近暦くんの顔を見ていないことと、孫娘の部屋の散らかりぶりが限界値を迎えようとしていたことを見計らって、そんな一報が送られたのだろう。
 次いで、私の抱えていた『溶解問題』が解決したことを伝えると、阿良々木先輩は安堵の表情を見せながら、やっと笑ってくれたのだった。
 なんだか久しぶりにちゃんと顔を見た気がするなあ、と考えて、それは自分から先輩を避けていた所為だったと思い出す。身体を取り戻して本当に良かったなあ、と私が心から思ったのは、実はこのタイミングだったかもしれない。
 先輩と沼地が鉢合わせしてしまったのは、ちょっと良くなかったかもしれないが。
 あれから沼地は、無言で阿良々木先輩に軽く会釈だけ交わし、そして私を睨むように一瞥した後、さっさと部屋から出て行ったのだった。
 不注意を咎められるように、とん、と音を立てて襖がきちんと閉められてから。阿良々木先輩は、
「今のが、その……」
「ああ、うん。沼地蠟花だ。可愛いだろう?」
「あ、ああ……まあ、そうだな」
 退室した沼地の背を見送って、阿良々木先輩はどこか居心地の悪そうな面持ちで頷いたが、彼の突然の訪問を後で詰られることになるのは私の方だろうな、と自分の口からは苦笑が漏れた。
 痛め付けたような茶髪に、だるんだるんのジャージ姿の女の子。
 阿良々木先輩の周りにはいなかったタイプだろう。
 今や見慣れてしまったが、そういえば私も彼女の茶髪を初めて見た時は、そんな反応をしていたかもしれない。忘れかけていた気持ちを思い出しながら、たかが数ヶ月の筈なのに、私と沼地は随分と長い時間一緒にいるような気がしていたんだな、と想起するのだった。
「いくら可愛いからって、阿良々木ハーレムに勧誘しては駄目だぞ?」
「そんな組織は元から存在しない」
 いつも通り話に茶々を入れながら、阿良々木先輩にも沼地が見えるのだなあ、とぼんやりした頭で考えていた。
 いや、『今は』見えるようになったのかな? 
 不幸を集める怪異だった彼女の存在を、阿良々木先輩が視認出来るとは思えない。だから、彼女が語った『存在理由』とは、もしかすると、そういう話だったのかもしれない。
「それで、何の用だ? アポイントもなしに私を訪ねて来るとは、礼儀正しい阿良々木先輩にしては珍しいな」
「ああ。今日はちょっと、お願いがあって来たんだけど」
「お願い?」
 えーっと……と、先輩は気まずそうに首の後ろを掻きながら、やや躊躇の姿勢を見せた後。
「お前んちの風呂に入らせて貰えねーか?」
 なんて、不思議なことを懇願するのだった。
「なんだ? 阿良々木先輩、さては私の裸体が恋しくなたのか。しかし、今更になって私と風呂に入りたいと思うのは、流石に虫が良過ぎるのではないか? だからあの時、私の誘いに素直に応じておけば良かったのだ」
「違う。お前と一緒に風呂に入る日は一生来ない」
 と、思いの外強い意志を見せる阿良々木先輩。
 またもやきっぱりとお断りされてしまうと、こちらとしてもやや複雑な気持ちなのだが……。
「そうか……戦場ヶ原先輩なら、いつ一緒に風呂に入っても私の裸体を褒めてくれるのに、阿良々木先輩は私の裸には何の興味もないのだな……」
「僕の理性を過信し過ぎなんだよ、神原後輩は」
 私の分かりやすいボケにツッコミを入れる先輩。いつも通りと言えばいつも通りの遣り取りなのだが、今日はいつにも増して心地良かった。
 阿良々木先輩は変わらず、阿良々木先輩のままなのだなあ、と思うと、それはとても頼もしいことの様に感じられたのだった。
 今回の件に関してもそう。
 私の身体が溶けても。
 私が相手を避けても。
 この人だけは最後まで変わらないスタンスで接してくれていたことが、密かにありがたかった。
 ……うん。私を励ます為だったのか、メールの話題にことごとくエロ話を選んでいたことも含めて。
「戦場ヶ原と言えばさ――お前の問題も解決したんだし、そろそろ会いに行ってやれよ。あいつも寂しがってたぞ」
「うん」
 阿良々木先輩は気遣いの人だから、その台詞は何の気なしに場に出したように見せたかったのだろうけれど、きっと、今回の件も彼を通して戦場ヶ原先輩には筒抜けだったんだろうなあ、なんて気付く。しかし、この場は気付かなかった振りをして、私は素直に返事をしておくことにした。
 心から思う。私がこの人を尊敬している気持ちが嘘じゃなくて、本当に良かった。
 だから、
「えっと――なんというか、後始末みたいなものだよ。詳しいことは僕にも分かんねえから、説明が難しいんだけど……頼む。何も訊かずに、僕に風呂を貸してくれ」
 と、頭を下げた阿良々木先輩に。
「良いぞ」
 私は二つ返事で答えるのだった。
「ただし、条件がある」
 ……まあ、このくらいは甘えても良かろう。
「まず、私の部屋を片付けてくれ」
「そうくると思ったぜ」
 と、持参してきたらしいゴミ袋の束を掲げる先輩。
 まったく、用意の良い人だ。
「それから、もう一つ良いか?」
 ん? と眉を上げる彼に向かって、私ははっきりと、最後のお願いをした。
「私の髪を、切ってくれないかな?」
 この提案が衝動的なその場の思い付きだったのか、はたまた、ずっと無意識化に感じていた懸念が、抱えていた問題を解決したことによって浮き上がったきたのか、私にも分からなかったけれど。
 とにかく。
 それで漸く、私の物語にもけじめがつくんじゃないかと思うのだ。

 熱が下がってから髪にハサミを入れて貰うことを約束し、風呂場へ向かう阿良々木先輩を見送ってから、私はまた眠りにつくことにした。
 そうだ。後で扇くんにも、怪異現象の解決を連絡しておかなくては。もう少し元気が出てきたらラブコールならぬ電話で一報入れておこうか。
 あと、幸いなことに、日傘が海に行くと予定していた日にもまだ余裕がある。受験生だが、一日くらい羽目を外して遊ぶのも良いかもしれない。日傘は口を尖らせるかもしれないが、『やっぱり私もついて行くぞ!』と少しくらい我儘を言っても良いだろう。友達なんだし。
 夢うつつで布団の中、そんなことをつらつらと考えていた途中、沼地が隣に座った気配がしたが、さして気にはならなかった。
 ……不毛な趣味から身を引いている所為で退屈しているのだろうか。それとも先の鉢合わせの憂さ晴らしか。
 まあ、どちらでも良いだろう。
 戯れに唇に触れた感触を、私は素直に受け取った。

 
13

「さて、阿良々木くん。ここらでひとつ、解説といこうじゃないか。
「あ、この姿で会うのは初めてだから、私だと分かんなかったって? 悪いけど、色々と事情があってさ。訳あって中学生の女の子の見た目をしているけれど……ほら、中身は大体同じだから気にしないでくれ。きみと一緒に風呂に入った臥煙遠江だぜ?
「……ああ、きみがさっきすれ違った女の子とは別人だから、そこは安心してくれて良いよ。この蛇足的なイベントは、阿良々木ハーレムの通過儀礼でも何でもないからね。
「そうだね。まずはお礼を言うべきか。それとも謝罪をしておくべきかな。
「不肖な私の娘が、またきみに迷惑を掛けたと思う。
「悪かったね。駿河の為に色々と気を回してくれた様で――あ、うん。あいつを救うってえ名目で、きみが風呂場に飛び込んでいったことも、私はちゃあんと知っているよ。
「しかし、今回ばかりは駿河が自分でどうにかしなきゃいけなかったからさ。
「阿良々木くんは聞いているよな。多分、私の妹辺りが大きい面して語ったんじゃないかと思うんだが――私が作り出してしまった怪異の話は知っているよね。
「――そう。ご存知、『レイニー・デヴィル』だ。
「いや、この名前は私が付けたんだけどさ。
「昔々、私は私を戒める怪異現象に名前を付けて――『正体』を与えることで、退治した。
「恥ずかしい話さ――だが、きみも同じことをしたんだろう? 
「きみと、きみの友達の羽川翼さんかな?
「いやいや、知ってるとか知らないとか、そういうのはどーでもいいんだよ、阿良々木くん。
「知ってるというか、分かるというか。なんたって、私はきみ達の『前例』に当たる訳なんだし。
「その件に関しては、駿河は何にも知らないんだろうけれど――ま、あいつはあいつで影響を受けやすい性格だからね。無意識にでも、大好きな先輩の影響を受けたって、そうおかしな話ではないと思うよ?
「良い影響も。悪い影響も。
「いやいや、きみが落ち込む必要はないんだよ。
「子供は親の背中を見て育つというが――親がなくても子は育つ。憧れの先輩の背中は、あいつが勝手に見ていたに過ぎないのさ。
「きみだって意図して影響を与えた訳じゃないし、影響を受けた側も気付いてはいなかった。
「そう。無意識。
「ましてや駿河は臥煙の血を引いちゃってるからね。何も知らなくとも、化物の一つや二つくらいなら産み出してしまえるんだろう。
「その結果があれだ。
「駿河が水面に見た影――あれは駿河が自分で作り出したものだよ。
「ベースはなんだったんだろうね。私の読み聞かせた『人魚姫』だったのか、はたまたあの子の父親が語っていたロマンチックなお風呂の水の話か。それとも、その両方かな。我が娘ながら、妄想逞しく育ってしまったもんさ。色んな意味で。
「羽川翼さんが、己のストレスや嫉妬から怪異を生み出したように。
「阿良々木暦くんが、自己批判精神から怪異を生み出したように。
「神原駿河は、この女の子に対する羨望や憧憬の念から怪異を生み出した。
「言わば、自分で設けた告白までのタイムリミットだったんじゃねーの?
「はは、己自身を攻撃する怪異という点では、阿良々木くんとお揃いだね。やけに自罰的というか――いや、これは私に似てしまったのかな。血は争えない――なんて、ジョークにしては笑えないね。
「過去に『レイニー・デヴィル』の――私の分身の左腕を使って、自分の無意識を顕在化させたこともあるあいつのことだ。元々素質はあったんだろうよ。
「人の想い。
「執念。
「実らなかった気持ち。
「駿河本人も答えに近いところまで行ったんだが……まさか自分で作った怪異だとは思わなかったんだろう。だからそのまま秘密にしといてくれ。
「臥煙の血について知ったところで、良い影響があるとも思えねえし、うん。なんか適当に誤魔化しといてよ。
「さて、ここまで話せば、きみも先駆者として解決策も見当が付くだろう?
「そう。
「あれを退治するには――自分の気持ちに名前を付けて、片付けてしまえば良かったのさ。
「整理を付ける。
「それこそ、散らかったあいつの部屋の如く。
「私は自分で名付けた怪異を――『レイニー・デヴィル』を退治するという形で、私は自分の裏側と向き合うことになったのだけれど、今回の件で駿河も自分自身を見つめ直すことになったと思う。
「阿良々木くんがその助けになってくれたことは、母親として感謝しているよ。
「薬になれなきゃ毒になれ。でなきゃあんたはただの水だ――私の言った言葉の意味を、駿河は分かってくれたのかどうか。
「言葉にしなければ、伝わる筈がない、というのはあいつの得た答えだったけれど、それは一方で、私が得るべき教訓だったのかもしれないね。
「じゃあ、阿良々木くん。
「出来の悪い娘で申し訳ないけれど、後片付けは――もとい、部屋の片付けはよろしく頼むよ。

 

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