モデル

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「アルバイトを頼みたいのだけれど」
 と、戦場ヶ原先輩が言ったのは、清風中学の制服が夏服へと切り替わっていた季節で、でも私の腕に日焼けの跡がつく前の時分だった。
 その申し出は柔らかい物腰で決して無理強いされている感覚はなく、でもどうしてかこっちが断ることを躊躇してしまうような調子だった。勿論当時の私は戦場ヶ原先輩からの頼みを断る訳がなかったので、実際は全く躊躇することもなく――どころか一考するまでもなく、こう答えることとなる。
「戦場ヶ原先輩からお金を貰うなんてとんでもない。私に出来ることなら協力させてくれ」
「そう? ありがとう、神原」
 後輩の厚意を素直に受け取ってくれる。そういう気負いしないところも好きだった。
 そんな経緯を経て、当日私は戦場ヶ原先輩の家へお呼ばれした。バイト先は先輩の自室だった。これまでも何度かお邪魔したことがある。
 しかし流石に服を脱ぐのは初めてで、当時中学二年生なりに純粋だった私はかなり緊張したことを覚えている。
 そうそう。当時の舞い上がってしまっている若い自分に浸っていて、危うく言い忘れるところだった。
 バイト内容は『戦場ヶ原先輩の絵のモデル』。裸婦画に挑戦してみたいという戦場ヶ原先輩の希望に沿う形となった。
 陸上部のエースだった戦場ヶ原先輩の才は実は芸術面でも長けていて、そこそこ筆を振るっていた。私は読書家ではあったが美術の方面にはかなり疎かったし、バイトの内容を聞いた時こそ驚いたものだったが、絵を描く人はそういうものかと飲み込んだ。あとデッサン中はモデルに触っちゃいけないのだ、という話を聞いて少しがっかりもした。
 がっかりしながら下着を脱いだ。
 緊張はしたが、抵抗はなかった。寧ろ戦場ヶ原先輩が私に声を掛けてくれたことが誇らしいとすら感じた。齢十四にして、迷うことなく人前で一糸纏わぬ姿になれたのも、戦場ヶ原先輩への強い信望があったからこそだ。しかもその頃がヴァルハラコンビの全盛期だったと自負しているから、私の戦場ヶ原先輩への想いは相当な熱量だったに違いない。だからこそ、下心があったかと問われれば、口を噤みたくなるのが正直なところだ。
 一方、これをお願いしていたのが私じゃなくて他の相手だったら、なんてこと考えたくもなかった。思い起こせばそんな後ろ暗い気持ちがあったからだろうか。仮にバイト代は出すと戦場ヶ原先輩が強く言ったとて、結局私はその申し出を突っぱねていたんじゃないか。そんな気もする。
 まあ、ともかく。当時は先に言った通り、考えたくなかったので。
「優秀なアスリートの身体をモデルに出来て嬉しいわ。神原の裸って綺麗だから」
 なんて言われて素直に喜んでしまうだけだった。我ながらちょろい。
 ただ、私は競技場のトラックを走り抜ける戦場ヶ原先輩の姿が何より美しいことを知っていたから、その美しさを差し置いて私がモデルとなるのはなんだかとても勿体ないことのような、この上ない贅沢をしているような気にもなった。
 その日は初夏だと言うのに真夏日を先取りしたような猛暑だった。
「空調はあえて入れないけれど、暑かったり寒かったりしたら言いなさいね」
 うん、と首を縦に振った動作は、自分が思っていた以上にしおらしい様子で。これも、返事をした声が少し上擦っていたのも、きっと気の所為だ。
 否、戦場ヶ原先輩の所為かもしれない。

 裸で横たわる。
 静かな部屋だった。鉛筆の先と紙の表面が擦れて削り合う音だけが響く部屋。
 そして、思っていた以上に暑い。机に乗せられた麦茶のグラスがあっという間に汗を掻いた。私も汗を掻いた。寝かせて貰っているシーツに汗を落としてしまわないか、それだけをすごく心配しながらなんとかやり過ごしていた。
 戦場ヶ原先輩も、急な猛暑日に対応しきれなかったのだろう。傍に置いたタオルで額の汗を拭っていた。
 不健全だ、と感覚的に思った。まるで、室温も湿度も高い部屋に二人きりで閉じ込められたかのような。そんな妄想をしてしまった所為で余計に腿の合わせ目が濡れた。
 戦場ヶ原先輩は真面目な気持ちでモデルを依頼したのに、浮足立った気持ちになっている自分を恥じもしたし、その実興奮もした。ストイックでいたい気持ちと思春期らしい性への興味とを合わせ抱きながら、でもそれらを暴かれて叱られるのは――怒られるのは嫌だったから、どちらもを表に出さないようにする。
 私が「暑い」と言えば空調のスイッチを入れたのだろうけど、服を着ていないモデルの為に我慢していたのかもしれない。こうして振り返ってみれば鈍い私でも落ち着いて推察出来るが、今以上に鈍かった、というか自分の状況に一杯一杯だった中学生の私は気付かなかった。恥ずかしい限りである。尤も、他人の家で全裸になってそんな余裕がある十四歳の方がおかしいだろうという気もする(ついでに今では戦場ヶ原先輩とお付き合いしている先輩に全裸を見せたことがある。これはこれでおかしい気はしている)ので、大目に見て貰いたい。
 そんな風に私という迂愚な後輩に対して優しかった戦場ヶ原先輩だが、熱中してきたのか、タオルに手を伸ばす頻度は次第に減っていく。
 そして、その集中力と比例するかのように、彼女の眼光の鋭さは増していく。
 露出した私の肌を目掛けて、戦場ヶ原先輩の視線が刺さる、刺さる、刺さる。私の輪郭を、質感を、熱量を捉えようと容赦なく追ってくる。まるで足の裏をそわそわと撫でられているかのように落ち着かない。苛まれているかのような。そんな気さえした。
 日頃物柔らかな表情で人と話す戦場ヶ原先輩の冷たい視線。必要最低限しか動かさない表情筋。今にして思えばこれが素の戦場ヶ原ひたぎだったのだろう。あるいは、その片鱗。
 しかし、その時の私にとってそれは特別だった。特例――異例と言っても良いかもしれない。
 気まずくなった喉がしゃっくりを上げそうになるのを堪えた。代わりに。
「……戦場ヶ原先輩」
「なあに?」
「汗を拭っても良いか?」
 すると、先輩は呆れたように頬の筋肉を綻ばせ――同時に、いつもの戦場ヶ原先輩を見れたことに私は安堵する。
「神原、あなたこれからの時間、身動きひとつしないつもりだったの?」
 うん、と首を縦に振った動作は、先のものと同じくらいにしおらしい様子だ。別の意味で。
 だけど先輩は臆することなく。
「長丁場になるかもしれないし、ある程度は楽にしてて良いわよ」
 さらりと言った。それは私への気遣いというより、私の愚かさを指摘するような冷たさで――この先輩は後輩を責める様な人ではないから勘違いだと思い直したけれど――おかげで私の頭は些か冷静さを取り戻せた気がした。お言葉に甘えて、手首で自分の顔を少し大袈裟に拭う。頬がびっくりするほど熱を持っていた。
 きっと、この暑い暑い部屋の中で一番涼やかなのは戦場ヶ原先輩のその物言いだろう。言い様ではなく、言い方が。初めて受け取るあなたからのそれが。
 ――冷たくて、気持ちが良い。
 しかし、そんなことを考えたのは一瞬。
 再び、じっとりと汗を掻いた戦場ヶ原先輩の真剣な視線が私に突き刺さる。
 湿った額に切り揃えられた前髪が薄く張り付いている。デッサン用の鉛筆を人差し指と中指の間に挟めたまま、手の甲がそれを拭う様を見ていた。
 演技めいた私よりもごくごく自然で、かつ上品な仕草だった。

 まあ、心の中で散々大騒ぎしたもののこれといって色めいた出来事も無く、つつがなくモデルのバイト(私の熱意の甲斐あって実際は無料奉仕)は終了した。
 生殺しも良いところである。
 かようにして、私のエロの師匠の教えは今の私の中で生き続けている――とかそういうことを言いたかった訳ではなく。ただ先日、阿良々木先輩が「神原の裸は一度くらい見ておいたほうがいいわよ」と戦場ヶ原先輩に言われたらしいと小耳に挟んだので、ちょっと振り返ってみたくなっただけである。

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