至情には未だ遠い #5

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 駄目で元々、気付かれなかったらその時はその時。なんて具合に、なるべく控えめに戸を叩いたというのに、先生は動じることなく俺を出迎えて、当たり前のように部屋に招き入れた。勿論、真夜中の逢瀬の約束なんてしていなかったので、寧ろ訪ねてきた俺の方が面食らってしまった。先生があまりにも涼しい顔をしていたから、都合良く勘違いしてしまいそうになったが、腰を下ろした寝具にはまだ温もりがあった。俺が通りがかった時に偶然起きていた、という訳ではないらしい。
「突然すみません、迷惑でした?」
「迷惑ではないが……」
 と、教師らしい懐の深さで返しながら先生は言葉を切った。多分、その先を促されている。迷惑ではないが、理由は知りたい。そんなところだろうか。しかし残念なことに、俺の方も語るべき理由は持ち合わせていなかったのが正直なところだった。気まぐれに、先生の部屋の戸をノックしたくなった結果、こうなってしまった訳で。こういう時、なんて答えるのが自然なんですかね。
「えーっと、用って程の用はないんです、けど……」
 なんとなーく眠る気分じゃなくて、なんとなーく外の空気でも吸おうかと部屋を抜け出したところ、なんとなーくあんたの顔が浮かんだ――しかし、それをそのまま説明するのはなんだかなあ……って本音の方が先行した挙げ句、
「……用がなくっちゃ、俺はあんたを訪ねちゃいけませんか?」
 拗ねてるんだか口説いてるんだか分からない台詞になった。どっちかといえば後者の方が都合が良いかな、と思ったので、そのまま近くにあった肩を抱く。俺の腕の中で歯の浮くような台詞を前にした先生は、俺が寄せた唇を手指の先で軽くあしらいながら、重くて深い溜め息を吐いた。しかし、そこには呆れではなく安堵の気配があったので、俺も首の皮一枚繋がった気持ちになる。先生は誰にでも優しい人だと評判なので、こんなろくでもない俺でも叱ることはないだろうとは踏んではいたが――いや、それはそれでなんだか面倒くさいものを抱えてしまっている気がする。いっそ軽く叱られた方が気が楽というか。逢瀬に理由は要らないが、教師が生徒を部屋に招くには理由が必要ですもんね。
「……お茶でも淹れようか」
「ああ、良いですよ。そんなに長居する気もないんで」
「そう? じゃあ、喉が渇いたから良ければ付き合ってくれないかな」
「そういうことなら喜んで」
 そうして先生は呆気なく俺の腕から抜け出していく。机の脇の棚から茶器を取り出そうとして、陶器がぶつかる音が小さく響いた。真夜中のお茶会の場は手際良く整えられ、俺の前に差し出されたティーカップからはカミツレの香りが漂い始める。
「先生の部屋に茶器なんてあったんですね。良い趣味してるじゃないですか。……なーんか、高そうなやつですけど、いつの間に買ったんです?」
「この間、フェルディナントに貰ったんだ。先生が好きなお茶に似合うだろう、と」
「ふうん? 先生も隅に置けませんねえ……え? どういう意味かって? だって、これって贈り物でしょう? そういう意味の」
「君が考えているような意味ではないと思う。彼は良い子だから、慕ってくれてはいるけれどね」
「あー……、まあ、先生がそう思うんなら、そうかもしれませんが」
 そう思っているくらいが健全で良いのかもしれませんが。
 どこか腑に落ちない気持ちで、女の匂いが少ない(そもそも、この人に限って言えば、女の匂いどころか人間の匂いが薄いきらいさえある)相手を見遣る。繊細な細工が施されたカップに先生が唇を寄せられてすぐ、ずず、と決して行儀が良いとは言えない音が小さく響いた。
「せんせ」
「……ああ、すまない。どうにも慣れなくて。偶に、気を抜くとこうなる」
 紅茶は啜ってはいけない。これもフェルディナントに教えて貰った筈なのに。と、先生は眉尻を下げて、ばつが悪そうな顔を作った。
 つまり、だ。先生が慕われているのは持って生まれた性や家柄ではない、ということだ――否、今更そんなことで絶望する程ガキじゃあないのだが、忘れかけていた五年前の嫉妬がまだ燻っていたのは、少し。
「…………」
 先生は、俺の腹の底でゆるくとぐろを巻いたどろどろした気持ちなんて、まるで興味がないとでもいうように、呑気に欠伸をした。なので、俺も目前の紅茶に集中しようと試みる――ま、仮にこっちの心情を察されていたとしても、それはそれで挨拶に困るんですがね。
「先生もなんだかんだ貴族と付き合って長いのに、変わらないですねえ」
「自分にとってはつい先日のことなのだが……そうだね」
 君達との時間の乖離が、これから困ることになるかもしれない。そうして先生の眠そうな瞳はどこか寂しそうな色になった。

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