至情には未だ遠い #2

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 この人の冴えた瞳がどうにも苦手だった。
 戻らなくて良いのか、とでも言いたげな非難の視線を向けられる。それこそ出会ったばかりの頃なんて、まるで人形か何かのように表情に乏しかった筈なのに、近頃の先生は教え子に対して随分と目でものを語るようになってきた。しかし、その意をいつでも好意的に汲んであげられるような人間じゃあないのが俺って奴だったので、こうして他人のベッドの上で胡坐を掻いたまま動かないでいる。ここに至るまでそれなりのことをしてきたので、それなりに倦怠感はあった。しかし、誤解を恐れず、そして不純ではしたない動機を探すとしたら、俺が経験してきた女の子達のそれとは違って、この部屋のシーツにはまだ清潔感が残っているような気がして、なんとなく身を起こすのが億劫になってしまっていた。
「もう少しだけ、ここに居ても良いですか?」
 すると、先生の目がまた少し見開かれる。寝具に押し付けていた所為ですっかり跳ねてしまっている後ろ髪が、いつもの端正な顔の迫力をやや緩和させてはいたが、その表情には俺の素行を咎める色があった。
「ああ、いや、冗談……って程、冗談でもないんですが。夜遅くに部屋に戻ると、どうにも隣人が煩くって。小言を言われるのにゃ慣れてるんですが、それでもなるべく顔を合わせずに済む時間を見極めなきゃならないんですよ」
 言い訳は、するすると口を突いて出ていった。もう少しだけ、あんたの部屋に居たい。言い回しに多少の差はあれど、それは何度となく使ってきた言葉だった。なのに、こうも真っ向から受け止められた経験はついぞなかったので、自分で選んだ文句だというのに、口に乗せたそばから気が滅入ってきた。これだから、この人の目は苦手だ。
「――ま、それもこれも俺の素行の所為、なんですがね。先生が迷惑ってなら、止めときます」
 それでもなんとかしおらしい言葉でまとめると、それまで眉根を顰めながら素行不良児の言い分を聞いていた先生は、視線を俺から外して俯いた。なんだかいきなり見放されてしまったかのようで少し心許なくなる。愛を囁いた相手から――たとえその本心がどこか別の場所にあったとしても、だ――誰かから見限られるというのは、いつだって堪える。自分の腹の奥底が、何か冷えたもので一杯になる。過剰に求められるのは嫌な癖に、捨てられるのも怖い自分が居るのだ。半ば衝動的に、相手の方へ手を伸ばしたくなって、しかし、どう伸ばせば良いか分からなかった。だって、俺にとっての先生って、真っ直ぐに愛を囁けるような相手でないことは確かなんですよ。そもそも、俺にそんな相手、一人だっているのかって話ですけど。だのに、こうして帰りたくないってごねている。そんな現状にどう説明を付ければ良いのか、まず俺自身が分かっていない。言い訳を並べるのには慣れているが、真実を説くのは苦手で。だからこそ、深追いはしないのが俺の信条――の筈だったんですが。
「……ねえ、先生」
 何か言ってくださいよ、と。気まずさに耐えかねて頭を掻いていたら。
「好きにしたら良い」
 呆れた溜め息の中に、そんな穏やかな声が聞こえた。それを聞いて気が抜けたのか、実は俺は俺が思っていたより緊張していたのか、自分の唇からも薄くため息が漏れた。
「はは、……ありがとうございます」
 先生の顔にはやっぱり腑に落ちない気持ちが張り付いたままだったが、俺を無理矢理にでも自室に返そうという気は薄いらしい。なので、お言葉に甘えて好きにすることにした。もう一度シーツに背を沈める。寝具は同じ造りの筈なのに、どうしてここはこんなに広くて深く感じるのか。ここに入り浸るようになってそこそこ経つけれど、その理由もずっと分からないままだ。先生の背中は遠い。
 一方で、だらけだした俺に構わず、そのまま自分の机に向かう先生。仕事、溜まってたんですか? と訊くのは野暮だと思ったので止しておく。先生の操るペン先が紙の表面を引っ掻く音だけが響く。
「……静かですねえ、ここは」
「そうかな」
「そうですよ」
 ゆっくりと相槌を打ってから気付く。それまでずっと一生懸命に喋っていたのは俺だけで、先生の中ではずっと静かな時間が流れていたのかもしれない、と。俺はそんな時間が欲しくて、そんな生き方が羨ましくて、なんとか先生の腹の中を覗けないかと足掻いている。その結果がこの様とは、全く以て笑えないですがね――と、寝癖の付いた後頭部を眺めながら俺は独りでごちた。
「隣人かいないからだろうか」
 不意に、言葉がもたらされる。ふらふらと思考を遠くにやっていた俺とは違って、先生は俺の出した取り留めのない話題について、ちゃんと考えていてくれたらしい。
「あれ? この部屋の隣って、誰でしたっけ」
「隣はドゥドゥーだが、……そうじゃなくて」
「え? ……あ、ああ。隣人って、上の階の俺の話か。なるほどね。はは、先生も皮肉とか言うんですねえ」
 朗らかに笑ってみせると、ペンを走らせる音が少し鈍くなる。先生の瞳ではなく部屋の天井を見ながらの会話だったので、まだいくらか気楽に返事が出来た。
「俺が上にいると、うるさいですか?」
「そんなことはない」
「じゃ、俺じゃない奴がうるさい、と?」
「…………」
「沈黙を選んだからって、傷付かない訳じゃないんですがねえ……いっそ部屋割り変えて貰えれば、俺としても非常にありがたいんですけど。それこそ、先生の部屋なんて楽そうですし。夜中に女の子を連れ込んでも、怒られないでしょう?」
 なんて、俺が言っちゃいけないですね。
 沸き上がる自嘲の念をからりとした笑顔に造り替えながら、先生の懐を覗き込んでみる。先生は困ったように目を細めただけで、やっぱり何も言っちゃくれなかった。涼しい季節になってから幾分かマシになってはきたものの、先生は今でも必要最低限のことしか喋らないきらいがある。その見立てが正しければ多分、俺はあんたにとって不必要な存在なのかもしれない。だからこそ、あんたが俺に向かって皮肉を言うようになった今を、なんだか信じられないでいる。

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