失恋専用救急箱

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「まあ、そんな気はしていたんだけどな」
 やけにフラットな口調でぼやく神原の表情は、その声のトーンと同じで抑揚が感じられない。本当になんでもないことのように私に事後報告をしている。他の奴が見れば、その様がかえって痛々しく感じたりするものなのだろうか。私の立場でそんな感情を求められても困るけど。なんて、それは少々おかしいか。自分の立場なんて私自身も分かっていないから。
 神原駿河が私をどう思っているかは知らないが、知らないし興味も無いが、彼女から失恋報告を受けるのはこれで二度目である。
 私は右の耳で彼女の話を聞いていた。というのも、左の耳はイヤホンで塞がれていたから。私の片耳から伸びるコードの先はそれぞれ音楽プレーヤーと神原の右耳に繋がっていて、いつかと同じ様に彼女の好きな曲が私達の間に流れていた。片耳だけで音を拾う所為で歌詞は頭に入りにくかったが、雨音を消すのには十分に役立った。
 雨音。
 一度目も今日のような雨振りで、あの時はただひたすらに泣きじゃくっていたように記憶していたけれど、あれから彼女も少しは大人になったという事か。……そんな単純な話でもないかな。
 しかし、今回は当事者が落ち着いて話をしているおかげで、私も強引な手段を取らずに済んだ。用意してきたティッシュと鎮痛剤とバブルバスは見事に無駄になったけれど。
「振ったの? それとも、振られた?」
「訊くな」
「なんだよ。きみが話し始めたくせに」
 本人曰く持って一ヶ月、という予想はぎりぎりで外したものの、短い交際期間なりのショックはそれなりにあるようだった。
 私としても経緯こそうろ覚えだが、交際が決まった日の彼女の輝くような笑顔はまだ記憶に新しい。
「原因? そんなものないよ」
 次ぐ私の質問に、今度はやけにはっきりと答えた。
「なんていうか、付いていけなかったんだよ。情けないことに」
「ストーキングまでしたきみが言うならよっぽどだ」
「……難しいな、人と付き合うのって」
 嫌味な冗談は受け流される。しかし、それは同感だった。対象が違うけれど。
 神原の手の中でチョコレートの板が割られて、欠片が口に運ばれる。私はいつものようにガムを噛みたかった気持ちもあったが、今日は彼女に付き合ってチョコを口に入れた。
 安い部屋で食べたチョコレートも立派な神原家の縁側で食べるチョコレートも、それほど味は変わらなかった。神原はどうだろう。男を想って食べる味と女を想って食べる味は違うものなのだろうか。
「やっぱり、きみは女の子の方がいいのかな」
 私にとっては変化に乏しいビターな味を、ゆっくりと口の中で溶かしながら言うと、彼女は力無く笑った。
「はは……どうだろうな」
「まったく、きみが男嫌いになっちゃったらどう責任取るんだろうねえ、阿良々木さんは」
「……私の尊敬する先輩を悪く言うなよ」
 ふと見ると、彼女が浮かべていた表情は勝手知ったる口を塞いで欲しい時のそれに変わっていたから、私は身を起こして触れた。随分と久しぶりだったけれど抵抗はされなかった。
 以前に比べて柔らかくなった感触に、私の胸はざわつく。
 こんなに変わるものか、一ヶ月って。
 それまでの彼女の可愛そうな話を聞いていた故の自分が抱えていたどこか満たされたような気持ちが、少し苦いものに変わる。丁度、口の中のチョコレートと同じような感じに。丁度、彼女の中の先輩の思い出と同じような感じに。
 いつまでも踏み切れないのは、私を彼女にとっての三度目にしたくないから。そしたら今日のことだって、神原は思い出す度に苦い思いをするのだろうか。
 なんて、この沼地蠟花にそんな人を想うような気持ち、ある筈がない。
 耳と口と一緒に、目も塞いだ。

 

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