天国に割と近い部屋

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01

 阿良々木暦は生きることが好きだけれど、希死念慮を抱くことは決して珍しいことではなくて、それは十八歳になる直前の春休み然り、中学一年生の夏休み明け然り、その他諸々、その都度具体的なシチュエーションは覚えていなくとも、何度となく息苦しさを感じてきたのは真実なのだった。
 死なない人間は居ないけれど、生まれてから死ぬまで一度も死にたくならない人間も居ない。居ない筈である。潔く認めるには少々悲しさが付き纏うけれど、居ないのである。短いようで長い人生、苦しいことや恥ずかしいことを前にして、「ああ、今の失敗無かったことにならねえかなあ」なんてみみっちいことを思うのも、それまで生きてきた自分を否定するという側面で切り取れば、ささやかな自殺願望の一種と見なせる――というのは流石にラジカルな極論だが、生きとし生ける者は多かれ少なかれ自分を殺して生きていると、僕は思う。人間誰しもそういうところはあるだろう。吸血鬼だってそうなのだから。なので、そういうところも愛していかねばならないのだと、学んできたのが僕の青春だったと言えよう。
 ついでに述べれば、死にたくても死に切れない吸血鬼時代や、実際に死んだ大学受験当日の出来事だとかを鑑みて、まあ生きている方が地獄だな、と思うことしきりな訳だが――しかし結局、なんだかんだ生きているのが僕である。どんなに自分を最低な人間だと罵ろうと、最低な人間にも最低限の人権が保障されているのが現代社会。だから、此度己の周りの人間関係がちょっとばかり変化したことによって生じた軋轢に、メンタルを擦り減らされた僕が、高校時代から懇意にしている後輩の神原駿河を捕まえて、
「いっそのこともう死にてえよ……」
 と、嘆いたところで、それは軽口の域を出ないのである。
 遡ること数日前。当時付き合っていた彼女に振られた勢いで誘った焼き肉屋からの帰り道、というシチュエーションも、その場の言い訳になってくれるだろう。この時に感じていた精神的苦痛は嘘偽りのない本物の苦痛で、誰に代わって貰うことも出来ないけれど、それでも僕は忘れる力と立ち上がる力を備えた男の子なのだ。なので、ただ立ち上がるまでの時間が欲しかった。関係の変化を望んだ末、断絶を選んだ元彼女に言わせれば、僕の数少ない美点である立ち直りの早さも行き過ぎれば汚点でしかない、と指摘されたのも悲しい事実だが。だけど、だけどだ。今日のそれもとりあえず口に出して気持ちを軽くしたい、とにかく背負っているものを半分にしたいが為に言った「死にたい」だった。その荷を背負わせる相手が自分を慕ってくれている年下の後輩である、というのが超格好悪いというのは理解しているが、ひとまずは目を瞑って欲しい。僕が運転するクルマの後部座席に座っている、現在に至るまでどんな醜態を見せても尚、僕を慕い続けてくれた年下の後輩なら――神原駿河さんなら、きっとこう言ってくれるだろう。
「良いか、阿良々木先輩。死にたいという気持ちは逃げだ。自殺願望というのは、言い換えれば甘えだ。どんなに辛かろうと悲しかろうと、生きることから逃げるのは悪いことだ。そして、私の尊敬する阿良々木先輩は、そんな逃げ道を選ぶことを良しとするような人ではない筈だ。私の期待は山よりも高く海よりも深いけれど、阿良々木先輩はいつだって私の期待に応えてくれたじゃないか。それでも、今回ばかりはどうしても、阿良々木先輩が自分の脚で立ち上がることが出来ないというのなら、僭越ながら若輩の身であるこの私に、どうかあなたの尻を叩かせて欲しい。あなたが望むなら、私は喜んであなたの尻を叩かせて頂く。いや、決して先輩の健康的な尻を好奇心の赴くままに叩いてみたいだとか、そういう邪な気持ちは――全くないと言えば嘘になるが……いやいや、この期に及んでそんな些細なことは気にしなくても良い。叩く側と叩かれる側とでどちらか選ばなくてはならないとしたら、私は迷うことなく自分の尻を差し出すだろうし」
 ……こんな感じか?
 自分の頭の中で組み立てた後輩の像が思いの外うるさ過ぎて、不要に心を折ってしまいそうになったが……ともあれ、言葉の選び方に多少の差異はあれど、矮小な僕に対してさえ、厳しくも優しい大きな心を以って接してくれる彼女は、今宵も僕を不遜に叱咤激励してくれるに違いない。というか、なんでも良い。どんなにくだらない話題でも、面白おかしい話題で塗り替えてくれれば、それで――と、思っていたのだが。
「そうか……うん。それもひとつの道かもしれないな」
「……えっ」
 実際の神原は僕の泣き言を前にして、まるで得心いったかのように、静かに頷いただけだった。
 意外にも。
 思いもよらず。
 予想だにせず。
 少なくとも、彼女は悪戯に死を肯定するようなタイプではなかった筈だ。
 …………。
 阿良々木暦は今の今まで知らなかったのだが、実は、神原駿河は正道を外れることに存外躊躇がない奴だったのかもしれない。この後輩と奇妙な縁が始まって早二年、知らない一面って案外まだあるもんなんだなあ、と穏やかに分析する気にはとてもじゃないがなれなかった。きっと、僕は期待していたのだ。期待を寄せられていたのは僕ではなく、神原の方だった。期待していて、そしていざその期待を裏切られたことを、少なからずショックを感じている。尻を叩かれたいと望んでいたのも、他ならぬ自分だったというのか……。出来ればずっと気付かずにいたかったぜ。
「僕はもう駄目だ神原……」
 頼むから、どうかそんなこと言わないでくれよ。僕の記憶の中ではお前、いつだって真っ直ぐに走っていたじゃないか。と、縋るような思いを抱えながらクルマを走らせる。しかし、かように落ち込んでみせるのが自分勝手だということも、分かってはいるのだ。
 堪え切れなった溜め息がひとつ、車内に深く響いた。すると、急に後ろから腕が二本するりと伸びてくる。確認するまでもなく、神原の腕だった。そのまま座席ごと僕の上半身が抱き締められたので、反射的に心臓の打ち方がテンポアップした。危うくハンドルを切り損ねるところだったが、理性で押し込めて平静を装う。僕もいい加減、二十歳を迎えた大人なので、このくらいのスキンシップに一喜一憂するようなデリケートハートではいられない。
「そんなことを言わないでくれ。私は阿良々木先輩のことを心から慕っている。だから、あなたが悲しんでいると私まで悲しい気持ちになってしまう」
 そしてここにきて、神原後輩は僕が欲しかった言葉をくれた。
 ……これ、僕じゃなかったら危なくないか? こんなん無実だろうが。このまま法廷で裁判にかけられたとしても、僕、無罪勝ち取れるんじゃないの?
 しかし、彼女の湿った肌には焼けた牛脂とアルコールの匂いが残っていて、ますます訳が分からなくなりそうである。つーかシートベルトしろよ。にこにこ笑顔で僕に抱き着いてないで。あと、僕はドライバーだったので誘った張本人の癖に飲めなかったのだが、神原はギリギリ未成年だったのにアルコールを舐めていた(自分の名誉の為に言わせて頂くと、先輩として一応止めはした)ので、ここでおまわりさんに捕まるとそれこそ社会的に死んでしまう。
 そんな風に、前頭葉が勝手に現実逃避を始めた結果、神原の家へ続く筈の曲がり角を、僕はうっかり曲がり損ねた。

 
02

 未成年の後輩と一緒にウィークリーマンションに身を寄せるのって、もしかして犯罪になる?
 しかし、阿良々木暦は走り出したら止まれない、もとい、転んだら坂の下の下まで転がり落ちるような男なので、その辺りは諦めて欲しい。もう道を突き進むしかない。どの道もう契約しちゃったし。その後のことは契約期間が過ぎた一週間後に考えよう。しかし、せめて罪悪感は薄められねえかなあ、と頭の中で思い付く限りの言い訳を並べながら、僕は新居へ向かう電車に揺られていた。遠方に新しい居を構え、その際二人の足として使っていた自家用車を置きに一旦実家に戻った後、再度契約した賃貸マンションに向かう道中。先に向かわせた神原は一足先に入室している頃だろう。
 ふと、車窓から見える風景の端が、青い色をしていることに気付く。
 窓の外には海があった。
 初めて見たよ、海。
 二十歳を過ぎてそんなことあるのかと、人によっては驚かれるかもしれないが、僕が生まれ育った地元の街は海がない土地だったのだ。しかし、綺麗な海面を確認出来たのはほんの短い間だけで、傾いた夕日と逆方向に位置していたそこは、既に黒い絵の具を溶かしたかのように暗闇を広げ始めていた。さっきまでは確かに青い色をしていたのに、日が沈んでしまうと、その場所はまるで底をなくしたように見えた。海も夜には暗闇になるんだな。知らなかった。
 思えば遠くに来たものだ。

 駅からの道のりの途中にあったコンビニで食料を調達した後、一度もくぐったことのない玄関をくぐる。知らない部屋には見知った神原が待っていて、傷心気味の僕を元気に出迎えてくれた。
「おかえり、阿良々木先輩」
「お、おう……ただいま」
 どもってしまった。眩しい笑顔に気圧された。僕の逡巡をものともせず、神原はそのまま、コンビニの買い物袋を持っていなかった方の僕の腕を巻き取るようにして、身体を絡ませてくる。完全にされるがままだな、僕。それからキッチンに引っ張られていき、買ってきた食品パックを電子レンジに突っ込んだ。……この部屋は台所のなりをしている割に、やけに使用感がないと思ったけれど――そうか、調理器具が殆どないのだ。
「……あのさ、神原」
「ん?」
 レンジの中でぐるぐる回る野菜炒めを眺めながら、未だ腕に張り付いたままだった神原に、僕は訊いた。
「お前はさ、本当に、僕の為なら死ねるって思えんの?」
 つーか、それで良いの?
 怖いとか思わないの?
 降りたいなら降りたいって言って良いんだし、というか言ってくださいお願いします。なんでお前、僕みたいな奴を心の底から信奉してるんだよ。後輩の人生を無思慮に消費しようとしている僕なんか、信じて良い筈がないじゃないか。僕はたまにお前が怖い。
 なのに。
「うん、死ねるぞ」
 神原駿河は、僕の言葉に力強く頷くだけである。
「阿良々木先輩の為になると言うのなら、私に迷いはない。しかし、阿良々木先輩。そう何度も確認されると恥ずかしいぞ。なんだか照れてしまう」
 かような台詞を、いつもの雑談の最中に垣間見せるきらきらした笑顔で言うものだから堪ったものではない。繰り返しになるが、僕は神原に後ろ向きなことを言って欲しい訳ではない。僕への憧憬が――そもそもそれ自体、神原だけが見ている幻に過ぎないのだが――僕の中の彼女を曇らせてしまったのだとしたら、それ以上に悲しいことはないのだから。
「……っ」
「ど、どうしたんだ阿良々木先輩、大丈夫か? とりあえず私を抱いておくか?」
「……こんなテンションで抱けねえよ」
 僕の罪は重くなる一方である。一体いつからこんなことになってしまったのだろう。そんな風にぐずっていたら、気付けば腕の外側ではなく内側に神原がいた。
「抱かないと言った筈だが」
「ならば熱いベーゼを交そう」
「フランス語を交えてねだっても駄目」
 昔、相手の為に死ねるなら、そいつは自分にとっての友達なのだと身体を張って教えてくれた奴がいたけれど、じゃあずっと生きていて欲しいと思った相手のことは、なんて呼べば良いんだろうな。

 
03

 海を見に行ってみたい、と声を挙げたのは神原の方からだった。僕の方は、自分の街から逃げ出したその日に見たあの海の色が記憶に残っていたので、あまり気乗りはしなかったのだが、しかし、後輩たっての願いとあっては仕方がない。それに、僕の我儘に付き合わせ続けてゆうに三週間は経っているので、ずっと部屋に閉じ込めておくのも、そろそろ可哀想だ。
「阿良々木先輩が俗世に染まらない高尚なお方だということは十二分に理解しているが、そんなに厭世家ぶらなくても。私の水着姿が楽しみだと素直にテンション上げれば良いではないか」
「二月の海に水着で入る気か、お前。温水プールじゃねえんだぞ」
 衣食住を共にし始めて随分経つのに、この後輩はいつまでもポジティヴなボケ方をしてくれるから嬉し涙が出そうだぜ。しかし、そもそも隠棲地に水着なんて持って来てはいなかったので、手ぶらで海岸へ向かう僕と神原だった。焼肉店の帰り道に僕を惹き付けた神原の「らしくなさ」は、新しい生活と向き合っている中で、次第になりを潜めていったように思える――のも、やっぱり僕の願望でしかないのかもしれないが。
「あ。手ぶらと言っても、阿良々木先輩が期待しているような手ブラじゃないぞ? 下着はちゃんと着用している。他人の女になった神原駿河は一味違うのだ。そのくらいの分別は付く」
「誰もそんな期待はしていない。手ブラで冬の海を泳いでる奴がいたら、それこそ通報案件だろうが。かえって目が離せねえよ」
 他人の女、に関してはスルー。ツッコミにくいので。
「ふふ、まさか阿良々木先輩の視線を独り占め出来る日が来ようとは。私もえらく出世したものだな」
「言ってろ」
 かようにコメントし辛いツッコミ返しを食らいつつ、沿岸の道を歩いた。砂浜は住処にしていたマンションからそう遠くない場所にあった。そして、この近隣では真冬に浜辺で遊びたいという欲求を抱く輩は少数派らしく、僕達の他に人影はなかった。魚を獲って生計を立てていそうな地元の漁師の人も、季節を問わず一年中海を愛していそうなサーファーもいない。どっちも生まれてこの方、実際に見たことはないけど。
「すごいな、海。久々に見たぞ」
「うん。僕は初めて近くで見た」
 広い。大きい。そして波の音って、結構うるさい。空と海を分かつ水平線はどこまでも並行だった。僕と神原の二人きりという点では部屋の中と同じなのに、場所を変えただけで閉塞感が全くない。まだ太陽が高い位置にあった所為か、水の色は殆ど青だった。良かった、暗闇じゃなくて。
 そして神原は本当に海に入る気でいるらしく、浜辺で靴下を脱いでいた。穿いていたズボンの裾を捲り上げて、裸足の踝を水に浸ける様を、僕は見守る。中々に勢い良く飛び込んでいったので、水飛沫が綺麗に立った。いい加減しつこいが手ぶらで来たので、タオルとか持ってきてないんだけど。どうやって足を乾かすつもりだ。お前のそういう後先考えないところ(は僕も大概だが)、今はちょっと良いなって思えるぜ。
「冷たい! 冷たいぞ阿良々木先輩!」
「だろうな」
「冷たいを通り越して痛い。足の指が千切れそうだ」
 とのことだったが、言葉とは裏腹に、実に楽しそうな様子で、神原はざぶざぶと海に入っていく。遠慮も躊躇する素振りも見せない。このまま放っておいたら、腰から上まで浸かりにいきそう。不意に、頭の片隅に「入水」の二文字が浮かぶ――これ、下手したら、もう帰って来ないんじゃねえの? と、いきなりそんな焦燥感に駆られて、僕は走り出した。初めて触れる海。一歩入っただけでその冷たさに全身が総毛立つ。水飛沫が派手に舞って水面が泡立ち、スニーカーはあっという間に海水を吸って重くなる。濡れた靴下が足指に纏わりついてきて気持ち悪かったが、構わず走った。距離は数メートルもない筈なのに、なんだか神原がとてつもなく遠くに感じた。やっとのことで追い付いて、相手の手首を掴んで引き留める。神原が振り向く。そこには笑顔があったので、ひとまず首の皮一枚は繋げられたような気になれた。息を切らしながら相手の肩を抱く。
「はあ、お前、なんで……あんまり驚かすんじゃねえよ」
「ん? ああ、ちょっと夢中になり過ぎてしまったか……ふふ、阿良々木先輩は、どこまでも私に付いてきてくれるのだな」
「な、なんだよ、それ」
 そういうのが得意なのはお前の方だろうが。
「海は偉大だな、阿良々木先輩。生物の起源を感じる。生命のスープだ」
「あれ? なんだっけそれ。なんか聞いたことある」
「元はコアセルベート説だが、恐らく、阿良々木先輩がご存知なのは新世紀エヴァンゲリオンに出てくる台詞の方だな」
「あー……映画館も、また行きてえなあ」
「行けば良いではないか。いつでも付き合うぞ」
「うん」
 なんて、いつか来るかもしれない映画の公開日について僕達は話した。それ以外にも、これまで多くの話をしてきた。たくさん、色々。生命の源が海であったなら、人生もまた海である。人の一生を空模様で例える人もいるのだから、海に例えたって良いじゃあないか。幸せと不幸せには波があって、希死念慮も生の実感も、寄せては返すを幾度も繰り返している。誰かと一緒に生きている限り、阿良々木暦はどうしたって相手の時間を削りながら生きていて、それに目が向いた時は少し息苦しくなるけれど――実はとても幸福で贅沢なことだと、僕は思う。なのに、しょっちゅう忘れてしまう。どうにも僕は忘れっぽくていけない。だけど、そんな僕を否定してくれるような相手は、ここには居ないのだ。
 ここには神原駿河しか居ない。
 僕がそれを望んだから。
 奥歯を噛み締めながら深呼吸をすると、潮風の所為か、口の中がちょっとしょっぱくなった。
「なあ、神原」
「ん? なんだ?」
「……いや、なんでもない。そろそろ帰るか」
「おう」
 帰る。そうだ、帰ろう。帰るんだ。相手と向き合う覚悟が出来たから。僕らはまた始めなくてはならない。
「ついでに、コアセルベート説を提唱したのはオパーリンという学者なのだが、聡明な阿良々木先輩なら、この人名から何か感じるものがあるとは思わないか?」
「思わない」
 シリアスにギャグを混ぜてくるな。珍しく真面目な感じにまとまりそうだったのに。

 
04

 それから程なくして、どこかの地方紙の片隅に僕達の死亡記事が載った――かもしれない。今生はそういうオチにしておこうか。

 

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