それだけ

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 うちの学校の体育倉庫はどうして内側から鍵が掛かるようになっているのだろう。彼女は私を、体育用具やバスケットボールの匂いで満ちた狭い空間に入れてから、重い扉をきっちりと施錠した。そんなことをせずとも誰も来ないだろう、と経験則で私は思うのだが、それは彼女の意識の与り知らぬ事象である可能性も否めなかったので、言わないでおく。
「ねえ」
 やんわりと私を壁際に追い詰めて、それだけでも沼地は満足そうだった。しかし、次に継がれた発言は恐ろしく耳を塞ぎたくなるようなものだった。
「私のことが好きなら、舐めてみてよ」
 彼女がジャージを脱いだところを初めて見た。下半身に何も身に付けていない姿は、向かい合っているこっちの方が心許なく感じてしまう。幸いジャージのサイズが大きい為、上着の裾がその場所をかろうじて隠してはいるけれど、かえってそれが背徳的に映った。脚の間を通して、降ろされたズボンの中に下着も一緒に丸まっている様が見えるのもとても生々しい。
 その熱量を前に、情けなく床にへたり込んでいるだけの私を見下ろして、沼地は目を細めて笑っていた。
 その全部から逃げたくなった。
 そして、彼女との押し問答にもいい加減うんざりしていたことも事実だった。
「へえ? 好きなんだ?」
「……しないと、角が立つと思っただけだ」
「ああ、そう。チームプレイを重んじる神原選手らしい言い訳だね」
 水音を立てないように舐め続けるのは根気がいる。そうしろと強要された訳でもないのに細心の注意を払って舌を当てたのは、我ながら些細な抵抗だ。
 おかげで彼女が深く息を吐いた音はしっかりと耳に届き、嫌悪感を抱いたタイミングでやっと、私は問うた。
「これで満足か」
「……どうかな」
 沼地は動かない。だから私も退かない。
「別に止めてもいいんだぜ? 私だって、自分が随分と非常識なことを言っているという自覚はあるのだから」
「……じゃあ、どうして」
「どうしてかな。私の気まぐれだよ。悪魔の気まぐれ」
 その言葉通り、とても酷い思い付きだと心の中だけで同意した。ただし、今はそんな小さな意見の一致さえ私の気持ちを重くさせる。
 唾液は飲まなかった。絶対に。
 自分の口から溢れて垂れ流されるだけのそれが、沼地の内腿を無遠慮に濡らしていく。
 今度は先よりもずっと小さく、彼女が息を吐く気配がした。

 後から思い返せば返す程、現実味がない時間だった。まるで何事もなかったかのように私に1on1を持ち掛ける沼地を見ていると、あれは夢でも見てたんじゃないかと都合の良い想像をしてしまう。
 ……都合良くはないか。寧ろ不気味だ。
 私の性格からすればいっそ認めて貰える方が清々しくて好ましいのかもしれない。
 しかし、認めて貰えたとてどうなるというのだろう。私と沼地の間に今以上の関係なんて望むべくもない。
 なんのことはない。
 彼女がそうするなら、私もなかったことにしてしまえば良いのだ。
 それだけ。
 ただ、コートの中で私の視線に気付いた沼地が目を細めて笑う意味有り気な表情に、あの時見上げた面影がないか、私はこれからも探し続けることになるのだろうか。
 あの日から私は体育倉庫に入っていない。

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