僕の神原がボブカットになった

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03

 私の先輩が帰って来ない。

「お邪魔しまーす。うわあ、相変わらず酷いですね。お部屋が変わってもぐっちゃぐちゃですね」
 私こと神原駿河が寝起きしている部屋に足を踏み入れて早々、彼はそんな風に自分の口元を覆った。真っ黒い手袋で包まれた、己の掌で。
「面積がコンパクトになった分、悪化してませんか? 地獄の釜の蓋でも開けたのかと思いましたよ」
 彼こと忍野扇くんの指摘は中々言い得て妙だったが、その比喩は私ではなく彼にこそ相応しいのではないか、なんてやや不埒なことを思う。あの人は今頃どんな地獄を見ているのやら。
 阿良々木先輩が失踪して、なんと十日が経とうとしている。そろそろ大学の単位を落とさないか、本気で心配になってくる頃だ――と、それはさて置いて。私の胸中に、心配事がもう一つ。
 部屋が散らかってきたのだ。
 部屋というか、家が。阿良々木先輩と家賃を折半しているアパートメントが。
 このままだと、阿良々木先輩が帰って来た時に怒られるんじゃないか……そんな懸念が、私に忍野扇を招集させるに至らしめた。
「じゃあ、手筈通りに」
「はーい。この忍野扇、駿河先輩のエロ奴隷として、身を粉にして働かせて頂きますよ」
「出来ればエロ奴隷としてではなく働いてくれないかな? なんかニュアンスが違っちゃってくるから……」
「言われなくても分かってますって。もしもこのタイミングで阿良々木先輩が帰ってきたとしても、『身体だけの関係でした』としらを切れば良いんでしょう?」
「うん。きみが私の話を全く聞く気がないことは分かった」
 つまり、かなりの危機的状況であると解釈してくれて良い。
 兎にも角にも、怒られるのは嫌だ。
「この場合、怒って良いのは駿河先輩の方だと思いますけどね。彼女を置いたまま十日も住まいを留守にするなんて、どう贔屓目に見ても普通じゃありませんよ」
 そうなのだろうか?
 しかし、それを気にしない贔屓目を持ち合わせていないと、あの人と一緒に居られないのは事実だろう。
 私の頭の隅でそんな考えが過ったが、発言主の扇くんはさっさと部屋のごちゃごちゃに取り掛かっていた。片手に握るゴミ袋と火バサミ(一体そんなものどこから用意したんだ? 私の部屋が火事場の跡の様だとでも皮肉っているのか?)が頼もしい。
「この惨状が今日中に片付くとも思えませんけどねえ。駿河先輩ってば、阿良々木先輩がいないと何にも出来ないんじゃないですか?」
「そんなことはない。ただ、人には出来ることと出来ないことがある」
「なるほど。自分が脱ぎ散らかした洗濯物を洗濯機に入れることすら、駿河先輩にとっては出来ないことだと」
 それはちょっと無精しただけだ。とは言わないでおく。また新たな煽りの種になるだけだということが簡単に推し量れたからだ。
 はたまた、献身的に片付けを手伝ってくれている扇くんを睨むことは出来なかった、とも言える。阿良々木先輩相手ならともかく、流石に後輩の手を焼かせておいて、冷たい態度を取れる私でもない。今なら彼が積極的に私のワイシャツやらセーターやらスパッツやらを拾い集めるていることにも、黙って目を瞑ってみせようじゃないか。
「おや? 下着は落ちていないようですが、ひょっとして今日の駿河先輩、ノーパンですか?」
「それは流石に気を遣ったんだよ。一応」
「ははあ。僕に気を遣った故のノーパンですか。心配せずとも、僕は下着を穿いているくらいであなたを嫌いになりはしませんよ」
「きみの好感度は下がりまくりだけどな。パンツの話から離れろ」
「駿河先輩にあるまじき発言ですね」
 目を瞑りきれなかった。相変わらず話の腰を、もとい発言の腰を折る子が上手い子である。よくもまあ、そんなに舌を回しながら手を動かせるものだ。
「こちらは捨ててしまっても良いんですか?」
 確認の声に振り向くと、取り上げられていた(鉄の棒の先で持ち上げられたとも言う)のは髪を結ぶ為のシュシュだった。
「ん? ああ、良いぞ」
 もう結ぶほど長くもないしな、と私は頭の後ろを掻く。
 そして、所詮他人の物だからだろうか――扇くんは惜し気もなく、そのヘアアクセサリーをゴミ袋に放り込んでしまった。……ここで勿体無いと思ってしまう辺りが、私が片付けが苦手な要因の一つなのかもしれない。
「惜しむくらいだったら人に頼らないでくださいよ」
「いや、そうなのだが……きみにはものを大切しようという心掛けはないのか?」
「片付けられない人って皆そう言いますねよねー。でも、それで大切に出来ているのは自分の価値観でしょう? 勘違いも甚だしいです」
 なんて、扇くんは苛烈なことを言った。
 私が怒るべきタイミングは、阿良々木先輩が帰って来た時ではなく今この瞬間なのではないか。そう考えて、すぐにそのくすぶった気持ちを揉み消した。
「それに、僕は短い方が好きですし。これっぽっちも惜しくありませんね。ほら、駿河先輩らしいじゃないですか」
「……はあ」
 みんな好き勝手言うなあ。
 今この時をもってして、阿良々木先輩が大絶賛したこの髪型は、沼地には短すぎると言われ、扇くんには長すぎると言われてしまったことになるな。と、私は順繰りに相手の顔を脳裏に浮かべてみる。
「好みを伝えた手前で言うのも何ですけれど、別に、髪型くらい駿河先輩の好きにすれば良いんじゃないですか? 誰が何を言おうと、たとえ僕が好意を示そうと、そんなの知ったこっちゃない――みたいな感じが駿河先輩のキャラじゃありませんでしたっけ」
「きみのそれは無視してるといつか大変なことになるんじゃないかって気がしているけれど……まあ、私も丸くなったってことだよ」
「はっはー。まるでお母様のようなことを仰いますね」
「は? お母さん?」
「今年の伏線です。まあまあ、それはともかくとして。そうやって他人の台詞を借りたり、自分の価値を他人に委ね続けているということは、自分がないと主張しているようなものですよ」
「……自分が、ない」
 扇くんに言われた言葉をそのまま口の中で反芻してみる。しかし、そんな中途半端な理解の仕方では飲み込めなかったのだと思う。

 次に私の口は、彼を相手取るにしては珍しく、反論のような台詞を吐き始めた。
「なんというか……他人から好かれる努力をし続けること――それを怠ると、叱られるんじゃないか。なんとなく、そんな気がするんだ」
 その対象が『不特定多数の他人』から『あの人』に変わっただけの話である。
 叱られるのは、怒られるのは嫌だ。
 そんな他人任せな考え方だからこそ、自分がないと称され、それこそ私の愚かさを指摘されかねないのだが。悲しいかな、私は本音を偽ることが出来る程、器用な性格ではない――と、そこで私の思考を遮るかのように、扇くんが右手に構えた火バサミで、かちん、と音を立てた。
「成程成程。変なところで勘の良い駿河先輩らしい見解だと思います。そういうのは僕も好きです。でも――叱られるって、誰からですか?」
「好きな人達に」

 

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